声なき絶叫――黙役のアリア
霧原ミハウ(Mironow)
声なき絶叫――黙役のアリア
一九九三年のモスクワは、薄灰色の空に吊られた巨大なやかんだった。湯気も出ないのに、街じゅうが湿っている。トロリーバスの架線が悲鳴のように鳴り、道端の露店ではスニッカーズとマールボロと偽ブランドの香水が同じ段ボールに並んでいる。
劇場から寄宿舎へ戻る少年たちの手には、学校指定の黒い楽譜ケースと、親から渡された青いナイロン袋。
十一歳のサーシャにとって、世界は二つでしかなかった。
一つはスヴォーロフ記念合唱学校の寄宿舎――ペンキが途中で尽きたのか途中から色味が変わる緑色の壁、リノリウムの床には永遠に乾かないモップの匂い。掲示板には「君たちは国の誇り」の標語が薄く残り、その上から「夕食メニュー:グレーチカ(多め)」が押しピンで留められている。ピアノ室のアップライト「アコード」は低音が冬眠し、調律師が来る日はだいたい停電だ。
もう一つはボリショイ劇場――赤いビロードと金の縁取りの天国のようでいて、楽屋口は市場のように雑然。髪飾りとドライヤーが火花を散らし、舞台係の「気をつけろ、袖!」という怒号と、メイク室のスプレーの霧が空気を切り分ける。
サーシャの「声」は、学校では天使と呼ばれた。だが彼にとって、その天使は黄金の鎖であり、看守でもあった。窓の外で雪解けの泥にボールを落とし悲鳴を上げる同室の少年たちを横目に、彼は今日も譜面台の上の《ソルフェージュ課題・四度跳躍》を睨む。
両親はボリショイの看板歌手――父はゲルマン、母はリーザ。息子のノドは、家族の最後の財産目録に書き込まれている気がした。
転機は、チャイコフスキー《スペードの女王》のキャスト表が貼り出された日だった。少年合唱団が出る第一幕第二場、「兵隊ごっこ」。
「ソロ(隊長役)――サーシャ・チェスノコフ」
リノリウムの床に沈黙が突き刺さった。一番の腕と噂されるアルチョムが、舌打ちして言う。
「さすがはゲルマンとリーザの息子。話が早ぇ。回線は家から舞台直通だな」
「コネ」「七光り」という単語は、暖房のラジエーターの前でよく乾く。
サーシャは何も言い返さなかった。言い返したら、それこそ声で殴ることになるから。
ボリショイのリハーサル室は戦場と市場のあいだにある。
縫製室からはミシンの群れの地鳴り、舞台上ではバトンが上下し、袖では小道具係が剣を数える。「一本足りない? じゃあ今日の決闘は握手で」などと冗談を飛ばし、誰も笑わない。紅茶は金属のポドスタカンニクで配られ、ティーバッグは三回戦まで戦う。
いつもは寄宿舎暮らしで顔を合わせないはずの両親が、稽古ごとに現れた。しかも全装備で。
十八世紀のフロックコートを着込み、顔にはゲルマンのドーランを塗った父が、舞台袖から低く呼ぶ。
「サーシャ!」
振り向けば、血走った恋に取り憑かれた表情の父。役になりきったまま、父親の声で息子に指図。反対側の袖には、豪奢なドレスで悲劇の気配を撒き散らすリーザ役の母。二人は舞台用の光をそのまま持ち込んで、息子の練習を監視する。
「今の一節、リズムが甘い。兵隊の隊長だろ、刃先みたいに!」
「あなた一人のせいでチャイコフスキーが泣くのはイヤよ」
オペラの亡霊に見張られながら歌う息子、という超現実。合唱団の仲間は遠巻きに囁く――「ほら見ろ」「親子共演」――笑いの温度は零度。
アルチョムが肩をすくめる。
「芸術って家内制手工業なんだな」
本番の夜。オケピットから金管が噴き上がり、太鼓がモスクワの空を叩き鳴らす。第一幕第二場。「兵隊ごっこ」が始まる。
列の真ん中から一歩、サーシャが出る。客席は闇。左には値踏みする合唱仲間の横顔。右の袖には、二体の守護神――あるいは監督官。
「いち・に・いち・に・ひだり・みぎ・ひだり・みぎ……」
息を吸う。吸気で世界を吸い込み、吐く息で世界を押し返す。
父も母も、アルチョムも、ボリショイの豪奢も、九三年の泥濘も消えた。残ったのは、チャイコフスキーの拍と、たった一つの旋律。それは天使の声というより、鎖の錆を振り払う刃だった。
降りた幕が上がる。カーテンコールで少年たちがぎこちなくお辞儀する。
袖に戻ると、父は無言でひとつ頷いた。母は「まあ、及第点」とだけ言い、裾を持ち上げて自分の悲劇へ戻っていく。評価は寒いが、公平ではあった。
ボリショイの家庭に生まれた子がまず身につけるのは、正しい発声と、温度のない賛辞の受け取り方だ。
寄宿舎の夜。消灯五分前、アルチョムがサーシャのベッドに腰を下ろす。スプリングが悲鳴を上げる。
「まあまあだったな」
サーシャは頷いた。アルチョムはかすかに微笑み、
「親の七光りだけじゃなかった、ってことにしといてやるよ。で、本番はここからだ。近々ブリテンの《ねじの回転》が来る。マイルズのオーディション。あれは本物だ。お前も受けるんだろ?」
マイルズ――ボーイソプラノの最高峰のひとつ。アルチョムの目は獲物を見ていた。友情は二位、役は一位。
翌日、寮の事務室で電話を受けた。
受話器の向こうから聞こえてくるのは、母の早口。
「マイルズ役、聞いたわよ。すぐ特訓始めるから。いいこと、発音はイギリス式で! 今日から『幽霊は友だち』――そう思い込みなさい」
最後のはメソッドではなく、呪文だ。
数日後、学校の掲示板前は小さな証券取引所のようになった。誰もが噂を売り買いし、将来を空売りする。
サーシャは一番上に貼られた《ねじの回転》の豪華なチラシを見上げる。横ではアルチョムが難所のフレーズを小声でたどる。視線を移すと、掲示板の隅にピンで留められたタイプ用紙が目に入った。
『ピーター・グライムズ』(ベンジャミン・ブリテン)
募集:黙役(歌唱なし)
役名:ジョン(ピーターの徒弟)
年齢:10〜13歳。演技経験不問。
※注:役には、転落時の絶叫(一声)を含む。
歌唱なし――四文字が胸に小さな穴を開ける。そこから冷たい空気が入ってきて、頭が澄む。
絶叫(一声)――括弧がやけに可愛い。内容は可愛くない。
「一声」。一度だけ。だが誰のものでもない、誰にも指導されない一声。父の呼吸でも母のヴィブラートでもない。単なる叫び。音楽であり、非音楽であり、時間の終わりのシグナル。
アルチョムがマイルズの旋律をなぞる間に、サーシャはそっとその紙を抜き取った。自分に小さく言い聞かせる。
「ぼくの声が『歌』だけだとしたら、それは誤解だ」
寄宿舎の廊下は夕食のキャベツスープの匂いでいっぱいだった。ラジエーターがカン、と鳴り、どこかの部屋から誰かの練習する《ピエ・イエス》が割れて聞こえる。外では雪が雨に変わり、泥に戻る準備運動をしている。
サーシャはタイプ用紙を折りたたみ、上着の内ポケットにしまった。マイルズの影から半歩退き、名もない徒弟の一声に半歩踏み込む。その一歩は、九三年のモスクワのどの横断歩道より危ないが、どの信号よりまっすぐだった。
彼は決めた。天使の喉ではなく、人間の胸腔で、たった一度、世界に向かって転落の音を出す。
劇場の裏口はいつも混んでいる。混んでいてちょうどいい。誰にも気づかれずに、自分だけのオーディションへ辿り着けるから。
絶叫――ギャーーーーーッ……
オーディションはうまくいった。結果は合格。やっと自分で役を獲った。
その晩、事務所の黒電話がヒステリックになった。
「黙役ですって? なぜ? どういうこと?」
血走ったような母の声に、サーシャは自分の声を重ねた。
「台詞あるよ。僕にぴったりな言葉なんだ」
――それは言葉ではなく、世の縁で放つ一声。発声練習の先生は、採点できない種類の音。
僕のための台詞だ。
窓の外では、九三年の雪がまた泥に戻ろうとしている。
(了)
声なき絶叫――黙役のアリア 霧原ミハウ(Mironow) @mironow
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