運命崩壊の建築士

黒崎一枝

第1章 設計されざる廃墟



 春政海斗は水曜日が嫌いだった。


 週の真ん中で週末が遠く感じるからでもなければ、必ずその日に組まれるマラソン会議のせいでもない。

 この三年間、例外なく、水曜日だけは自分の設計がクライアントに皆殺しにされる日だったからだ。


「想像力が過ぎる」


 十二階の会議室に、まだ佐々木の声が残っている。

 腹の出た男は海斗の顔すら見ようともせず、スマホの画面にしか目を向けなかった。


「クライアントはもっと実用的で、安全なものを望んでいる」

 佐々木は海斗のプレゼン用タブレットを一本指で押しやり、十五階建ての屋上庭園付きマンションの設計図を、幼稚園児の落書きのように扱った。

「この垂直緑化システムの構造費は膨らむ一方だ」


「でも計算では――」


「春政くん」

 佐々木の声が一オクターブ下がる。危険信号だ。

「もう入社三ヶ月だ。そろそろ理解してくれ。建築は芸術じゃない。ビジネスだ。売れるコンクリートの箱が欲しいんだ。分かったな?」


 海斗はテーブルの下で拳を握りしめた。安物の突板が爪に抉られる。


「……分かりました」


「よろしい」

 佐々木が立ち上がると、腹がテーブルにぶつかった。

「改訂は二日以内。装飾要素を六割削れ、スカイライトは普通の窓に変えろ。ああ、それと――屋上庭園は全部消せ。メンテが面倒だ」


 ドアが静かに閉まる音が、宣告のように響いた。


 海斗はタブレットの画面を見つめた。

 三週間徹夜で生み出し、四十七回も構造シミュレーションを繰り返し、五冊のスケッチブックを埋め尽くした設計が、今はただの「想像力が過ぎる」線に成り下がっていた。


 投げつけたくなる衝動を抑えて、電源を落とした。


 ✦ ✦ ✦


 23時47分、海斗のワンルーム。


 片側だけ傾いた作図灯が、戦場のようなデスクを照らしている。

 空のカップ麺の山、失敗スケッチの紙玉、三台のモニターは一時間前からCADがフリーズしたまま。


 海斗はスタイラスをその混沌の中に投げ捨てた。


「実用的、安全、早く売れるコンクリ箱……」

 佐々木の口調を真似て、苦い皮肉を吐き出す。

「だったら最初から核シェルターでも作らせりゃいい。そっちのが『安全』で『実用的』だろ」


 手が伸びたのは、仕事の山とは別の、一冊だけ離れたスケッチブックだった。

 佐々木にも、どのクライアントにも決して見せない、個人的なやつだ。


 ページを無造作にめくる。


 外側に歯車を剥き出しにした時計塔。構造的に不可能な螺旋吊り橋。

 別のページでは、天井ガラスが星座を描く大聖堂。朝日が大理石の床に星図を投影する設計。


 どれも永遠に実現しないものばかり。


「想像力が過ぎる……」

 今度は掠れた声で呟いた。


 海斗は机に額を落とした。

 紙の山が崩れる音も、もう気にならない。三日連続の徹夜と、大学を出てから溜まり続けた苛立ちで、瞼が鉛のように重い。


 最後に建築を心から愛したのは、いつだったか。


 意識が溶けていく中で、その問いだけが浮かび、

 過熱したノートパソコンのファンが白いノイズに変わる。

 半ば夢うつつの中で、彼は街を思い描いた。

 クライアントも予算も「想像力が過ぎる」という言葉もない、ただ自分のための街を。


 街は彼だけの――


 ✦ ✦ ✦


 ガキン。


 海斗は心臓を跳ね上げて目覚めた。

 アラームじゃない。壁時計はまだ2時13分を指している。

 音は壁からだった。


 ガキン。ガキン。


 壁に細いひびが入り、蜘蛛の巣のように広がっていく。

 凍りついたのはひびではなく、そこから滲み出る光だった。


 金色。

 街灯の黄色でも蛍光灯の白でもない、目を灼くような純粋な黄金。


「地震――?」

 言葉は途中で途切れた。床が揺れる。

 だが普通の地震じゃない。鼓動のような、巨大な心臓が地中にあるかのような、律動的な震動。


 デスク上のモニターが明滅する。

 フリーズしていたCAD画面が突然復活した。

 ただし表示されたのは彼のマンション設計ではない。

 見たこともない円形構造物。あり得ない幾何学。知らない記号が並んでいるのに、なぜか懐かしい。


 そして、電源の入っていないノートPCのスピーカーから声がした。


 人間の声ではない。機械でもない。

 果てしなく広い空洞の反響。果てしない大聖堂の通路を風が吹き抜けるような声。


「……残された……建築士……」


 海斗は机から後ずさった。

 背中が壁にぶつかる。そして致命的な間違いに気づく。


 壁が固くない。


 コンクリートが水のように柔らかく、薄い膜のように震えている。

 ひびから溢れる金色がさらに強くなり、海斗は目を細めた。

 前へ逃げようとした瞬間、重力が横に倒れた。


 あるいは部屋が回転したのか。

 あるいは現実そのものがひび割れたのか。


 最後に覚えているのは、横に落ちていく感覚。

 固いはずの壁を突き抜け、反射的に掴んだスケッチブック。

 金色の光、引き裂かれる感覚、そして絶対の静寂。それは叫びのようにも感じられた。


 ✦ ✦ ✦


 目を開けたとき、最初に分かったのは、まだ息をしているということ。


 二番目に、ここは自分の部屋ではないということ。


 冷たい礫の地面に横たわっていた。

 頭上の空は鉛色の霧に覆われ、霧は不自然な規則でゆっくりと渦を巻いている。何かが中からこちらを見ているような。


 海斗は無理やり体を起こした。

 筋肉が悲鳴を上げるが、骨は折れていない。

 落ちた? 吸い込まれた? 転移した? 奇跡だ。


「ありえない……」

 声が静寂に大きく響く。

「残業の悪夢だ。きっとそうだ」


 だが掌に刺さる礫の冷たさは、あまりにもリアルだった。


 立ち上がり、周囲を見回す。


 古の廃墟の真ん中にいた。


 近代都市の廃墟ではない。

 十メートルはある石柱が、半分は立ったまま、半分は論理を無視した角度で倒れている。

 幾何学的な彫刻で覆われた壁は風化し、長く見つめると頭がくらくらする。


 そして何より、建築として間違っている。


 言葉にできないが、建築士の本能が叫ぶ。

 基本的なプロポーションが狂っている。

 残った天井を支えるには細すぎる柱。崩れていなければならないはずの門のアーチ。

 人間が登れない70度の階段。


 それでもすべてが、まだ立っている。


「ここは……どこだ?」


 背後で草擦りの音。


 振り返って、凍りついた。


 倒れた柱の陰から、何かが現れた。


 人間ではない。

 身長は180センチほどだが、体は石と光でできている。

 海斗のアパートの壁から漏れていた、あの金色。

 未完成のゴーレム。半分は実体、半分は透けて、内側を金のエネルギーが血のように流れる。


 顔はない。滑らかな石の表面に、光る穴が二つ。たぶん目。


 そいつはゆっくりと近づいてくる。


 確実に。

 まるで「脅威判定→排除」というプログラムだけが刻まれた機械のように。


 海斗の足が勝手に動いた。走る。


 靴底が礫を蹴り、息が上がり、心臓が爆発しそうになる。

 背後で石の足音が響く。速くない。でも止まらない。


 崩れた壁の陰に飛び込み、瓦礫を越え、廃墟の迷路を無我夢中で駆ける。

 肺が燃える。視界が狭まる。


 悪夢だ。悪夢に決まってる。


 足が何かに引っかかり、転倒。

 背中が柱に激突し、肺の空気が全部抜けた。


 視界がチカチカする中、顔を上げると、ゴーレムが三メートル先に立っている。


 石の腕が変形し、鋭い刃になる。


 海斗は動けない。体が凍りつく。頭では逃げろと叫んでいるのに、足が痺れる。


 刃が振り下ろされる――


 そして止まった。


 海斗の首すれすれ、刃が空中で凍る。

 ゴーレムの意思ではない。何かに阻まれている。


 光。


 正確には、空に浮かぶ金の幾何学線。

 海斗が知っている図形。


 ブループリント。


 透明な四角い盾。純粋な光のフレーム。

 盾の中央には寸法、注釈、仕様が震えながら浮かび上がる。ホログラムのように。


「え……?」


 ゴーレムが刃を引き戻そうとするが、盾が押さえつける。

 一歩退き、石の体が震える。困惑しているのかもしれない。


 海斗は自分の手を見下ろした。


 いつの間にか握りしめていた個人用のスケッチブック。

 さっきまで白紙だったページに、今、金のインクで光る絵。


 空中に浮かぶ盾とまったく同じブループリント。


 でも海斗は描いていない。


 ……描いたのか?


 手は震えているのに、意識のどこかが糸で繋がっている感覚。

 思考と金の線が直結している。


 ゴーレムが再び襲いかかる。今度は残酷な石の拳。


 盾に亀裂。光の欠片がガラスのように散る。


 考えるより先に、海斗はイメージした。壁を。


 スケッチブックで、金の線が猛烈な速度で踊る。

 現実で、三メートルの透明な壁が地面から突き出た。


 ゴーレムが殴る。ひびが入るが、持ちこたえる。


 海斗は呆然と、自分の手、ブック、そして今生み出した光の構造を見つめる。

 どうして? 物理法則を、論理を、現実をご破算にしている。


 ズドン。


 壁が粉々に砕ける。


 ゴーレムが瓦礫を踏み越え、さらに激しくなる。

 体内の金色が怒りのように明滅する。


 海斗は再び走り出した。

 だが今度は頭が働いている。

 光の構造は実在した。

 このブックは俺の思考に反応する。

 まるでブループリントを描くように、即座に実現する。


 なら――


 走るのをやめた。振り返る。


 指が紙に触れずとも空中で踊る。

 金の線が現れる。

 昔何百回も描いた単純な罠。地面に薄い蓋をした穴。


 ブループリント完成。

 刹那、ゴーレムの足元の土が崩落。


 三メートル下へ落下。底を打つ衝撃で石の体にひびが入り、金の光が漏れる。


 だがまだ足りない。


 ゴーレムが穴の壁を登り始める。腕から石の刃を生やして。


 海斗は悪態をついた。普段は言わない言葉だが、今は例外だ。


「よし。もっと頑丈な構造が欲しいんだな?」


 イメージするのは檻。

 ただの穴じゃない。扉も窓もない、厚い石の立方体。独房。


 金の線が目で追えない速度で動き、周囲の廃石が震え、浮き、飛ぶ。


 十秒後。


 高さ四メートルの完全な石の立方体が廃墟の中央に立ち、ゴーレムを完全に閉じ込めた。


 ドン。ドン。ドン。


 内側からの打撃。壁が震えるが、びくともしない。


 海斗は膝をついた。息が荒い。手が激しく震える。頭がハンマーで叩かれたように痛い。

 一番恐ろしいのは、作った構造を「感じる」こと。

 すべての接合、すべての応力、すべての隙間を、自分の体の一部のように。


「俺に……何が起きてるんだ……?」


 立方体の中の音が次第に弱まり、やがて止まった。


 静寂が戻る。

 鉛色の霧が空で渦を巻き続ける。

 間違ったプロポーションの廃墟が、まだ立っている。


 そして春政海斗――五時間前は狭いアパートで眠ることしか望んでいなかった苛立つ建築士は――

 今、異世界の土に座り、想像を現実に変えるスケッチブックを握りしめていた。


 光るブループリントで埋まったページを見つめ、

 掠れた声で笑った。


 嬉しさではない。

 脳が現実の処理を拒否した笑い。


「想像力が過ぎる、だって……?」

 ブックに呟く。

「今なら、好きなだけ想像してもいいよな」


 頭上の霧が、より速く渦を巻いた。

 まるで挑戦を受け止めるように。


 遠く、霧の向こう――

 半壊した塔のシルエットが、同じ金色に光っていた。


 この世界の何かが、彼を待っている。




 NOTE:


 - 隠されたエッセンス:???

 - 新規ブループリント記録:[Basic Barrier]、[Pitfall Trap]、[Stone Confinement]

 - システムステータス:……初期化中……

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