第3話 それでも、会いたくなる夜

彼からのメッセージを見た瞬間、胸の奥がざわついた。


「久しぶりに、少し話せる?」


ただそれだけの短い言葉なのに、指が震えた。


会ってはいけない。


そう思ってスマホを伏せたのに、


画面の明かりが消える頃には、返信を打っていた。


――「はい、大丈夫です。」


送信ボタンを押したあと、心臓が早鐘のように鳴る。


止められなかった。


松村さんの「話したい」という一言に、


もう逆らえなくなっている自分がいた。


***


駅前のカフェで待ち合わせた。


彼はいつものようにスーツ姿で、


少し疲れた表情をしていたけれど、


私を見た瞬間、ほっとするように笑った。


「元気だった?」


「はい。松村さんは…?」


「まぁ、なんとか」


テーブルに置かれた彼の手にはめられた指輪が、


店内の照明を受けて小さく光った。


見ないようにしても、目がそちらに引き寄せられる。


話すことなんて特にない。


それでも、彼が目の前にいるだけで心が満たされていく。


「……また、会ってくれてありがとう」


「私も……会いたかったです」


その言葉を口にした瞬間、


彼の目が少しだけ揺れた。


その表情を見て、あぁまた私は、


戻れない場所に足を踏み入れてしまったんだと悟った。


「あのさ…妻のことなんだけど」


松村さんの口から”妻”という言葉が出た瞬間、胸が締め付けられる。


「気づいてたんだ。俺が、深澤と会ってたこと」


「…え?」


「“女がいるの?”って聞かれた。でも、深澤ってことまでは分かってない」


(この流れって、やばいよね?)


胸の奥で不安がざわめき、おでこにじんわり汗が滲んだ。


「でも、結婚してるけど…深澤との関係を終わらせなくていいって言われたんだ」


「…どういうことですか?」


彼は乾いた笑みを浮かべた。


「訳が分からないよね。つまり、”私ではあなたを満たせないから、深澤に満たしてもらいなよ”ってこと」


その言葉に、私は何も返せなかった。


「怒るでもなく、泣くでもなく、淡々と言われてさ…正直、俺は妻にとって何なんだろうって思った」


カップを置くとき、彼の指がわずかに震えていた。


その仕草が、どうしようもなく切なかった。


「ごめんね、突然…こんな話をして」


「いえ…大丈夫です」


「だから…深澤に、妻から何もされることはないと思う」


「…分かりました」


私もコーヒーを一口飲み、息を整えた。


「深澤…ごめん」


「…え?」


「俺から…”終わらせよう”って、言えなくてごめん」


「…松村さん」


「ごめん…、今の俺には、深澤が…」


その先の言葉は、聞かなくても分かった。


私から「少し歩きませんか」と言って、


二人きりになれる場所へ向かった。


***


事が終わり裸のまま二人でベットに横たわる。


松村さんの指輪が視界に入るけれど、今はもう何も感じなかった。


自分の気持ちが、はっきりしたから。


--私はやっぱり、彼が好き。


彼の悲しみを少しでも和らげるなら、この不純な関係を続けようと思う。


いつかは終わる関係でも、


今はお互いにとって必要な関係だから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る