第05話 鏡の中の嘘

【カイ・視点:奴隷市場での「嘘」】

 帰路につく際、少し近道をしようとしたのが間違いだったのかもしれない。

 俺たちが通りかかったのは、中央広場の外れにある区画――非合法な人力売買、いわゆる「裏市場」の近く。

 この文明的な都市の影で、今なお残る灰色の領域。風に乗って、微かに汗と澱んだ空気の臭いが漂ってくる。鉄格子の向こうには、借金や犯罪で自由を奪われた者たちが、商品として並べられているのが見えた。

 俺は無意識に歩調を緩めた。

 これは、没落したとはいえ貴族としての教育を受けた俺の、単なる感傷的な癖だ。救えるあてなどないのに、つい可哀想な子供がいないかと探してしまう。父から受け継いだ「弱者への憐れみ」という名の呪いのようなものだ。

 だが、俺の視線が檻に向けられた、その瞬間だった。

 それまで柔らかく俺に密着していたリアの身体が、まるで石のように硬直した。

「…………汚い」

 蚊の鳴くような、けれど異常な拒絶を含んだ声。

「リア?」

 グイッ、と袖を強く引かれた。

 見ると、リアは俯いたまま、ガタガタと小刻みに震えている。彼女は檻の中の同族たちを見ようともしない。それどころか、俺の視線を遮るように、必死に身体を割り込ませてくる。

「ご主人様……見ないで」

 それは懇願だった。悲痛なまでの叫びだった。

「あっち……汚いから。あいつら……すごく臭い。汚れてる」

「見ないで……お願い、あんな汚いもの、見ないで……」

 俺は言葉を失った。

 汚い? 臭い?

 彼女自身、つい先日まであの檻の中にいたはずだ。あの場所の寒さも、惨めさも、理不尽さも、誰よりも知っているはずなのに。

 それなのに彼女は今、かつての同胞たちを、まるで汚物を見るかのような言葉で罵り、俺から遠ざけようとしている。

「リア……」

「行きたくない……あそこはダメ……」

 彼女が顔を上げる。

 フードの下の瞳には涙が溜まっていたが、その瞳孔は必死さで見開かれていた。

「カイ様のそばには……リアがいればいいでしょ? ね? リアは……リアはキレイに洗ったから……」

 胸が、締め付けられるように痛んだ。

 彼女は怯えているのだ。

 あの薄汚れた場所が、俺たちの今の「清潔で温かい生活」を侵食するのを恐れているのだろうか。

 それとも、俺が他の奴隷に目を向けることで、自分の居場所がなくなると思っているのか。

 自分の過去を否定し、同族を「汚い」と蔑むことでしか、自分の価値と安全を確認できない。

 なんと卑小で、いじらしく、そして悲しい防衛本能なのだろう。

「……すまない。俺が悪かった。すぐに帰ろう」

 俺は彼女の冷え切った小さな手を握り返し、その場から逃げるように早足で歩き出した。

 罪悪感のせいで、俺は気づけなかった。

 彼女の爪が、痛いほどに俺の腕に食い込んでいることに。

 その力強さが、恐怖によるものではなく――自分の所有物を誰にも触れさせまいとする、子供のような純粋な独占欲によるものだということに。

【リア・視点:鏡の中のヒミツ】

 カチャリ、とドアが閉まる音がして、カイ様の後ろ姿がキッチンへと消えた。

 その瞬間、今までリビングを満たしていた温かい空気がふっと薄れ、あたりが冷たく静まり返ったような気がした。

 私は毛足の長いカーペットにペタンと座り込んだまま、買ってもらったばかりのつぎはぎだらけの熊を、壊れてしまいそうなほど強く抱きしめていた。

 右手には、最後の一口だけ残った焼き菓子の串が握られている。指先は溶けた糖蜜でベタベタしていた。

「……あまい」

 呟きは空気に溶ける。

 けれど、このわずかな甘さじゃ足りない。カイ様がそばにいない、たった数秒の空白という黒い穴を埋めるには、全然足りない。

 脳裏に、さっきの市場の光景がフラッシュバックする。

 鉄格子の向こうにいた奴隷たち。泥にまみれ、酸っぱいような腐敗臭を漂わせ、濁った目をしていた者たち。

『汚い』

 思い出すだけで、胃の奥がせり上がってくるような嫌悪感が走る。

 彼らを馬鹿にしているわけじゃない。私が吐き気を催したのは、あそこにいたのが――まぎれもない『かつての私』だったからだ。

 ゴミのように扱われ、蹴られ、絶望の悪臭を放っていた”サキュバス”としての自分。

(違う……今のリアは、もう違う)

 私は熊のぬいぐるみに顔を埋め、肺が痛くなるほど深く息を吸い込んだ。

 ここにはカイ様の匂いがする。優しい石鹸の香り、日向に干した布団のような安心する匂い。

 臭くない。少しも臭くない。

 カイ様が私を洗ってくれた。真っ白な服を与えてくれた。この温かい家をくれた。

 だから、私は綺麗になったの。

 私は『天使』になったの。

 天使なんだから、あんな汚らわしいモノと関わっちゃいけない。

 カイ様の綺麗な瞳に、あんな不浄なものを映させちゃいけない。あの優しい手が、他の『ゴミ』に触れるなんて許されない。

 あの檻の中の連中は、私を地獄の泥沼へ引きずり戻そうとする亡者だ。

 カイ様の世界から追い出さないと……あんな汚いもの、せっかく手に入れた私の『真っ白』が汚れてしまう。

(カイ様はリアのもの。リアだけが、カイ様の『きれいな子』)

 胸の奥底で、ドロリとした熱い何かが蠢いた。

 それはまるで底なしの胃袋のように、「彼を隠したい」「閉じ込めたい」「誰にも見せたくない」「彼を全部食べてしまいたい」と叫んでいる。

 ……ううん、違う。

 これはきっと、私が『天使』だから。主人を一心に『守りたい』っていう神聖な使命感なんだわ。

 決して、私が強欲で卑しい、満たされることを知らないサキュバスだからじゃない。絶対に違う。

 ふと顔を上げると、目の前に『テレビ』という黒い四角い箱があった。

 電源の落ちた漆黒の画面は鏡のように、今の私を映し出している。

 銀色の髪、純白の服、そして熊を抱いた少女。

 なんて大人しくて、健気で、可愛い姿なんだろう。

 でも、そのオッドアイの奥には、どこか昏くて粘着質な光が揺らめいているように見えた。

 私は手元にあったゲームのコントローラーを拾い上げた。

 カイ様は私がこれで遊んでいると思っていたみたい。本当は、これが何をする道具なのか、さっぱり分からないのに。

 けれど私はそれを強く握りしめた。指の関節が白くなるほどに。

 黒い画面に向けて構える。まるで武器のように、あるいは――錠前のように。

 画面の反射の中で、背後のキッチンのドアが開いた。

 カイ様が、湯気の立つマグカップを持って出てくる。

 黒い鏡面の中にその姿を見つけた瞬間、頭の中の恐ろしい雑音がピタリと止んだ。

 あぁ……あそこにいる。

 私の主人。私の獲物。私の救い。

 無防備に、ゆっくりとこちらへ歩いてくる愛しい人を画面越しに見つめながら、私の口元は勝手に――天使にあるまじきほど――だらしなく吊り上がってしまった。

(この『鏡』の中で、ずっと彼を見張っていればいいんだ)

(私がずっと、言うことを聞く、不器用で『呆れるほど可愛い』子供でいれば、カイ様はずっと私だけを見ていてくれる)

(もし、また汚いゴミが近づいてきたら……)

 私の指が、無意識にコントローラーの裏側をカチャカチャと弾く。乾いた音が響く。

(カイ様の代わりに、私が全部『お掃除』してあげる)

(だって私は、ご主人様を心から愛する、無垢な天使なんだもの)

「リア? ミルク持ってきたよ」

 その優しい声が鼓膜を打った瞬間、私は仮面を付け替えるように、だらしなく緩んだ表情を引き締めた。

 振り返った時にはもう、私は怯えと依存を瞳に浮かべた、ただの無邪気な少女に戻っていた。

「……カイ様!」

 私は手柄(さっきからずっと逆さまに持っていた)を放り出し、両手を広げて彼に飛びついた。

 この温かい腕の中で、私はもう一度、心の奥底で誓う。

 この嘘は、一生つき通す。

 彼の心も、身体も、時間も、一滴の汗に至るまで、すべてを絞り取って私だけのものにするその時まで――。

 私は絶対に、完璧な『天使』でい続けてみせる。



ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


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