怪談夜話

雪餅兎

覗き穴の女

​そのアパートは東京の郊外、急な坂を登り切った薄暗い路地の奥にあった。

築40年を超える木造二階建ての黄桜荘の壁は薄く、隣人の生活音はもちろん、咳一つ、小さなため息さえも聞こえてくる。


​俺がそこに引っ越してきたのは、仕事で金に困っていたからだ。

初期費用ゼロ、家賃は破格の月3万円。事故物件ではない、と不動産屋は言ったが、玄関のドアを開けた瞬間、生乾きの雑巾のような、カビのような、形容しがたい湿った臭いが鼻についた。


​俺の部屋は二階の角部屋の203号室。

​引っ越しから数日経った夜、妙な出来事が起こり始めた。

​夜中の2時。誰もが寝静まる時間。


「コン…コン…コン…」


規則正しい小さなノックの音が聞こえる。

壁越しだ。

隣の202号室からだろうか。


​最初は気にしなかった。

隣人が何か作業でもしているのだろうと。

だが、そのノックはいつもぴったり3回で止まる。そして、翌日も、その翌日も、決まって深夜2時に3回鳴るのだ。


​気味が悪くなり、ある夜、意を決して壁に耳を当てた。

ノックが来るのを待つ。


​真夜中2時。


「コン…コン…コン…」


予想通り3回。

耳を澄ますが、ノックの音以外、隣からは何の物音もしない。呼吸音も、衣擦れの音も、テレビの音さえも。

まるで誰も住んでいないかのように静まり返っている。


​翌朝、不動産屋に電話をかけた。

「あの、隣の202号室って今、どんな人が住んでますか?」

「え、202号室は空室ですよ。もう半年以上、借り手がいなくて困ってるんですよ」


俺の背筋に冷たいものが走った。

誰も住んでいない部屋から、ノックの音が聞こえる?


​その夜から、俺の恐怖はノック音から別のものへと変わっていった。


​深夜2時。


ノック音は鳴らなかった。

少し安心した気持ちと、妙な不安感が入り交じったような感覚に襲われた。


代わりにドアの覗き穴の向こうに、誰かの気配を感じるようになった。

​気配、というより、視線だ。


​ドアを隔てた向こう側。

本来、誰もいないはずの廊下から、俺の部屋の中をじっと見つめているような、強い圧力。

​好奇心と恐怖がせめぎ合い、俺はついにドアの覗き穴を覗いた。


​廊下は真っ暗だった。


照明が消えているから当然だ。だが、その暗闇の中に一点だけ、白く光るものがあった。




​それは、人の目だった。




​女性のものと思われる眼。

大きすぎるほどの白目。

その瞳孔はこちらを真っ直ぐ見つめている。

距離が近すぎる。

顔全体が覗き穴にへばりついているように見えた。


​俺は悲鳴を飲み込み、反射的に後ずさった。


心臓がうるさく鼓動する。


​次の瞬間、覗き穴の向こうから女の低い、囁くような声が聞こえてきた。

壁が薄いせいで、ドア越しなのにすぐそこで囁かれているように感じた。


​「…ごめんなさい…開けて…」


​開けてはいけない。

本能がそう警告した。

俺は息を殺し、ベッドに身を潜めた。


​どれくらいの時間が経っただろうか。長い沈黙の後、今度はノックが始まった。

​今度は3回ではない。


「コン…コン…コン…コン…コン…コン…コン…コン…コン…コン…」


数え切れないほど連続する猛烈なノック。

ドアが内側から震えるほどだ。


​「開けてよ!お願い!ごめんなさいって言ってるでしょ!開けて!」


​ノックと悲鳴のような懇願が止まらない。

俺は枕で耳を塞いだ。


​ようやく静寂が戻ったのは、朝の光が窓から差し込む直前だった。

​翌日、俺はすぐに引っ越しを決意し不動産屋に連絡した。


​「黄桜荘の203号室なんですけど…」


電話口の不動産屋の声が、妙に落ち着いていた。

「ああ、黄桜荘の203号室さんですね。ええと、お客様…実は203号室は、半年ほど前、覗き穴から部屋を覗いていた女性が、部屋の住人に刺されて亡くなった、いわくつきの部屋でして…」

​「え…事故物件じゃないって…」

​「事故物件ではないんです。正確には、住人が加害者になった殺人事件です。刺した住人はすぐに逮捕されましたが、被害者の女性は…203号室の前の廊下で、息を引き取られました。その女性、ストーカーだったか、精神を病んでいたかで、毎晩のように203号室を覗いていたらしいんです。そして、刺される直前、あの覗き穴から『ごめんなさい、開けて』と、何度も叫んでいたと供述記録に残っています」


​俺の喉が張り付いた。


「じゃ、じゃあ、隣の202号室は?」

​「202号室は、ずっと空室ですよ。半年前に203号室の住人が逮捕されて以来、そこの住人は皆、出ていきましたから。あそこのアパートは、壁が薄いですからね。きっと、亡くなった女性の最後の声が、壁を伝って聞こえていたんでしょう」


​俺はすぐにアパートを出た。

​だが、あの女の低い囁きが、未だに耳から離れない。


​「…ごめんなさい…開けて…」


​そして、あの白い目。

覗き穴の向こうで、こちらをじっと見つめていたあの目。






​俺がアパートを出て数ヶ月後、新しい職場の上司から妙な話を聞いた。

​「この前、アパートを借りたんだが、どうも壁が薄くてな。夜中の2時に、隣の部屋から変なノックが聞こえてくるんだよ。3回だけ、『コン…コン…コン…』って。しかも、誰も住んでないはずの部屋からだっていうんだから気味が悪い」


​その上司が、どこのアパートに住んでいるのかは聞かなかった。

​ただ、俺は知っている。


一度そのノックを聞いてしまったら、もう逃げられない。


​なぜなら、その女は今、どこかの覗き穴から俺の今の部屋を、じっと見つめているかもしれないのだから。

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