教授は喰べてしまうほどに、物語を愛している。

ことりいしの

第1話

「――うん、君のは本当に、美味しいですね。ほれぼれするくらい、非常に美しい味をしています」

 インスタントコーヒーを飲む僕の前で、教授はまるで高級レストランのディナーを平らげたかのような表情を浮かべる。上品な髭を携えたその顔には、恍惚とした笑みが浮かんでいた。

 それに対して、僕はコーヒーを飲んで、少し顔を歪める。苦い。教授がせっかく淹れてくれたものだから、きちんと飲みたいけど、苦かった。コーヒーは粉が多すぎるらしい。気休めにくるっとマグカップをまわしてからもう一口飲む。それでもやっぱり苦かった。

「口にあったのなら、良かったです」

「君のは不味かった例がないからね。いつも持ってきてくれるのを楽しみにしているんですよ」

 教授はティーカップを持ち上げ、いくらか温くなった紅茶を啜った。ここは、教授が使っている大学の研究室だ。壁にはいくらかの亀裂が入っていて、床はよくある緑色のリノリウム。ここそこの机には、本棚に入りきらなかった夥しい数の書物が積まれている。

 なのにもかかわらず、教授の手にかかれば、この部屋の情景はいとも簡単に青が茂るブリティッシュガーデンへと変貌してしまう。不思議だ。不思議だけど、僕が大学卒業してもなお、ここに足繫く通ってしまうのはきっとそれが理由のひとつなんだと思う。そういう魅力が、僕の目の前にいる教授にはある。

 教授が口の周りを、ハンカチで拭う。それを見て、僕は姿勢を正した。

「では、今日の評価をくだしましょうか」

「はい、お願いします」

 こほんとわざとらしく咳払いした教授は、目の前の机に数十枚の紙を置く。

 それは蛍光灯の明かりを反射して、自身の白さをこれでもかと言わんばかりに強調していた。

 文字も絵もない、ただの紙切れだった。

「優です」

「本当ですか?」

 教授の評価は優、良、可、不可のよっつ。

 今日は見事に最上の評価だった。

「ええ、もちろんですとも。爽やかな檸檬が香るリーフパイのような味でした」

 いつもながら素晴らしい物語でしたね。とても美味しかったですよ。と言いながら、教授はティーカップを傾けた。

 僕は思わずガッツポーズをしながら、教授がさきほどまで喰べていた紙束を手に取る。さっきまでは真白な紙かと思っていたけど、よく見れば、ところどころに句読点や濁点などが残されていた。

 そう、ここにはさっきまで文字が記されていたのだ。

 でも今は、教授のお腹の中にある。




 教授は物語を喰べる。

 文字ごと物語を喰べる。

 教授は以前、気が付いたときには物語が好きすぎて喰べるていたと教えてくれた。つまり何が言いたいかと言えば、いつ、どういう経緯で、物語を喰べるようになったのかを、彼自身も憶えていないんだろう。

 僕だって、水を飲むようになったときのことや、お米を食べるようになったときのことをまるで憶えていない。だからきっと、それと同じなんだろう。教授にとっては、物心ついたときにはすでに物語は喰べるものだった。だから喰べた。それは当たり前すぎて、記憶に刻まれてすらいない。

 少なくとも僕は、教授のことをそう理解した。


 ついでに昔語りをぽろぽろとした彼は、愛が昂じて文学学者になってしまった、と苦笑いもしていた。

 この研究室には数多の物語が林立している。だがその大部分は、白が誇らしげにその色を主張しているのみだ。どれもこれも、開いても開いても、空白しかない。何度見たとて、狐につままれた気分にならざるを得ない光景だ。


 夢か。

 幻か。


 そう考えた僕を現実に引き戻すように、紙は時に鋭利な角度で僕の手に傷をつけ、朱を滲ませたりする。あるいは、古い書物は端を茶色で彩ってみたりもする。朱や茶は、いくら待ってみても紙から消え失せることはない。

 だが、まれに残されていた黒い文字がある日気づいたら白に吞み込まれていることはあった。

 理由は単純明快。

 教授が喰べているから。

 歴史に遺るような文学作品も、娯楽として日々消費されるような作品も、批評文も、はたまた研究論文も。新聞や雑誌の記事でも。

 いわば活字すべて。

 教授にとってみれば、そのすべてが物語である。

 愛し、喰べる対象となる。

 ゆえに、この部屋に置かれた書物からは文字という文字すべてが白に侵されていた。




 僕が教授の奇怪な体質を知ったのは、大学三年生のときだった。

 当時僕は、適当に大学で単位を取り、適当にバイトで小金を稼ぎ、残った時間すべてを費やして小説を書くという毎日を送っていた。幼い頃から、物語を綴るのが好きだった。とはいえ、高校時代は受験勉強に追われる日々。読書すらままならず、何かを書くなど以ての外であった。その反動か、大学に入ってからというものの、図書館や自室に篭り、ずっと物語を書き散らかしていた。

 蚕が繭を紡ぐように。ただひたすらに。外界から自分を守るかのように。フィクションの世界に懸想して文章を綴り続ける。言葉が自分の中から零れ落ちてくるのを掬うようにして、文字を連ねる。そうすれば、いつの間にか僕の目の前には異世界が広がっていった。パソコンをタイピングする日々。物語を綴るのに没頭しすぎて、そのうち、三年生に進学していたことすら忘れていた。


 だから僕は、学生課に呼び出されるまでゼミの希望申し込み書類を出していないことに気づかなかった。大学三年生はゼミの希望申し込み書を出して、受理してもらって、ゼミの所属しなければならないというのに。

「悪いんだけど、もう枠が残ってる研究室はひとつしかないのよ」

 学生課の職員に示されたのが、教授のゼミだった。ゼミは卒業に際して必修の単位だ。書類を出し忘れた僕に残された道は、教授のゼミに入ることだけだった。

 教授の噂は知っていた。

 本の虫。

 講義もだいたい本の講読をするだけ。

 楽な単位。

 出席もとらない。

 有名な話だ。学生たちの間ではよく出回っている話だった。


 でも、研究室の人気がないのは知らなかった。それは聞いたことがなかったからだ。




 指定された一室をノックする。「どうぞ、開いていますよ」という穏やかな声がする。僕は、失礼しますというごく普通の挨拶を舌の上で転がして扉を開けた。

「君が、ゼミ希望の書類を出し忘れた学生さんですね」

 教授は椅子に深く腰かけ、本のページをめくっていた。彼の周りには多くの本が開かれたままに転がされていた。だが、その本には文字がひとつもなかった。あるのはページ番号くらい。ものによっては、ページ番号すらも欠けていた。本の落丁や乱丁を疑うも、明らかに数が多すぎる。

 頭を傾げる。そんな僕を見て、教授は上品に笑った。

「おや、君はもしかしてこの研究室に来るのが初めてだったかな。反応が初々しいですね。ここには、白い本しかないんですよ」

「白い本……そういう、商品ですか?」

 日記みたいなものだろうか。

「いいえ、言ってみれば食べ終わった後の食器のようなものですよ」

 ぱたりと本を閉じた教授は、僕にその本を手渡す。ぱらぱらとページをめくれば、どこにも文字は書かれていなかった。

「初めまして。私は鈴宮といいます。専門は比較文学。主に日本文学と北欧の文学を取り扱うことが多いですね。あとはイギリス文学もかな」

 教授からの丁寧な挨拶に、僕が慌ててゼミ希望書類を片手に

「挨拶が遅れました。文学部文学科三年の黒河です」

 と頭を下げた。

 すると教授は書類を受け取ったかと思うと、すぐさま「おや、美味しい。ビターチョコレートのようですね」と呟いた。

「え……」

 顔を上げれば、書類の三分の一ほどはもう白くなっていた。ブルーブラックのボールペンで書いたはずの志望理由はもう、そこにはない。

 昨夜、どうにかこうにか絞り出して書いたものであったのに。

「さきほど君は白い本について、興味を示していましたね」

「あ、はい……」

「よく人は、喰べてしまいたいほどなんとかが好きと言ったりしますね。まさしく私のこれは、そういうことなんですよ。私は喰べてしまうほどに、物語が好きなんです」

 気がつけば、書類の上にあった文字はひとつ残らず無くなっていた。ソース一滴も残さずに食べきったお皿のようだった。きわめつけと言わんばかりに、教授は「ごちそうさま」と両手を合わせる。

「教授は、文字を召し上がるんですね……」

 僕の言葉に教授はにこりと微笑んでから、「どちらかと言えば、文学ですが、おおむね、そうですね。君の書く物語は美味しいですね」と言った。


 僕はきっとその光景を生涯忘れないだろうと、そのとき確信した。

 西陽差し込む部屋で、文字を——いや、物語を喰べる教授と出逢ったことを。




「ところで、今年のゼミ生はいないんですか?」

「ええ。正確には、今年もですね。私が請け負ったゼミ生は君だけですよ。まあ、こんな風変わりなゼミに来る学生はいないでしょうね」

 学生の頃はよく知らなかったが、この大学には怪談があったらしい。高校までならわかるが、何で大学にまで「学校の怪談」なるものが存在するのかと思ったが、内容を知って納得した。

 なんでも、「中身が抜かれた本」があるのだという。その本に触れてしまった人は本に引き寄せられ、封じ込められてしまうのだとか。あるいは本が真っ赤に染まるまで血を抜かれるだとか。

 その内実は何てことない。

 教授が喰べてしまった本のことだろう。以前、うっかり図書館の本を喰べてしまい、自費購入しているのを見かけたから、そういうことは頻繁にあるのかもしれない。

 学生の中には怪談の類に敏い者がいる。そういう人たちが「中身が抜かれた本」の怪談が登場した時期と教授がこの大学に着任した時期が重なっていることに気づいた。そこからは噂だ。尾ひれも背びれもついてしまい、挙句にうろこを何重にも纏った魚が、学生の中を悠々と泳いでいる。

 いつしか教授は吸血鬼や鬼などの、それこそ物語に出てくるキャラクターになっていた。

「それより――黒河くん。小説家のデビューが決まったとか。聞きましたよ」

 おめでとうございます、と言いながら、教授は研究室備え付けの冷蔵庫からショートケーキを取り出す。お祝いをしてくれるようだ。少しくすぐったい。


 教授に物語を書いていることがバレたのは、ゼミに入ってからだった。鈴宮ゼミにはそれまでも、そしてそのときもゼミ生がいなかった。だから教授は「最近、君がしていることをゼミでしましょう。読書でも音楽鑑賞でも、映画鑑賞でも」と言った。

 そのときに僕は馬鹿正直に「実は本を書いてて……」と答えた。だから鈴宮ゼミは創作を主とすることになったのだ。そういうわけで、在学中、僕が書いた物語は、ほとんど教授の胃袋に収まった。

 もちろん、どれもコピーだが。

「ありがとうございます。……とはいっても、アンソロジーのひとつなんですけどね」

「それでも素晴らしい功績ですよ。……で、その本はいつ出版されるのでしょうか?」

 少年のように心を躍らせる教授にちらりと視線を送ってから、脇に置いていた鞄へと手を突っ込む。そして文庫本を差し出した。

「これです」

「……読んでも?」

「もちろんです」

 一万字にも満たない、掌編小説だ。すぐに読み終わるだろう。僕は頂いたケーキを突っついた。

 教授は嗜好品を好まない。酒も甘味も煙草も、物語より美しくないからだと教授は言う。ケーキはきっとわざわざ買ってきてくれたのだろう。苺にたっぷりと生クリームをつけて、頬張る。

「素晴らしい物語です。どこか既視感がありましたが」

 教授は笑いながら本を閉じる。きっとそこに文字はないのだろう。

「評価、いただけますか?」

「言わずもがな、優ですよ。白く甘い生クリームに、赤い甘酸っぱい苺をのせたような。うーん、そうですね。山の中にぽつねんと建っているパティスリーで作ったショートケーキのような味でした」

 その言葉を嬉しく思いながら、僕は再び目の前のショートケーキを食べる。じゅわりと生クリームが舌の上でとろけた。教授の舌の上で溶けた僕の文字もきっと、このような味を醸したのだろう。

「ところでこの物語の題名をもう一度確認しようと思ったのに、喰べてしまったんです。教えていただいてもよろしいですか?」

 教授の問いかけにひとつ頷いてから、ショートケーキをインスタントコーヒーで喉の奥へと流し込む。苦かったコーヒーはクリームと溶け合って、柔らかな香ばしさを奏でていた。



「『教授は喰べてしまうほどに、物語を愛している』です」

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教授は喰べてしまうほどに、物語を愛している。 ことりいしの @violetpenguin

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