ぬばたまの、
惟風
ある男の手記
前回の診察ではほとんど待ち時間もなくスムーズに受診できたせいで、すっかり油断していた。今日は予約していたよりも大分待たされた。世の中どれだけ病人がいるのだ。どこからこんなに湧いてくるのか、少しは間引いたらどうだ、とうんざりさせられた。診察が終わる頃にはもうへとへとだった。
うんざりすると言えば、治療行為自体に私はもう辟易している。もう手遅れだというのに。私の頭の中のできものは日に日に膨らんで、どうしようもないことくらいわかっている。みっともなく悪あがきをして、私みたいな人間が長生きしてどうなる、とこのところ思っている。娘にもこれ以上迷惑をかけたくない。本来なら自分から命を断つべきだが、周りへの迷惑を考えると踏み切れない。とにかく一刻も早く私は死ぬべきなのだ。思い残すことはないとは言えないが、やらなければいけないことも無い。
死ぬまでにはまだほんの少しだけ猶予があり、その時間をいかに見苦しくなく過ごすか、が目下の課題だ。食事にしろ排泄にしろ、自分でできることは最後までやりきりたい。
そのための手指と頭のリハビリとして、日記でも何でも良いから文章を書くと良いと主治医に勧められた。日記と言われても、毎日多量の薬を飲み飯を食い寝ているだけの繰り返しで、記録に残すような目新しいことはない。退屈極まりない作業だ。何故死を目前にしてそんな苦行を増やさなければいけないのか。元来私は悪筆で、病気をしてからは輪をかけて字が崩れてきている。指先に力が入らず、どうしても震えてしまうのだ。一文字一文字、溜息が出るほどに汚くて嫌になる。
ならばせめて、書きたいものを書くべきだ。続ける気力を維持できるものが良い。
そこで私は、悍ましくも輝かしい“ある思い出”について、縮んだ脳みそからそれを取り出し、書き残してみようと思うに至った。
病気のせいか薬のせいかどうも頭が以前よりぼんやりとして、文字の形だけでなく文章の内容自体がまともなものを綴れる気がしない。そもそもこれをいつか誰かが読むのかどうか、理解してもらえるのか、わからない。
だから、面白みのあるものを書こうと気負うのは止めよう。
今はただ、私の愚かさと罪――私自身は正直全く罪などとは思っていないが、世間的には重罪であるためにそう書かざるを得ない――をここに記していきたい。書いたとて自分で読み返す気はない。醜い自分に向き合う、反省するなどという御立派な行為は、死んでもできそうにないのだ。
さてどこから書いたものか。私の半生自体は特筆できるようなものはない。つまらない親兄弟に囲まれて育ちつまらない学校を卒業し、パッとしない仕事をして一人の女と結婚し一人の子供をもうけて育てた。それだけだ。
ただそんなくだらない人生の中で、忌まわしい熱狂に身を浸した時期があった。ずっと胸に抱えていた。絶対に秘密にしなければならないと言われていた。誰かに言いたかった。約束を破ったところで、罰される前に私は死ぬ。それなら、ずっと自分の胸の内から出したかったものを出し切ってしまいたい。
これはまぎれもなく本当に私が体験したことである。しかし誰も信じないだろう(もしも誰かが読むのであれば、だが)。それで良い。頭の病気にかかっておかしくなった男が、妄想と幻覚に取り憑かれて死の間際に書き殴った三文小説ということにしておこう。
あの日、私は確固たる意志を持って、そして半ば嬉々として一人の人間を殺した。他にも大勢の人間が死んだ。血の匂い、悲鳴、命乞い……どれも、病に侵食されている今でも鮮明に思い出せる。
思い出というのは何度も思い出すことで強化され、忘れにくくなると聞いたことがある。あの日のことを私は脳内で何度も再体験した。だから、頭の病にかかっても尚こんなにも細部まで覚えていられるのだろう。
それがどのような経緯で行われたか、記憶の限りをここに書いていこうと思う。
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