満月は未だ暗く

@Kanoshiro

始め~終わりまで

 我々は月を知らないが、月は我々を知っている。


 「月――地球唯一の衛星であり、その生い立ちには様々な説が残る。海の満ち引きに始まる一部の自然現象は月に依るものも多い――

 古来より、月は太陽と共に神聖視されてきた。ギリシアのアルテミス、大和のツクヨミ。どこに行こうと月は信仰の対象であり、光であった。

 今だってそうだ。我々は月に願い、月に従う。何もかもが移り変わる中、月だけは変わらずにあるのだ。」

 そこまで読んで、私は本を閉じる。『月と我々』。月から人間を紐解くのに最適な本とは聞いていたが、まさかこう始まるとは。

「眠そうな顔しちゃってさ。もう飽きたのかい?」

 友人が声を掛ける。

「ああ、いや、なんだか疲れちゃって。」

「それを飽きたっていうんだろ。本当に変わらないな、月に興味がなさそうなの。」

「興味なんて持てるわけがないさ。第一、全員が神聖視しているわけでもないのに。」

「それはそうだけどさぁ……、まず今の社会なんて月を基盤に回ってるようなものじゃんか。今日の日付が分かるのだって月で暦を定めてるからだし、今こうやって本を読めるのだって、月の光で発電しているからだし。人に依っちゃあ、月にかかる雲で占いをしてるんだ。月に興味を持たない方が難しいだろ。それに、月は昔から認められてるんだ。藤原道長なんて望月を栄華に例えて俳句まで詠んでるんだぜ。」

「でもさ、こんな月社会なのに月についての調査なんてほとんど進んでないじゃん。怪しさを感じちゃうんだよね。」

「とうとう陰謀論にハマったか。」

 彼は笑って言う。目に黒い光が灯っているように見えた。

「陰謀論ねぇ……。確かに、月が秘匿されているんだとしたらそうなるかも。でもそれと同時に、こうも考えられない?月が月を隠しているってね。」

「月が月を?何を言っているんだ?ってか、興味無いなんて言っておいて、興味大アリじゃん。」

「あー。じゃあ、興味無いって言うのは語弊かも。月を取り巻くこの社会だとか、そもそもの月自身だとか。そういうところに惹かれるんだよ。だからといって、月が全てだとは思わないし、月を神格化しすぎじゃないかって思うだけであって。」

「一人の研究者としてって話か。まあお前、未知のもの好きだもんな。」

「そうそう。伝わって嬉しいよ。」

 その時、腕時計が鳴った。もう22時を優に過ぎている。まだまだ話し足りないものの、これ以上は長居できない。

「もうこんな時間だし、そろそろ帰るわ。またな。」

「おお、そっか。んじゃ。」

 別れの挨拶を軽く済ませて、私はそそくさと書庫を出た。今日も月は輝いていた。きっと、明日も明後日も。

 柔らかな光が私を包んだ。私はそれを不快だと言わんばかりに振り払った。


 凍える夜を通りすぎて、私は家へ戻った。痛いほどに冷たい空気が肌を刺してようやく、出がけにエアコンを点けておくべきだったと後悔した。

 部屋が暖まるのを待つ間、研究の準備でもしておこうと思い立った。そうして私は寝室……いや、倉庫へと向かっていく。

 同じ建物であるのに、倉庫の空気はより強く肌を裂いた。耐えに耐えてなんとか大きな箱を取り出す。埃こそかぶっているが、中身に問題はないだろう。目的を手に、さっと部屋に戻る。こんな空間には長居したくない。

 倉庫の扉を閉めると、部屋はすでに暖まっていた。私は意気揚々と箱を開ける。

 ――天体望遠鏡だ。10、いや20数年前に父が買ったものだ。当時はゲームを買えとせがんだものだが、まさか時を越えて使うことになるとは。

 説明書通りに組み立てていく。幸いにも手先は器用な方で、ものの数分で組み立った。

 すでに時計は25時を指していたが、"対象"と"手段"を手にした私が立ち止まれるはずもなかった。

 月を見ようとベランダに出る。倉庫の空気とは比べ物にならないほど鋭く感じたのは、暖かい部屋から出てきたからだろう。

 月の方に鏡筒を向け、いざ行かんと覗き込む。月だ。黒く光る海は鮮明で、地上のものは平等に照らされていた。

 

 ――私を除いて。


 柔らかかった月の光は風貌を変え、あたかも棘のようになっていた。そのせいか、私は観測者でありながら、同時に観察対象であるとも感じた。

 しかし、その感覚はふっと消えた。なんだか恐ろしくなった私はすぐに部屋に戻り、望遠鏡をしまうのも忘れて布団に潜り込んだ。

 

「恐れとは人を止める最後のブレーキだ。しかし、時として好奇心はこれを簡単に踏み潰す。」

 いつか本で読んだ、誰のものかすらわからない言葉である。

 私は、この言葉の意味を痛いほど理解した。

 

 五日ほど経った頃だろうか。私は再び書庫へ向かっていた。少しでも情報を集めたい――いや、たぶん“安心”を求めていたのだと思う。

 二日目、三日目……と観測を繰り返すうちに、あの嫌な空気にも慣れていった。空気は未だ鋭かったが、初めほど気にならなくなった。

 もはや恐れは無かった。そう信じている。しかし、本能のどこかがあの感覚を“共有”したがっているのを感じた。

 誰でもいい、私と同じものを見た者がいてほしい――そうでなければ、私だけが外側に置かれてしまう気がした。

 書庫の扉を開けると、古さびた紙の香りが広がった。

「よお、久しぶりじゃん。」

 慣れ親しんだ顔がそこにあった。にこりと笑うその顔には私を測らんとする意図があるように感じられた。

「久しぶりだね。元気してた?」

 心の内を悟られないよう、精一杯の笑顔で返した。私の懸念は杞憂である、そう信じたい。

「そういえば研究テーマはもう決めたのかい?各自で研究を進めて、一段落ついたら持ってこいって話だったけど。」

「え?」

 私は意表を突かれて声を裏返した。

 確かに、告知はされていたし、私もその事は知っていた。しかしまさか、他者から"研究"という言葉を聞くことがここまで私を身震いさせるとは。

 私の踏み入れようとしている――もはや片足を突っ込んでいる――領域は、研究の一言で片付けられない、いや片付けてはいけない気がした。

「いや、まだ決めかねてるところ。」

 私は嘘を吐いた。必要な嘘だった。

 この場に来た以上は、無垢なフリをしなければ。

 話を終えると、私はお目当ての小説があるかのように奥へと進み、『種の起源』『リヴァイアサン』『パンセ』――には目もくれず、天文の本を数柵鞄にしまい、カモフラージュの『変身』とともにその場を後にした。


 私は孤独に観測を続けていた。残念ながら、苦労して手に入れた書も私の欲望を満たすものではなかった。


 二十日目だろうか。私は月の裏側を見た。

 可笑しい。――そう。可笑しいのだ。

 地球から月の裏側は見えない。見えるはずがない。

 しかし間違いなく、私は月の裏側を見たのだ。

 

 月の裏は――冷たかった。それも、石の冷たさではない。

 

 からっぽのつめたさ。

 そんざいのかなしさ。

 はりぼてのえがお。


 その瞬間、私は恨めしいほどに懐かしい、あの感覚を思い出すことになる。それも、その時の比でないくらいに。

 伝えたい。この事実を広めたい――。勝手に動こうとする身体とは裏腹に、私の中には一つの疑念があった。

 

 当たり前の話だが、「空」というのは平等だ。誰しもが見上げて、誰しもが見下ろされている。もちろん、空に浮かぶ月についても同様だ。

 ――なら、なぜ月の裏を誰も見ていない?

 今この瞬間に空を見上げるものがいたら、この真実に気づき腰を抜かすだろう。

 世界は広い。私ただ一人が月を見ているなんてこと、にわかに考えがたい。

 ――少し突飛な話をしよう。月を見るという認識自体が間違っているのかもしれない。

 もしこの事実を知るのが私だけで、でも世界は真実を知らないとするなら、「私」が月を見たんじゃなくて、「月」が私に姿を見せたと考えた方が、合理的に思えないか?

 そう、月は日の下を求めている。それを止める力など、人間は持ち得ていない。だから、私達は見ないフリをするのだ。

 

 そこまでいって、私は満足した。その日はもうそれだけでよかった。


――――「なぜかって?そっちの方が幸せだからさ。」

「人はね、真実を嫌っているわけじゃないの。」

「ただ単に、変化を恐れているだけ。それだけさ。」――――

 

 私はまた書庫へと赴いていた。それこそ、「確証」を求めにだが。

 いつものように彼が居る。「大丈夫か?」と声をかける彼の目は、黒いクレヨンで塗りつぶされていた。

 何を話したかなんて覚えていない。それこそ、とりとめのない身の上話とそこいらの世間話でやり過ごした……んだろう。

 いや、これだけは覚えている。違和感のない流れで月の話をして、それで僕は言ったんだ。

 

「ねぇ、月って、本当に月なのかな?」

 

 空気が凍りついたのを覚えている。面と向かわないと聞こえないくらいの声量だったはずなのに、その場にいた全員――少し離れた大学生だとか、本の整理をしている職員だとか、書庫を遊び場にする餓鬼だとか――が一瞬止まって、バツの悪そうな顔をして、またすぐ、こっちには目もくれずに動き始めた。

 友人だけは目をそらすわけにもいかなかったようで、その間ずぅっと私の方を見ていた。でも、目は合わなかった。

「……はは、ホントに陰謀論にはまってるんじゃん。」

 沈黙を裂いたのは彼だった。彼からしても、凍りついたのを空間はどうにも不快だったようで。

「あー……で、そうそう。教授がさ~……」

 何事も無かったと言わんばかりの進行に何かを悟った私は、みせかけの友情を切らないようにしつつその場を繋いで、すぐに帰った。


 私は沈黙した。それこそ、こと人のいる場所においては。

 私は一人の研究者であった。それと同時に、はぐれ者であった。

 厚着をしていけば心地いいのに、薄着になったとたん、私は孤独になった。

 私は黙るほかなかった。


 私は饒舌だ。それこそ、こと紙にペンを走らせているときは。

 私は一人の研究者であった。研究者でしかなかった。

 私の全てが書かれた原稿用紙は、暖炉の前で、雨も降っていないのにうっすらと水気を帯びていた。

 九割、――いや、ほぼ完成と言ってもいい。しかしそれでも、私はこれを燃やすことにする。

 

 私の気づき、私の研究、そして――私の罪。

 全て背負って、消えてくれ。

 

 一つ残らず暖炉に放り込むと、私はコートを羽織り、目深に帽子をかぶって、家――いや、建物を後にした。

 

 私は沈黙を貫いた。 (焦げた紙片を添えて)

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