2階に行けばいいんじゃないかな

伊藤優作

2階に行けばいいんじゃないかな

 男が家の前に立っていた。すべての支払い能力を失い、すべての支払いから逃れてきたのだ。

 薄く積もった雪が道を行き交う足や自転車のタイヤに踏み固められて固く凍っていた。素寒貧であるにもかかわらず男の格好は妙に身ぎれいだった。腰丈の深い藍色のコートに黒いパンツ、ボタン留めの手袋までしていた。吐く息を白くしてこれから演奏会に行く下層中間階級といってもそう外れてはいなかった。だがもうそんな時代ではなかったし、よく見ると男の服は上にも下にもちりちりと白い埃がついたままになっていて、手袋は非常に安っぽかった。男はまだ自分自身を捨てることができていないのだ。

 その家のファザードは全体的に焦げた炎のような暗い赤で塗りたくられていて、ガス灯を模した洒落た外灯が電気の力で優しくオレンジ色に輝いていた。エントランスのドアは茶色く、中央部には横長の長方形が縦に3つ並べられ、その角にはそれぞれアール・ヌーヴォー調の曲線的で植物的な装飾があしらわれていた。要するにその扉にはなにかがたついた雰囲気があったのだ。男はその扉に近づいて、ドアの左手につけられた呼び鈴を押した。ビーーッというあまり心地よいとはいえない音がドアの奥で響いたのが聞こえた。それから3,4回押したところでドアは内側から開かれ、うんざりしたという表情を隠さない、灰色髪の長く乱れた腰の曲がった老婆が首だけをのっそりとのぞかせたのだ。

「もういっぱいだよ」

「お願いします、もう今日のぶんのパンもないんです」

 老婆は男の上から下を繰り返しなんども睨めつけた。男の首筋を冷たい汗が一筋流れて、垢でほの茶色く汚れた襟の中へ消えていった。

「最近はパスタが安いらしいけどね」

「パスタもないんです」

「ふうん」

 老婆は、お前のことは何から何まで分かっているんだ、その上でわたしはお前の卑しいごまかしに乗ってやるのだ、わかるかお前にこの善意が?という目つきでしばらく男の目をじいっと見ていたが、やがて聞かせるように大きなため息をついてから、

「ほんとうに、いっぱいいっぱいなんですからね」

 といってドアを開け放しにしたままふたたび家の中へ消えていった。男は慌てて扉の隙間に身を乗り入れた。すぐにでも老婆の気が変わって扉を閉めるか分かったものではないと思ったのだ。

 正面で靴を脱いでまっすぐ進もうとするとすでに廊下には薄汚い灰白色の汚れがぬぐいきれないチョッキを着た男の子と女の子がふたり尻を落ち着かせており、親指の先を舐めながら男の方を見ていた。無視して左手にある階段を通り過ぎ、向かって正面にあるドアを開けると、そこには朝方の通勤電車を思わせる満員の紳士たちが、横たわることもできずに片手や両手をあげて立ち並んでいた。一度上げた手を下ろすような余裕がないのだ。肉体の隙間からやっと見えるダイニングテーブルには4つの椅子の背もたれが隙間なくぴったりと張り付いており、すべての辺にふくよかな紳士たちの腹が押し付けられていた。

「いいましたよ! わたしは! いっぱいだっていいましたよねえ!」

 老婆のつんざくような叫びがどこからか聞こえてきた。声はやがてわずか頭上の方へ移動した。優勝した野球チームが監督を胴上げするように、老婆が紳士達の手で宙に舞っていた。正面に見える小窓を横切ってこちらに近づいてきて、思わず男も両腕を上に伸ばして老婆を受け止めた。老婆は男のあたりで左に舵を切りたいらしかった。老婆に触れなくなると両側はふたたび紳士達に詰められて、男もまた挙げた両腕を元に戻せなくなってしまった。男は耐えきれないというように叫んだ。

「ほかに場所はないんですか!廊下にだってこどもがふたりだけでしたよ!せめて数人、廊下に出れば」

「馬鹿かお前は! これだけミチミチになってるってことは、もう他にスペースがないってことだろ! それくらいわからねえのか!」

 そんな言葉遣いをしそうななりの人間ははどこにも見当たらなかったので男はびっくりしてしまった。あるいは見えなかっただけで右手の大窓の近くにでもいるのだろうか。

「スープだ!」

 と、左手に僅かに見えるキッチンのほうから声がして、人波がそちらにギュウウッと移動しようとした。力は男の右側面に加えられ、男はただの媒質でしかないかのようにその力を左へと伝播させた。やがて男の鼻にもスープの湯気が届き、いよいよ男は我慢がきかなくなった。あの状況では、スープには老婆以外誰もありつけないということが瞬時に分かったのだった。

「おばあさん! 他に部屋はないのですか!」

「あるようにみえるかね! あたしはいいましたよ! いっぱいだって!」

「たくさんだ! トイレはありますか!」

「トイレはあるよ」

「どこです! わたしをトイレに行かせてくださいませんか!」

「行ったらいいじゃないか。誰にだってトイレに行く権利がある。トイレに行くも行かぬもおまえの自由だ」

 すると野太い壮年の男の声に続いて部屋中の紳士達が揃って男の方を振り向き、

「自由だ、トイレ、お前は自由〜♪」

 と合唱し始めたので男はいよいよ漏らしそうになり、後ろをすでに塞いでいた肉のバリケードを強引に突破すると元のドアを開けて廊下に転がりでた。数分しかいなかったはずなのに息が荒かった。両膝も両肘も廊下につけて呼吸を整えていると、子どもたちが飢えたハイエナのように近づいてきては、唾液でベタベタの指を男の髪や顔に激しくすりつけてくるのでいっそう怒り狂った男は

「ガキどもが!」

 と叫んで勢いよく立ち上がると、びっくりした子どもたちはきれいに仰向けにひっくりかえってしまった。右手の階段を通り過ぎ突き当りまでいって左側へ曲がると正面と右手に扉があり、正面のドアはノブが回ったものの押してもほとんど動かなかったのでトイレではなく紳士達だろうと男は判断した。となると右手はトイレであり、部屋はほんとうにあの一室しかないのだ、というあんまりな認識が男の下腹部に降りてきた。本当に便意を催し始めたのだ。男は右手のノブに手をかけ勢いよく開いた。

「これはわしのものだ!」

 便座に座っている老爺は下の着物をすべて足首までおろしており、大股を開いているせいで陰茎およびその周囲を覆う鄙びた白い陰毛がはっきりと見えた。便座と肉体とのあいだにある僅かな隙間から、これ以上そうである臭いはないという感じの大便の豊饒な臭いがただよってきて男は顔をしかめた。しかしなにかをはじめなければ、男はここで便意を解消することはできないのだ。

 男は冷や汗から脂汗に変わったみずからの分泌物を思いながら言った。

「これとは、トイレのことですか?」

「間抜け! ここがわしの家だとでも思うのか?」

「いや……失礼しました」

「何が?」

「いやその……思い込みというか」

「つまりお前は、自分が何に対して『失礼しました』と思ったのか、それもわからんというのだな」

「いや、そういうわけでは」

「どういうわけだ! 言うてみい!」

「はいっ! わたしは間抜けです!」

「答えになっておらんだろうが!それは『失礼しました』の!『間抜け』はわしがお前の『トイレのことですか?』について発した言葉じゃろう! お前に何が分かる!」

 男はもう泣きそうだった。老爺はその表情を眺めて満足したのかしてやったりという笑みを浮かべながら言った。

「もちろんここはわしの家だ。しかし同時にばあさんの家でもある。したがってこの家、家屋のことだが、『わしのもの』といえるものはひとつもない。ここまではわかるな」

「これ以上ないほどに」

「……今の発言に関しては、お前の苦悶に免じて追及はせんでおこう。そうなると、『わしのもの』、これは家屋ではない。すると何か?」

 男は崩れ落ちそうになる自分自身の身体を精神の力でやっと支えながら言った。

「そうです、それはあなたのウンチにほかなりません」

「その通りじゃ!」

 老爺は手を叩いて喜んだ。これだけ人が歓喜している様子を見たのは久々だった。

「というわけでわしはこのウンチを他のやつのウンチから守らねばならん。一緒にされてはたまらんし、ましてや流させなどせん。ここはわしのトイレでもあるのだから、婆さんとの擦り合わせ次第では全面的にそれを正当化することが可能なのだ。残念だがおまえにはここでトイレをさせる、すなわち大便にとどまらず小便さえもさせるわけにはいかん。そうだ、婆さんを呼んできてくれんか。このことについて一度、婆さんと協定を結んでおく必要があるからな」

「ここ、ということは、他にトイレがあるのですかあ」

 もはや語尾から崩れつつある男は朦朧としながら朦朧を振り払うように大きな声を出すことしかできない。老爺は両の眉を大きく釣り上げ、男の大きな声をさらに上回る大きな声で笑いながら言った。

「はあっはっはっはあっ♡ おまえは本当に面白いほどの馬鹿者じゃなあ♡ ここに来るまでに、他にトイレを見かけたのか?」

「あぁーりませんでしたあーっ(泣)」

「と、いうことわっ♡ ということはじゃ♡ この家にほかにトイレは……♡」

「ありませえええええええええん♡」

 と同時に男はぼろぎれのような白い下着の中に盛大に脱糞した。下着は見えないからある程度ぼろぼろであっても構わないだろうという男の思い込みが災いした。他の部分同様、股間部分もまた激しく損傷していた。そのため空いた隙間からもれなく大便の切れ端が漏れ出し、男のパンツの裾からいくらかの小ぶりなウンチが床におちてしまったのだ。

「は(怒)」

 と老爺は言った。そして

「支払え……」

と押し殺したような声で言い、また

「Duty……」

とも言った。たしかに老爺はそう言ったのだった。後ろの方から「あの、スープができたんですが」となぜか憤然とした様子の老婆の声が近づいてきた。開いたままの扉から覗いた惨劇に老婆は顔をしかめた。「Dirty……」たしかに老婆はそう言い、男はこのふたりが夫婦であることを今更のように思った。

「スープが」

「そんなことはわかってますよ! 嗅いだら分かるでしょうが!」

「婆さんや、話があるんじゃが、このウンチを守りたい。このトイレをわしのものとしてええかのう?」

「そんなこと、ご自分で決めたらよろしいでしょうが。それよりスープが」

「あー♡ さすが婆さんじゃ♡」

 その先はなかった。老爺をトイレに置きざりにして、男は階段の前まで自らの身体を押し戻し、あとずさりし続けた老婆を恐ろしい形相で睨みつけていた。

「スープだ?」

 男は言った。

「できたんだろ、分かってんだよそんなことは。聞こえてるよ」

 老婆の顔が青くなった。

「聞こえねえのか?」

 その足元ではあのこどもたちがまだ、男に罪深さを是が非でも認識させねばならないとでもいうかのように、わざとらしく仰向けになったままピクピクと痙攣する素振りを見せていたのだった。その片割れである男の子の右手の先に、それまで男のパンツの裾にこびりついていた大便の欠片がひとつ、クリスマスの奇跡のようにこぼれおちた。

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2階に行けばいいんじゃないかな 伊藤優作 @Itou_Cocoon

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