人生の終止符

久藤涼花

第1話

20代半ば、周りは結婚や出産ラッシュで溢れている。最近は晩婚化が進んでいるとはいえ、やはりこの歳になると何度も結婚式に出席している。人の幸せを感じられるのはとても良い事だと頭では分かっているが、どうしても焦りを感じてしまっている私がいた。


私には同棲して数年経つ彼氏がいる。彼は1つ上で小説家だ。響きは良いかもしれないが、その世界はとても難しく、なかなか売れないのが現実だ。なので同棲と言っても収入源はほぼ私。彼は家で仕事をしつつ、主夫のようなことをいつもしている。変わらない毎日。

何度か結婚に対して彼と話し合ってみたことはあるが、返ってくる言葉はいつも「まだ厳しい。ごめん。」

一体、この"まだ"は、いつまで続くのだろう。何年経っても変わらない関係に限界が見えてきていた。


今日はいつもより帰りが遅くなってしまっていた。部下のミスが定時前に発覚し、グループ全員でそのカバーをしていたのだ。疲れが溜まって、そのままソファーに寝転んでしまっていた。ぼーっと天井を眺めていると、彼がご飯のことを尋ね、やって来た。どうやら今日の夕食は肉じゃがらしい。私の好物だ。

「今日はまた遅かったね。」ぼそっと彼が話しかけてきた。最近は割と早めに帰れていたので、少し気になったみたいだ。

「実はちょっとしたミスがあってね。あと、結婚して辞めちゃった人とか、育休の人とかが一気にいて、その穴埋めもあったのよ。」と少し苦笑いで返した。

「そう。」と言う彼の表情は暗く、重い雰囲気だった。少し気まずい空気が流れ、時計だけが静かに刻まれていた。

箸を置き、ご馳走様と手を合わせる私に「ごめん。」と彼が声をかけてきた。

ごめんって何よ。本当に何よ。


きっと彼と結婚することは出来ないんだろう。ふとそんなことを考えてしまっていた。お金もかかるし、それ以外にも大変なことも多分ある。それに、今の現状に甘えてしまっているのは彼だけじゃない。私もそうだ。

将来についての漠然とした悩みは果てることはなかったが、それを考える暇もないくらいの忙しさが数日続いた。


今日もまた定時で帰れなかった。まさかここまで人がごっそり居なくなるのも考えていなかったし、冬が近くなって感染症が広まってしまったのもある。とにかく今日もとても疲れていた。またソファーに寝そべっているが、彼の姿は見えない。

「あ、今日は外出する日か。」壁にかかっているカレンダーを見ながら思い出した。

ほとんどを家で過ごしている彼だが、たまに出版社に書類を持って行き、そのまま飲みに行ったりしている。

時刻は午後8時。まあ日は越さないだろうと思い、野暮な連絡をするのは辞めておいた。

冷蔵庫を開けると作り置きの夕食があり、それを電子レンジで温めた。久しぶりの1人での食事。いつも自分の帰りを待ち、夕食を共に摂る彼の姿を思い浮かべ、また静かな時間が流れた。


時刻は午後12時。少し遅いと思いながらも日々の疲れのせいか、思考を放棄してそのまま目を閉じてしまっていた。

あれは何時だったのだろうか。スマホの着信音で目が覚めた。何回来ていたのか分からないそれは、なんだか不気味に思えた。

発信者は○○病院。

急いで電話を折り返すと、直ぐに病院に来てください。身元を確認したいので。端的に言われたそれは、まだ夢見心地だった私の頭を動かした。


嫌な予感が的中してしまった。

そのまま駆られるように、部屋着の上にコートを羽織って病院へ向かった。

そこには今朝まで元気だった彼の姿があった。

もう分からないほどに歪んでしまっている彼を見ていると、医者や警官が声をかけてきた。正直、この時の会話はあまり覚えていなかったが、はっきり記憶してるいのは、居眠り運転の車との事故による即死。

辛い、悲しい、苦しいはなくただ衝撃だった。大きな衝撃だけが、自分の心の奥深くに刺さっていた。

帰りもどうしたか覚えていない。ただ呆然としていたら、家に着いていた。

人の気配がしない家。私の心を写しているような真っ暗の。


あれから何日か過ぎた日だった。

彼の母が家に訪れてきた。あの事故があった日も病院にいたらしいが、どうやらすれ違いだったようだ。全く覚えていないから、本当のところは分からないけど。少し気まずいような、私を気遣うような視線を感じ、封じてしまっていた事実が私の脳をかすめてきた。

彼の母に促され、彼の物を整理し始めた。体は動くけど、やっぱり頭が認識していなかったみたいだ。彼の物を触る度に、少しずつあの日のことが思い出されていた。そして、これまでの思い出も同時によみがえってきた。


ペアで買ったグラス。なかなか飲む機会は無かったけど、酔っている彼はいつもより口数が多くなって可愛かった。

私よりも大きい服。まだ彼の匂いが残っていて、不思議と安心感に包まれた。

彼が大事にしていた万年筆。名前の彫られたそれは、私が数年前に贈ったものだった。

自室兼仕事部屋だった彼の部屋には、沢山の本と書類が散乱していた。

とりあえず、机の上に散らばっている書類をまとめていた。すると、そこに私宛の1枚のくしゃくしゃになっている手紙があった。


「僕のこれからをすべて君のために費やしていきたい。僕が生きてきた理由は、君がこの世に生まれてきたからなのだろう。」 何度も書いては消したような跡が、そこに残っていた。ぼやけた視界で何度も、何十回もその文字を辿った。

初めて涙がこぼれたように思えた。頬に伝っていく度に、喉からなんとも言えぬ痛さが走って、言葉にならないような声を上げた。そしてようやく、彼のいない現実を理解した。


「それじゃあ私がこれから生きていく意味はどこにあるんだろう。」

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人生の終止符 久藤涼花 @ryk_kdu

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