第2章 コンペンディウムと、死ぬはずだった騎士


 どれだけ座っていたのか、海斗にはもう分からなかった。

 自分が作った石の立方体を、ただ見つめているだけだった。


 五分? 一時間?

 ここでは時間という概念が溶けている。灰色の霧は濃さも変わらず、太陽は昇らず沈まず、ただ均一で魂を押し潰すような光が降り注ぐだけだ。


 立方体の中の打撃音は、十……いや、五分前にはもう止まっていた。

 センチネルは諦めたのか、それとも次の手を考えているのか。


 海斗は無理やり立ち上がった。膝はまだ震えているが、さっきよりはマシだ。


「よし。論理的に考えろ」

 自分に言い聞かせるのは、難しい案件にぶつかったときの古い癖だった。

「まず、俺は狂ってない。次に、これは夢じゃない。転んだときの痛みがリアルすぎる。そして三番目に……」


 視線を落とす。

 これまで自分の妄想設計で埋まっていたスケッチブックのページは、今は全く違うものになっていた。

 知らない記号と注釈が浮かび、柔らかな金色のインクで淡く光っている。


「三番目、なぜか俺は想像したものを即座に実体化できる」

 声に出して言ってみると、ますます馬鹿げて聞こえた。

「そしてここは……異次元? パラレルワールド? まさにラノベの異世界転移じゃねえか」


 冷たい風が吹き抜け、雷後のオゾンと錆びた鉄の混じった匂いを運んできた。


 海斗は唾を飲み込んだ。

 選択肢は一つしかない。情報が必要だ。そして情報は探索でしか得られない。


 立方体をもう一度確認し、中から音がしないことを確かめてから、彼はまだ踏み入っていない廃墟の奥へと歩き始めた。


 ✦ ✦ ✦


 廃墟は想像以上に広大だった。


 奥へ進むほど奇妙な構造物が増える。

 虚空に消える階段。どこにも繋がらない石の橋。

 壁のレリーフが蠢いているように見えるのは、疲労のせいか、それとも本当に動いているのか。


 最も目を引いたのは、小さな円屋根の建物だった。

 直径五メートルほど。半分瓦礫に埋もれたアーチ型の扉。

 他の廃墟と違い、そこだけが「いる」感じがした。何かに見られているような。


 慎重に近づき、隙間から覗く。

 内部は暗いが、奥から微かな金色の光が漏れている。センチネルの体と同じ光。


「手がかりがあるかもな……」

「あるいは二体目のセンチネルが待ってるか。五十%五十%だ」


 瓦礫を押す。石は見た目よりずっと軽く、ほとんど発泡スチロールのようだった。また一つ、この世界の異常。


 扉が耳を刺す音を立てて開いた。


 中は図書館だった。


 円形の壁をぐるりと囲む石の書架。

 しかし置かれているのは本ではなく、刻印された金属板。

 床には風化した板が散乱している。

 中央に装飾の凝った石の台座。そしてその上に、光を放つ一冊の本。


 海斗は息を呑んだ。


 その本は……生きていた。

 表紙の質感が絶えず変わる。革になったり、石になったり、金属やガラスになったり。

 表面には複雑すぎて見ているだけで頭が痛くなる幾何学模様が刻まれている。


 近づくべきか、自殺行為か、迷っている間に――本が口を開いた。


「遅かったな」


 軽くてやや高めの声。十二時間連続シフトの受付嬢が死ぬほど退屈しているような口調だった。


 海斗は飛び上がり、背後の瓦礫に躓きかけた。

「誰だ!?」


「ここ。台座の上。光ってる本。やあ」


 目を丸くして見つめる。

「本が……喋った?」


「素晴らしい観察力だ。きっと建築アカデミーの首席だったんだろう」

 皮肉がとろりとするほど濃厚だった。

「いや、喋ってる本に『喋ってる?』って聞くような奴は違うか」


「俺――な――意味が分からん――」

 海斗は激しく首を振った。

「いい。本が喋る。もちろんだ。石のゴーレムがいるんだから、喋る本がいてもおかしくない」


「正確にはセンチネル・ゴーレム。そして私は『喋る本』じゃない」

 コンペンディウム――と名乗った本が震えた。

「私は運命建築士団の知識をすべて収めたコンペンディウム・アルキテクトニス! 大建築士ヴァレリウス・カステランが327年前に作り上げた最高位の霊的構築物だ! 『アーティファクト』などと――」


「気分を害しやすい喋る本。メモっと」

 海斗は顔を覆った。

「聞いてくれ。俺は何が起きてるのか、ここがどこなのか、自分がなぜここにいるのか、何も分からない。助けてくれないか?」


「知らない?」

 コンペンディウムは本当に驚いた声を出した。

「君は……アルケアン人じゃないのか?」


「アルケアン? ここがその名前?」

 胸に小さな希望が灯った。

「俺は地球、東京、日本。惑星――」


「異次元だ」

 コンペンディウムが遮った。

「おお。これは面白い。プリムス塔崩落以来、異次元召喚は途絶えていた。誰かがよほど必死か、よほど馬鹿か――今どきそんな儀式をやったんだな」


「待て、つまり誰かが俺を呼んだってこと?」

 怒りと恐怖が混じった。

「誰だ? 何のために?」


「いい質問だ。私には分からない」

 声がまた平坦に戻った。

「私は構築戦争から180年、この廃墟に封じ込められている。情報はかなり古い」


 海斗は拳を握った。

「最高に役に立つな」


「しかし」

 コンペンディウムの声に熱が戻った。

「正式な訓練なしでブループリント実体化をやってのけたという事実は、君の建築士核が非常に強いことを示している。もしかすると最後の世代よりも――」


「ブループリント実体化? この能力の名前か?」


「運命建築士の基礎能力。エッセンス――この世界の霊的エネルギーを用いて設計を現実に変換する。通常は簡単な壁一つ作るのに何十年も訓練が必要だが、君は……」

 言葉を切って。

「見せてくれ。すでに作ったものを」


 海斗はスケッチブックを開き、光るページを見せた。


 コンペンディウムは十秒間、完全に沈黙した。


「ありえない」


「どうした?」


「初遭遇で三種類の異なる構築物――盾、落とし穴、拘束牢――しかも初心者にしては驚くほど安定している」

 声が真剣になった。

「ここに来る前にどれだけ訓練を受けた?」


「訓練……ゼロだ。俺はただの――俺の世界じゃ普通の建築士だ。CADと電卓で設計するだけで、魔法なんて――」


「異次元の建築士」

 コンペンディウムは情報を噛み砕いているようだった。

「なるほど……理に適っている。構造設計の基礎原理は宇宙共通だ。君はただ技術を新しい媒体に移し替えただけ。でもこの適応速度は異常――」


 外から轟音。


 海斗は扉の方を振り返った。

「俺の立方体だ」


「センチネルが脱出したんだろうな」

 コンペンディウムは特に慌てていない。

「君の構築物はベータ型を二十三分以上は拘束できない」


「なんで早く言わないんだよ!?」


「聞かれなかったから」


 海斗は悪態をつき(この世界に来てから増えた癖だ)、扉へ駆け寄る。

 遠くの立方体はすでにひび割れ、金の光が漏れている。


「提案は?」

 切迫した声で。


「逃げるのは非常に合理的」


「それ以外!」


「んー。エッセンス核を破壊する――人型なら胸の中央にあることが多い。もしくは……」

 一瞬の間。

「私をここから連れ出してくれ」


「は?」


「退屈な廃墟に二世紀近く埋まってるんだ。君は私を見つけた最初の建築士。古の契約により、私は今、君のものだ。自動所有権移転。古代設計データベース、アルケアンの知識、そして君が頼んでない毒舌コメントをプレゼントしよう」


「なんでそんな迷惑――」


 ズドーン。


 立方体が爆発。

 石の破片が四散し、センチネルが再び立ち上がる。

 体はボロボロだが、内側の金色は怒りのように燃えている。

 即座に円屋根の方へ視線を向けた。


 海斗の方へ。


「決断を急げ、建築士」

 コンペンディウムが促す。


 考える暇などなかった。

 台座に駆け寄り、コンペンディウムを掴む――驚くほど軽い、ほとんど重さがない。

 それを肩掛けバッグに突っ込む。


 瞬間、繋がりが生まれた。

 言葉ではなく純粋な知識の奔流。設計、技術、歴史。


 そしてはっきりとした一文。

 ――今すぐ走れ。マニュアルは後で読め。


 海斗は裏口(今気づいた)から飛び出し、センチネルがすぐ後ろに続く。

 今度は明らかに速い。怒りか、あるいは高脅威認識か。


「左! 左に隠し通路がある!」

 バッグの中からコンペンディウムが叫ぶ。


 急カーブ。礫で滑りそうになる。

 言われた隙間は、二枚の壁の間の極細通路だった。


 体を擦りながら滑り込む。

 センチネルは大きすぎて入れない。苛立ったように壁を殴り続ける。


「まっすぐ! 五十メートル先に開けた場所がある!」


 暗闇を走る。

 吐く息が白い。

 背後の打撃音が遠ざかっていく。諦めたわけではなく、別ルートを探しているだけだ。


 通路が開け、乾いた噴水のある小さな広場に出た。

 中央の像はもう原型を留めていない。


「次は?」

 広間をぐるぐる走りながら。


「次は――待て」

 コンペンディウムが急に黙った。

「前方に異常なエッセンス反応。センチネルでも人工構築でもない……シグネチャが壊れている。まるで――」


 噴水の陰に倒れている人影に、海斗は危うく激突しそうになった。


 急ブレーキ。

 埃が舞う。


 人間だ。

 自分と同年代くらいの女性。

 重く傷ついた銀の鎧。

 短い茶髪は汗か血で濡れている。

 顔は真っ白、唇は青紫。


 腹に折れた槍が深く突き刺さっている。


「なんてこった……」


「瀕死だ」

 コンペンディウムの声に、驚くほど本物の憂いが混じった。

「貫通傷で重要臓器損傷。大出血。あと五分も持たない」


 海斗は膝をついた。

 手が震える。医者じゃない。何をすればいいか分からない。

「何か――俺にできることは?」


「普通の医学知識では無理。すでにクリティカルポイントを超えている」


「でも?」

 続きがあると分かっていた。


「でも君は建築士だ」

 コンペンディウムはためらった。

「ブループリント実体化は物理構造だけじゃない。高位には有機建築――肉体と魂に干渉する分野がある。内部から傷を封じる霊的包帯を一時的に作れる」


「やり方が分からない!」


「私が導く。だが非常に危険だ。初めての生体素材。一つのミスで傷を悪化させたり、彼女の運命を予想外に変えたりする」


 海斗は蒼白な顔を見下ろした。

 瞼が微かに動く。まだ生きている。まだ戦っている。


 知らない。名前も知らない。

 けれど大学時代から変わらない信念があった。

 良い構造は命を救う。


「死なせない」

 震える手でスケッチブックを開く。

「どうすればいいか教えてくれ」


「馬鹿だけど勇敢だ。気に入ってきた」

 コンペンディウムが笑ったような気がした。

「いいか、よく聞け。極めて精密な設計だ。石や木じゃなく、肉と血のための――」


 ✦ ✦ ✦


 十分後。

 海斗は自分が人を救ったのか、それとも史上最悪の霊的医療過誤を犯したのか、確信が持てなかった。


 スケッチブックには解剖図と建築図面が融合したようなブループリント。

 金の線が修復すべき血流、固定すべき骨、一時封印すべき臓器を示している。


 現実では同じ金色が女性の体を透明な繭のように包み、

 折れた槍を、巨大な手か霊的ピンセットのような光の構築物がゆっくりと押し出す。


 槍が抜けた瞬間、傷は閉じ始めた。

 完璧ではない。まだ少し血が滲む。

 だが、もう命に関わるものではない。


 光が消える。

 ブループリントも薄れ、かすかな線だけを残す。


 コンペンディウムが口笛を吹いた。

 本が口笛を吹けるなんて驚くべきことだ。


「本当に成功した。有機建築一級を初回で。ありえない」


 海斗はへたり込んだ。

 頭が割れるように痛い。

 血ではない、何かもっと根本的なものが抜けていく感覚。


「すごく……疲れた」


「エッセンス枯渇だ。存在すら気づいていなかった霊的貯蔵を一気に使い切った。初めての――」


「貴様は誰だ!?」


 鋭い声。

 死にかけていた女性が半身を起こし、

 片手で体を支え、もう片方の手にはいつの間にか短剣を握っている。


 エメラルドの瞳が警戒と恐怖で海斗を射抜いた。


「俺――待って――別に――」

 両手を上げて後ずさる。

「今、助けたばかりだろ!」


「建築士の魔法で」

 目を細める。

「お前は……あいつらの仲間だ。破壊をもたらす者」


「違う! 俺は――」


 立ち上がろうとして膝が崩れ、

 海斗は反射的に受け止めた。


 一瞬、沈黙。

 顔が近すぎて、頬の細い傷跡まで見える。

 怒りより困惑の方が強い瞳。


「……本当に」

 掠れた声。

「助けたのか?」


 海斗はただ頷いた。


 五秒。まるで五分にも感じられた。

 そして、ほとんど聞こえないほど小さく。


「なぜ?」


「死にそうだったから。他に理由なんかいらない」


 その単純な答えは、命を救った魔法よりも彼女を驚かせたようだった。

 驚きと疑いと、わずかな柔らかさが混じる表情。


 再び言葉を交わす前に、轟音。


 センチネルが広場の端に現れた。


「またかよ!」

 海斗がうめく。


 女性は立ち上がる。今度は成功した。まだ震えているが。

 剣を構える。

「シュタインレイヒの構築物……ついに見つかったか」


「その状態で戦えると思ってる?」

 海斗は疑わしげに。


「私は騎士だ。戦える――」

 膝が崩れ、再び海斗が支える。


「戦えない」

 迫るセンチネルを見据える。

 頭がフル回転。

「コンペンディウム、人工構築を乱す設計はあるか?」


「ある。妨害周波数塔。でも――」


「基本ブループリントをくれ。今すぐ」


 情報が脳内に直接流れ込む。

 五メートルの細い塔、先端に結晶、妨害波を放つ。


 複雑すぎる。エネルギー不足だ。


 だが簡略化できる。


 指がページ上で踊る。

 数秒で改変。塔ではなく柱。結晶ではなく単純共振器。

 時間稼ぎで十分。


 完成。

 広場中央に三メートルの金の柱が出現、先端で記号が回転する。


 センチネルが十メートル圏内に入った瞬間、

 体が激しく震え、内側の金色が不安定に明滅。

 動きが鈍く、ぎこちなくなる。


「ナイス」

 コンペンディウムが褒めた。

「賢い改変だ。だが三十秒しか持たない。今すぐ逃げろ」


 女性が目を丸くして海斗を見た。

「古典建築士ブループリントを……数秒で改変?」


「後で説明する。今、歩けるか?」


 小さく頷く。


 海斗は彼女の腕を自分の肩に回し、体を支える。

 一緒に走る――正確には、びっこを引きながら急ぐ――

 妨害柱の光が弱まる中、センチネルを置き去りに。


「この廃墟の抜け道は知ってる」

 彼女が呟いた。

「ついてきて」


「冗談だろ。十五分前まで死にかけてたのに」


「今は死んでない。……ありがとう、ところで」

 チラリと横目。

「ミラ。ミラ・カステラン」


「海斗。春政海斗」


「変な名前」


「異次元から来た」


「……まあ、そうだろうな」

 ミラが小さく笑った。

 その状況で笑えるとは驚くべきことだった。

「今日はますます狂ってる」


 背後で妨害柱が崩れる音。

 続いて、重い足音が再開。


 だがもう十分に離れていた。


 ミラは驚くほど正確に迷路を抜ける。

 隠し通路、狭い抜け道、半壊した階段。

 海斗は必死に記憶しようとしたが、似たような構造が多すぎる。


(おそらく十分程度の)長い逃走の果てに、ようやく廃墟の外へ。


 初めて見る外の世界。


 灰色の草原が広がる。

 空と同じ色をした草。

 遠くに暗い森。

 そして西の地平線に――海斗の心臓が止まるような光景。


 空に浮かぶ都市。


 比喩ではない。

 本当に浮いている。

 巨大な岩の島に建物が乗っており、目に見える支えもなく宙に浮いている。

 透明な橋が地区を結び、遠くから見える小さな光が星のよう。


「あれがヴェロリア」

 海斗の視線を追ってミラが言った。

「交易共和国。中立都市。あそこまで行けば――」


 言葉を飲み込んだ。


 廃墟の向こうから、新たな三体のセンチネルが出現。

 前のより大きく、速い。


「走れ」

 ミラが呟く。


「え?」


「走れって!!」


 走った。

 海斗は傷ついたミラを支え、

 バッグの中のコンペンディウムが叫び、

 三体のセンチネルが明確な殺意を込めて追ってくる。


 灰色の草原は果てしなく続く。


 そして春政海斗――人生で最も狂った一日を送っている異世界の建築士は、

 ただ一つだけ思った。


 本当に、退屈なワンルームに帰りたい。




 NOTE:


 - 隠されたエッセンス:12%

 - 新規ブループリント記録:[Organic Suture Structure]、[Frequency Disruptor - Modified]

 - 新たな友人:コンペンディウム・アルキテクトニス

 - 新たな味方:ミラ・カステラン ― 状態:負傷中(回復中)

 - 危険度:高 ― 複数センチネル追跡中

 - 目的地:ヴェロリア(距離:15km)


「君が建てるすべての構造は運命を変える。

 ようこそ、建築とはもはや『建てる』ことではなく、誰を生かし、誰を殺すかを決める世界へ」


 ――コンペンディウム・アルキテクトニス、新たな建築士へ

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