リアル戦国時代

鷹山トシキ

第1話 白い嘘のキャンバス 飯塚誠

 2025年12月5日、新潟県湯沢町・苗場スキー場

​初冬の苗場は、まだ営業開始前の静寂に包まれていた。ゲレンデには薄く雪が積もり、白と黒のコントラストが際立っている。この静寂を破ったのは、低く唸るような異音、そして空を切り裂く不快な風切り音だった。

​ 飯塚誠(42歳)は、苗場スキー場運営会社で20年間、圧雪車の整備とゲレンデ管理を任されてきた叩き上げのベテランだ。その日も、彼はシーズンインに向けてリフトの最終点検を行っていた。

​ 午前11時頃、第4高速リフトの山頂駅付近で、誠は異様な光景を目の当たりにした。

​ 彼の視線の先、許可された飛行高度を無視するように、山肌すれすれをホバリングしている一機のヘリコプターがあった。機体は完全にマットブラックに塗装され、太陽光を吸い込むかのように輝きを放たない。最も奇妙なのは、通常ヘリコプターに義務付けられているはずの所属を示すマーキングやレジスタンスナンバーが一切確認できないことだった。

​「なんだ、あれは……?」

​ 誠はポケットから双眼鏡を取り出し、ズームで機体を覗いた。機体の腹部からは、細く黒いワイヤーのようなものが垂れ下がり、雪面に接触寸前の位置で、円筒形をした銀色の物体をゆっくりと降ろしていた。それは、気象観測用のゾンデにしては頑丈すぎ、また救助用の装備にしては奇妙な形状をしていた。

​ 銀色の物体が雪面に静かに置かれると、ヘリは直ちにワイヤーを巻き上げ、まるで音速を無視するかのように、あっという間に高度を上げ、日本海方向の雲の中に消えた。その一連の動作には、熟練したパイロットの異常なまでの正確さと、急いでいる切迫感が共存していた。

​ 誠は急いでリフトから降り、スノーモービルで銀色の物体が投下された地点へと急いだ。

 

​ 誠が現場に到着したとき、雪の上に残されていたのは、約30センチの円筒形の装置だった。周囲は雪が溶けているわけでもなく、ただ装置が静かに置かれている。誠が恐る恐るそれを拾い上げると、ずしりとした重みが手に伝わった。表面は金属ではなく、強化プラスチックのような素材でできており、側面に小さなLEDランプが点滅していた。

​ 彼はすぐに携帯電話を取り、上司である運営部長の藤田に連絡を入れた。

​「部長、大変です。今、ゲレンデに正体不明のヘリが怪しい物を投下していきました。警察に通報すべきかと……」

​ 藤田の声は電話越しにもかかわらず、苛立ちと動揺が混じっていた。

​「飯塚、待て! 今すぐにその物体から離れろ。そして、誰にもこのことを話すな。警察にもだ。いいか、お前は何も見ていないし、何も拾っていない」

​「しかし、部長、これは不法侵入ですよ。それに、テロの可能性だって――」

​「黙れ! これは上からの指示だ。――いいか、これは我々の『特別な客』に関する問題だ。その物体は私が回収する。お前は定位置に戻り、通常の業務を続けろ。この件は、お前と私だけの秘密だ」

​ 誠は電話を切った後も、手のひらに乗る装置の重さを感じていた。運営会社が、この不審な軍事的な行動を「特別な客」として認識しているという事実は、彼にとって雪崩のような衝撃だった。

​ 翌日、藤田部長は誠から装置を回収したが、その際に漏らした一言が誠の疑念を確信に変えた。

​「これは、地下の『匂い』を探るための道具らしい。我々の土地の下には、どうやら金よりも価値のあるものが眠っているようだ……」

​ その日以来、黒塗りのヘリコプターは不定期に、しかし確実に苗場の上空に現れ続けた。飯塚誠は、自らが長年愛した雪と山が、知らないうちに巨大な利権と秘密の戦場へと変貌しつつあることを悟った。そして、彼は知るべきではないこの秘密を、どう扱うべきか決断を迫られていた。

 誠は、藤田部長が装置を回収する際に見せた、冷酷とも言える決意の顔を忘れられなかった。「金よりも価値のあるもの」。その言葉は、雪解け水のように透明だった苗場の未来に、泥水を流し込むようだった。

​ その夜、誠は冷え切った自室で、古びた歴史書を広げていた。彼の故郷は、戦国時代に上杉家の権力闘争の舞台となった土地に近い。ページをめくる指が止まったのは、「御館の乱」の項だった。

​ 天正6年(1578年)。越後の雄、上杉謙信の死後、その跡目をめぐり、養子である上杉景勝と上杉景虎が越後の地で激突した内乱。

​「御館の乱は、単なる血筋の争いではない。それは、上杉家の領土と権威、そして越後の未来をめぐる、内と外の欲望が絡み合った、最も陰湿な戦であった」

​ 誠の脳裏に、今の苗場が重なる。

​「御館おたて」とは、越後の春日山城下にあった居館の名だ。今、この苗場というスキー場も、外部の「特別な客」と内部の運営会社という権力者にとって、価値あるものを抱える新たな「御館」と化しているのではないか。

 ​上杉景勝(上越の内部権力):おそらく藤田部長、あるいはその背後にいる、この土地の利権を握る者たち。

​ 上杉景虎(関東からの外部勢力):あの黒塗りのヘリコプターと、その背後にいる「特別な客」。

​ 越後の領民(飯塚誠):誠たち現場の人間は、ただ両者の争いに巻き込まれ、静かな生活を奪われようとしている。

​ そして、最も重要なのは、義の旗を掲げた謙信亡き後、越後が利と欲にまみれたということだ。長年、平和な場所として管理してきた苗場も、同じ末路をたどるのか。

​ 誠は、かつて謙信が掲げた「義」とは何かを考えた。この静かな山と、ここで働く人々の生活を守ることが、彼の「義」ではないのか。

​ 12月に入り、ゲレンデ管理の作業は苛酷さを増したが、それ以上に誠の神経を擦り減らしたのは、監視の目だった。

​ 藤田部長は、誠が不審な物体を投下された現場を訪れて以来、彼を「信頼できる側近」のように扱いながらも、その実、常に監視下に置いているようだった。リフト点検の巡回ルートの変更、急な休憩時間のチェック。些細な異変の全てが、誠にとっては警戒信号だった。

​ そして、黒塗りのヘリコプターは、さらに大胆になった。

​ 12月15日。本格的な降雪を控え、ゲレンデは一時的に深い雪に覆われていた。午前2時。圧雪車の最終整備を終え、誠が事務所で仮眠を取ろうとしたとき、ゲレンデ中央、第3ロマンスリフト付近で、複数のライトが不自然に点滅するのを見た。

​ 双眼鏡を覗くと、昨日のヘリコプターが降り立っており、その周囲には複数の人物が作業をしていた。彼らはスキーウェアではなく、黒い特殊な作業服を着ており、携帯している道具も、スキー場とは無縁の掘削用の重機のように見えた。

​「地下の『匂い』を探るための道具……」

​ 藤田部長の言葉が蘇る。彼らは調査を終え、掘削という次の段階に進んでいたのだ。

​ 誠は、このままでは苗場の山肌が、そして自身が守ってきた静寂が、利権屋の都合で破壊されてしまうと確信した。彼はただのゲレンデ管理者として、この不正な掘削を黙認することはできなかった。

​「御館の乱の敗者は、全てを失った……」

​ 景虎も景勝も、越後を争う中で、多くの血と信頼を失った。誠は、両陣営の争いに利用されるのではなく、第三の道を選ぶべきだと直感した。

​ 翌朝、誠は藤田部長から与えられた業務を通常通りこなした後、誰にも悟られないよう、事務所の奥にある古いロッカーを開けた。

​ 中には、誠が20年間このスキー場で働き続けた証である、無数の工具、過去の点検記録、そして彼が最も大切にしているものが収められていた。

​それは、頑丈なデジタルカメラだった。

​ 彼は、誰にも気付かれないよう、深夜の行動を始めることを決意した。あのヘリコプターが降り立った場所、掘削が行われているであろう地点の証拠を押さえる。

​ 御館の乱がそうであったように、この秘密の戦いも、最終的には誰が「越後の義」を継ぐかにかかっている。そして、その「義」の証明に必要なのは、武力ではなく、確かな事実だった。

 12月16日 深夜2時。

​ 誠は、小型のスノーモービルに最低限の装備を積み込み、音を立てないよう慎重にゲレンデを登り始めた。極寒の夜、雪に反射する星明かりだけが、彼の道を照らしていた。

​ 第3ロマンスリフトの山頂駅近くまで来たとき、再び低く唸るようなヘリコプターのプロペラ音と、地中を掘る機械の重低音が響いてきた。

 誠はスノーモービルを茂みに隠し、全身を雪に伏せて、暗闇の中に目を凝らした。彼の指は、カメラのシャッターボタンの上に置かれていた。

​「この山は、俺たちのものだ――」

​ 決意の吐息が、夜の空気の中に白く消えた。

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