第一話
アトリエは意外と片付いていて、
それはお祖父ちゃんがちゃんと
自分の最期を知っていたことを物語っていた。
あの片付けの苦手なお祖父ちゃんがこんなにアトリエを綺麗に保つなんて今まであり得なかったからだ。
なるべく、淡々と遺品の整理をこなす為、心のスイッチを切ったまま作業に取り掛かろうと決心してやってきたくせに
いざアトリエに入ると、お祖父ちゃんの匂いがまだ残っていて、
それだけでもう大声をあげて泣きそうになってしまう有り様だった。
アトリエの真ん中にあの最後の大作【櫻来坂】が置いてあり、それを観ているだけで延々と時間が過ぎてしまいそうだった。
月夜に咲き乱れる櫻、櫻、櫻。
これを描いているときのお祖父ちゃんは今まで見たこともないくらいの研ぎ澄まされた表情をしていて、正直、描きあがらないで欲しい、と何度も思ってしまった。
何だか、描きあがったら死んでしまうのでは、と感じたからだ。
実際、私の勘はとても冴えていたわけだが、お祖父ちゃんと御飯を食べたり、お風呂に入ったお祖父ちゃん用にあの真っ白い褌を用意したりしていると、どうもまだ大丈夫な気がしてしまい、描かないでほしい、などと云えなくなってしまうのだった。
多分それは、お祖父ちゃんの容姿が、まるで年老いた人のものではなかったからというのも大きく影響しているだろう。
お祖父ちゃんは35歳の頃からある病に侵されていた。その病にお祖父ちゃんが気付いたのが、50を過ぎた頃のことだ。
お祖父ちゃんの日課の一つに、寝る前にバレンタイン14年のウヰスキーをロックでちびちびやりながら、十年日記を付ける、というのがあった。お祖父ちゃんが逝ってしまったら、いつかあの日記を読むことになるんだな、と思っていたのに、そのいつかは、こうやってやって来てしまった。本棚からほとんどのものを出して、段ボールに詰めてから、最後に残っていたしっかりした皮表紙のそれを本棚から取り出して気紛れに頁を繰ってみると、病に気付いた時の頁が出て来た。
『1964年7月14日 おかしい。やはり、おかしい。高校の同窓会に参加。当時の同級生と話し弾むも、小生は何処か違和感を感じる。今日、その違和感の正体に触れた同級生・川居からの一言。『雪村は変わらない。とても50過ぎた容姿ではない。お前は歳を取っていないのではないか。』川居は冗談のようだったが、小生は雷に打たれたようになった。家に帰り、寝ている翠をたたき起こして、今までの家族写真などのアルバムを出してもらい、くまなく見る。愕然とした。34、5の辺りから、何一つ変わっていない。皺も増えておらず、体型もまるで変わらず、白髪もない。髪も抜けていない。歳を重ねていない。あまりの恐怖に翠を前にして、思わず泣く。泣き止むまで翠はずっと小生の肩を抱いていてくれた。翠が、とりあえず寝るように、と優しく言ってくれたので、今日はその言葉に素直に従うことにする。明日、考えよう。』
『1964年7月15日 目が腫れている小生を見て、馨が不思議そうな顔をしていたが、翠が『お父さんは少し悲しいことがあったのだから、優しくしてあげてね』とこっそり耳打ちすると、大きく頷いて、『お父さんが誰かに苛められたら僕が助けに行くから安心して』と勘違いした優しい言葉を残し、颯爽と小学校へ向かった。翠と話し合った結果、徒歩20分ほどのところにある大森病院に行くことにする。まず、医者にどう説明すべきか、というところで悩んだが、ありのまま伝えるしか方法がないと思い、写真なども一応持って診察してもらう。担当は大桐先生。やはり、始めは信じてもらえず、精神科にまわされそうになったが、写真を見せ、精神科の診察を受ける覚悟は承知の上で来た旨と、身体的な検査をした後、結果を見て、何でもなかったら精神科に行くのも遅くはないであろうと、訥々と話したところ、とても真面目に話しを聞いてくれ、細胞の検査を行なうことになった。杞憂に終わると良い。』
もうこの2日間分の日記を読んだだけでお祖父ちゃんの角張った字の羅列に酔い、泣きそうになってしまったので、その時は日記を閉じてしまった。
結局、杞憂には終わらなかったのだ。
雪月華抄 中村Y字路 @yjiro_nakamura
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