最後の灯りが消える頃
深海 遥
第1話 はじまりの温度
最初に彼を見たのは、入社してすぐの頃。
斜め前のデスクに座るその背中は、いつもどこか疲れて見えた。
誰にでも穏やかで、優しいけれど、目の奥にいつも影がある人。
あの日――残業中のオフィスで、彼が泣きそうな顔をしていた。
誰もいないフロアに、パソコンの光だけが彼の横顔を照らしていた。
声をかけるべきか迷ったけれど、気づけば私は彼の隣に立っていた。
「松村さん、大丈夫ですか?」
そう口にした瞬間、彼の表情がふっと緩んだ。
その笑顔に、胸が少しだけ痛くなった。
もしかしたら、あの瞬間からもう――私は彼に惹かれていたのかもしれない。
「あぁ、深澤さん。大丈夫だよ、ありがとう」
私にそう返事をしても、パソコンに視線を向ける彼の顔はまた泣きそうな顔をしてる。
「何か、ありましたか?」
踏み込んでいいものかと思ったけど、今まで見たことない彼の表情に声をかけずにはいられなかった。
「あぁ…まぁ、家族の話だから」
「あ…なるほど、すいません。他人に言えないこと、ありますよね」
その場しのぎに言葉を並べて、別の話をしようとしたら、彼が口を開いた。
「…聞き流してくれて構わないから、話してもいい?」
「はい…」
「俺、結婚してもう八年なんだけど…奥さんと…何もないんだ」
「何もない…?あぁ」
(あぁ、そういうことか)
「ごめんね、こんな話。ひくよね」
「あっ、いえ。それで…?」
「不妊治療をしていたんだけど、二度流産してから…それ以来、距離ができてしまって」
その一言だけで、彼の中の時間が止まっていることが伝わった。
「俺はまだ妻に対して気持ちはあるし、繋がりたいって思ってるんだけどね」
松村さんのこんなに思い詰めて、苦しそうな顔なんて見たことがない。
(私に何か、出来ることはある?)
あの頃の私は、彼を放ってはおけなかった。
***
松村さんと私は、同じベットで裸で横になっていた。
「私に、出来ることはありますか」
その言葉がどんな意味を持つのか、自分でも分かっていた。
でも、彼の孤独に触れた瞬間、後戻り出来なかった。
「ごめんね、深澤さん。でも、ありがとう」
「謝らないでください」
(私が、言い出したことだし…)
帰り支度をして、松村さんはタクシーを捕まえて私を先に乗せて別々に帰宅した。
あれから月に一度、会社終わりに二人で会ってる。
私と会っていても、松村さんは結婚指輪を外さない。
同じベットで裸になって、松村さんに後ろから抱きしめられる。その時結婚指輪が視界に入ると、胸が苦しくなる。
この関係の先に、幸せなんてない。
それでも、ーー彼の温もりを手放す勇気も、まだ持てない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます