第04話 甘い勘違いと、つぎはぎの熊

【カイ・視点:安っぽいオカルト雑誌と、愛すべきポンコツ】

 気怠げな午後の日差しが、レースのカーテン越しにリビングの床へとこぼれ落ちていた。

 空気中を舞う塵(ちり)が、光の帯の中で金色の粒子となってキラキラと踊っている。そんな平和な微睡みの中、俺は身体が沈み込むような古いソファに身を預け、一冊の雑誌をパラパラとめくっていた。

 路地裏の露店で二束三文で売られていた古びた雑誌――その名も『世界異種族図鑑・黒の章』。タイトルからして胡散臭さが漂う、いわゆる三流のオカルトゴシップ誌だ。

 暇つぶしにページを捲り、四十四ページ目で手が止まる。

 そこには、『サキュバス(魅魔)』という名の生物が特集されていた。

 挿絵画家の悪趣味な想像力が爆発したのだろう。描かれているのは、ねじれた山羊のような角に、滴る鮮血、そして鋭利な牙。人間の男に覆いかさり、その精気を骨の髄まで啜り尽くそうとする、まさに悪鬼羅刹のごとき姿だった。

 添えられた煽り文句も、さらに輪をかけて酷い。

『サキュバス:極めて危険な害獣。彼女らは人の皮を被った悪魔であり、その美貌と香りで人心を惑わす。一度魅了されれば最後、心身共に搾り取られ、抜け殻となって死に至るだろう』

「はぁ……よくもまぁ、ここまで適当なことを」

 俺は呆れて雑誌を閉じ、大げさに首を振った。

 確かに、異種族間での生活習慣の違いによる摩擦はある。だが、ここまで怪物扱いするのは偏見が過ぎる。多様な種族が当たり前のように共存するこの現代社会で、もし図鑑のような生物が暴れ回っていたら、とっくに社会秩序は崩壊しているはずだ。

 俺は顔を上げ、雑誌の向こう側――部屋の前方へと視線を投げた。

 そこには、我が家の小さな居候の姿がある。

 消えているテレビの前に陣取り、ふかふかのカーペットの上にちょこんと座り込んでいる銀髪の少女、リア。

 こちらに背を向けている彼女の頭からは、特徴的な尖った耳がぴょこぴょこと動いている。その小さな手には、俺が昔使っていた旧式ゲーム機のコントローラーが握られていた。

 画面は真っ暗だというのに、彼女の背中からは並々ならぬ真剣さが漂っている。

 小さな指が、プラスチックのボタンをポチポチ、カチャカチャと不器用に叩く音が室内に響く。時折、コントローラーを頭上に掲げて首を傾げたり、裏返して匂いを嗅いでみたり。挙句の果てには、黒い接続コードの先端を口に含み、「あむあむ」と甘噛みして味を確かめようとしている。

 どうやら彼女にとって、これは未知の古代遺物か、あるいは細長い新種の「おやつ」に見えているらしい。

 しかもよく見れば、コントローラーの上下が逆だ。

 その、あまりにも無防備で、呆れるほどポンコツな後ろ姿。

 あんな挿絵の「人類を滅ぼす妖女」が実在するかは知らないが、少なくともここにいるのは、それとは対極に位置する無害な生き物だ。

「まったく……コントローラーの持ち方も分からない小動物じゃないか」

 俺は苦笑しながら、デタラメな図鑑をソファの脇へと放り投げた。

 架空の怪物の心配をする暇があるなら、目の前のこの不器用な少女をどうやって楽しませてやるか、それを考える方がよほど建設的だ。

【カイ・視点:初めての外出と「てるてる坊主」】

「リア、その辺にしておきな。今日はいい天気だ、少し外の空気を吸いに行こう」

 俺が声をかけると、リアのぴょこぴょこ動いていた耳がシュンと垂れ下がり、細い肩がビクリと跳ねた。

 ゆっくりと振り返ったその顔には、異色(オッドアイ)の瞳が不安げに揺れている。好奇心という名の光と、深い怯えという名の影が入り混じった、巣穴から初めて外を覗く小動物のような表情。

 彼女が何を恐れているのかは、痛いほど分かる。

 「大丈夫だ。これを着ていけば平気だよ」

 俺は用意しておいた、深茶色の厚手のローブを彼女に差し出した。大きめのフードがついた、身体のラインを完全に隠せるものだ。

 リアは無言でこくりと頷き、大人しくそれに袖を通す。

 ぶかぶかの袖からは指先だけがちょこんと覗き、深く被ったフードは彼女の顔の大半を覆い隠した。

 着替え終わった彼女の姿は、まるで歩く麻袋か、あるいは雨乞いのための「てるてる坊主」のようだ。少し滑稽で、けれど世界から身を隠そうと必死なその姿がいじらしくて、胸が締め付けられるほど可愛い。

 一歩、家の外へと踏み出す。

 途端に、リアは俺の左腕にへばりついた。

 腕を組むというレベルではない。まるで磁石が吸い寄せられるように、全身で俺の腕にしがみつき、自分の存在を俺の体温に溶け込ませようとしている。

「わぁっ……!」

 大通りの方で大道芸人が景気づけに炎を吹いた瞬間、歓声と共にリアの短く怯えた声が漏れた。

 彼女はビクッと身を竦め、俺の袖の布地に顔をうずめるようにして隠れてしまう。

「大丈夫、あれはただの手品だ。怖いものじゃないよ」

 俺はフードの上から、ポンポンと優しくその頭を撫でた。

 小刻みに震える彼女の体温が伝わってくる。

 こうして誰かに全身全霊で頼られ、唯一の避難所として縋られる感覚――正直に言えば、それは男として悪い気分ではなかった。

【カイ・視点:守護者としての虚勢】

 休日で賑わう市場の細い路地を抜けようとした時、不運なトラブルが舞い込んだ。

 昼間から酒瓶を片手に千鳥足で歩いていた、二人の大柄な獣人の男たち。下を向いて歩いていたリアが、避けきれずにその一人と肩を接触させてしまったのだ。

「ああん? どこ見て歩いてんだ、クソガキが!」

 豚の顔をしたオーク族の男が、酒臭い息を吐き散らしながら怒鳴り声を上げた。その太い腕が荒々しく伸び、リアの華奢な肩を突き飛ばそうとする。

 リアは恐怖で全身を硬直させ、悲鳴すら上げられないまま、ギュッと目を閉じて衝撃に備えた。

 その瞬間、俺の心臓も早鐘を打った。

 体格差は歴然だ。元貴族のボンボンで、肉体労働とは無縁の俺が、筋肉の塊のようなオークに勝てるはずがない。

 だが――思考よりも先に、身体が勝手に動いていた。

 俺は一歩踏み込み、リアと男の間に滑り込むようにして割って入った。

 背中に震える小さな温もりを感じながら、男の視線を正面から受け止める。

「失礼。うちの連れが不注意でした」

 震えそうになる声を腹に力を入れて押し殺し、俺は努めて冷静に、かつ冷徹な眼差しを作って男を見上げた。背筋を伸ばし、決して引かないという意志を示す。

「確かにぶつかったのはこちらです。ですが、これだけ大勢の目がある中で、か弱い『市民』の子供に暴力を振るうとなれば……治安維持局の方々も黙ってはいないでしょうね?」

 俺はあえて少し声を張り、周囲の野次馬を意識させるように視線を巡らせた。

 この社会は表面上は平等だ。だが、やはり「人間」が社会の基盤を作っている以上、トラブルが起きた際、治安官や世論がどちらに同情的になりやすいか――その「微妙な優待」のルールは、暗黙の了解として存在している。

 オークの男は一瞬言葉に詰まった。

 俺の痩せっぽちだが毅然とした態度。そして周囲から注がれ始めた、酔っ払いへの冷ややかな視線。

 警察沙汰になれば分が悪いのは自分たちだと、酒に浸った脳みそでも理解したのだろう。男は忌々しげに舌打ちをした。

「チッ……しらけるぜ。行くぞ」

「お、おい待てよ」

 彼らは捨て台詞を吐き、肩を揺らして去っていった。

 ふぅ、と深く息を吐き出す。

 握りしめていた拳を開くと、掌は冷や汗でびっしょりと濡れていた。心臓がバクバクと言っている。

 大丈夫か、と声をかけようと振り返ると、リアが呆然と俺を見上げていた。

 フードの奥から覗くその瞳。

 そこには、今まで見たことのないような熱っぽい光が揺らめいていた。

 それはまるで、ただの人間である俺を、天から舞い降りた守護神か何かのように崇める目だった。

「カイ様……すごい……」

 彼女の唇から、祈るような呟きが漏れる。

 俺の上着の裾を掴んでいる彼女の指先は、布地が破れんばかりに強く、白くなるほどに食い込んでいた。

【カイ・視点:砂糖菓子とつぎはぎの熊】

 先ほどのピリついた空気を払拭するため、俺たちは屋台が並ぶ広場へと移動した。甘い香りが漂っている。

「ほら、これ食べるか?」

 俺は蜂蜜をたっぷり塗って焼いた、串刺しの焼き菓子を買って手渡した。

 リアはそれを、まるで神から賜った聖遺物であるかのように両手で恭しく受け取った。そして、小さな桜色の舌先を出し、恐る恐る表面を舐める。

 とろりとした甘さが広がった瞬間、彼女の表情がふわりと綻んだ。口元に微かに残った琥珀色の糖蜜が、妙に艶めかしく、そして愛らしい。

 そのまま歩いていると、一軒の古びた雑貨屋の前を通りかかった。

 リアの足が、ピタリと止まる。

 彼女の視線が釘付けになっていたのは、ワゴンの中に無造作に放り込まれた、端切れ布で作られた手作りのぬいぐるみだった。

 いびつな形の、つぎはぎだらけの熊の人形。

 だが、リアはすぐにハッとしたように視線を逸らし、俯いてしまった。自分のような身分の者が、そんな愛らしいものを欲しがってはいけないと、自分自身を戒めるように。

「店主、これをもらうよ」

 俺は迷わず銅貨を取り出し、その熊を掴み上げた。

 そして、驚くリアの胸元へ、強引にそのぐるみを押し付ける。

「え……? あ、あの……?」

「お前のだよ。欲しかったんだろ?」

「で、でも……私なんかが……」

「いいから持っておきな。女の子なんだ、寝る時に抱きしめる相手くらい必要だろ?」

 リアは、その不格好な熊を抱きしめた。

 顔をぬいぐるみの頭に押し付けるように埋める。

 表情は見えない。けれど、ポツリ、ポツリと、ぬいぐるみのつぎはぎだらけの布地に、透明な染みが広がっていくのが見えた。

「ありがとう……ありがとうございます、カイ様……」

 震える声が、雑踏の中に消えていく。俺は何も言わず、ただ隣に寄り添った。

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