もし君が消えるとしても、何度でも。
十六凪
もし君が消えるとしても、何度でも。
●
朝比奈凌。学校の友人からは「朝比奈ってさ、どこにでもいそうな奴って表現がぴったりだよな」と言われている。目立ちたいと思っているわけでもないので、気にしたことはない。
今日もいつも通りに学校に着くと、クラスの中を見回した。軽い違和感。何かがぽっかりと欠けたような感触。朝起きた時、見ていた夢を思い出そうとして思い出せないもどかしさのようだ。
凌は頭を振った。周囲が騒いでいないということは気の所為なのだろう。窓際の席に座って、カバンからノートと筆箱を取り出した。一限目から数学なんて気が滅入る。
キーンコーンカーンコーン――始業の鐘が鳴ると同時に、几帳面な数学教師が時間ぴったりに教室に入ってきた。「あの先生、絶対、鐘がなるのをドアの前で待ってるよな」とクラスメイトたちは噂していた。真ん中できっちり分けられた髪型、折り目が左右対称のスーツ、四角い黒縁メガネ。みんなから影で「幾何学先生」と呼ばれているのも納得できる。
「幾何学先生」は出席簿を教卓に広げると、音階の整った朗々とした声で出席を取り始めた。
「出席番号1番、朝比奈」
「えっ!?」
凌は思わず「はい」ではなく、タイヤの空気が抜けるような声を挙げてしまった。出席番号1は相原さんのはずだ。
「朝比奈、なんだその返事は?」
「あの、先生、相原さんは……?病欠ですか?」
凌の声に、黄金比を保っていた「幾何学先生」の表情が崩れた。
「相原?誰のことを言っている?朝比奈、寝ぼけているなら目を冷ましなさい」
あの四角四面な「幾何学先生」が冗談を言うはずはない。凌がクラスメイトたちを見回すが、彼らの顔に浮かんでいるのも狐につままれたかのようにぽかんとした表情だ。凌の言っていることが理解できていない。
その時、凌の背中にまるで冷たい金属の棒が差し込まれたかのような寒気が走った。そうだ、クラスに入ったときに感じた違和感。それは相原さんの机がなくなっていること。――初めから相原さんなど、この世に存在しなかったかのように。
その後、凌の頭には授業の内容がまったく入ってこなかった。「幾何学先生」が説明する円や直線の方程式。黒板に書かれた数式が黒板消しで消されていく。相原さんを構成していた円や直線が完全に消えてしまった。
就業のチャイムが鳴るのと同時に、時間ぴったりに今回の範囲を説明し終えた「幾何学先生」が教室から出ていった。クラスメイトたちは円周の上を進む点が軌跡から解放されたかのように自由を取り戻し、喧騒に包まれる。
「あの、桐原さん――」
凌は、隣の席に座る少女、桐原澪に声をかける。人見知りで女子と話をするのが苦手な凌だが、澪だけは別だった。休み時間に静かに本を読む彼女の愛読書が自分と同じライトノベルであることを知って以来、たまに新刊の情報交換や面白かった作品について話をするようになっていた。桐原さんなら、僕の妄想じみた話も笑わずに聞いてくれるかもしれない。
「どうしたの、朝比奈くん?」
「あの、変なことを聞くかもしれないけど――相原さんのこと、覚えてるよね?」
彼女は決して嘘をつく人じゃない。それにクラスメイトのことを忘れたりもしないはずだ。だけど、桐原さんの考え込むような素振りに、悪い予感が広がっていく。
「ごめんなさい。誰のことを言ってるのか分からないわ。私が知らない小説のキャラクター?」
その言葉を聞いた瞬間。「ああ、ホラーものの小説の主人公はこういう心境なのか」という他人事のような感想が浮かんで消えた。
次の授業の始業ベルが鳴った。
「桐原さん、放課後、ちょっと相談に乗ってほしいんだけど……」
「ええ、いいわよ。いつもの図書室で」
凌は澪と約束を交わすと、この奇妙な現実をどう説明しようかと悩み始めた。
●
放課後の図書室は、世界から人類が消え去ったかのような静寂に包まれていた。旧校舎にある図書室はボロく空調もない。そのため利用する生徒もほとんどおらず、凌と澪がライトノベル談義に花を咲かせるにはちょうどいい場所なのだ。
がたついた窓から冬の冷たい隙間風が吹き込み、学生服の隙間を縫って凌の身体を芯から冷やしていく。だけど、そんなことは気にならなかった。身体より心の方が不安感という寒さに凍えていた。
ガラリ、という音がして、上履きの軽い足音が近づいてきた。いつもは楽しみに聞くその足音も、今は死神の足音のように感じられた。
「朝比奈くん、お待たせしちゃってごめんなさい。職員室に呼び出されていたの」
「ううん、大丈夫だよ、桐原さん。僕も自分の頭を整理したかったんだ」
「相原さん……だっけ?小説の話……じゃないみたいよね」
凌の震える両手を見て、澪は自体の重要さを察する。あれはただ教室の寒さに震える手ではない。
「朝比奈くん、ひとまず座って。今、紅茶を淹れるわね」
紅茶は澪の趣味の一つで、図書室に勝手に茶葉やティーセットを持ち込んでいた。紅茶を飲みながらここで読書をするのが日課なのだ。凌と小説の話をするときにも、いつも紅茶を振る舞っていた。
澪はとっておきの茶葉を取り出すと、沸かしたお湯で2脚のティーカップを温めつつ、茶葉の入ったティーポットにもお湯を注いだ。
「はい、熱いから気をつけて飲んでね」
「ありがとう、桐原さん」
凌は冷え切った手でティーカップを持ち上げ、口に運ぶ。口の中に苦みに混じった甘みが広がり、温かな熱が胃へと落ちていく。温かな太陽の熱によって心の氷が溶けていく。ようやく生きている実感を感じた。
「これで落ち着いて話してもらえるかしら?」
「……うん、ありがとう」
凌は穏やかな声で、今日の出来事を澪に語っていった。
朝感じた違和感。出席番号1番の相原さんがいなくなっていることに気づいたこと。それを「幾何学先生」もクラスメイトも誰も不思議に思っていなかったこと。桐原さんですら、相原さんのことを覚えていなかった――。
「消えたクラスメイト……朝比奈くんにしか認識できない……まるで小説の出来事みたい。けど、朝比奈くんは小説と現実を混同する人じゃないわ」
「それじゃあ、桐原さんは信じてくれるの……?」
「ええ、もちろんよ」
澪の即答に、凌はようやく安堵の息を吐いた。朝から今まで、呼吸をすることを忘れていたかのようだ。深呼吸をする。胸がふわりと軽くなっていく。
「ただ、誰も覚えていない……出席簿にすら痕跡も残っていないのでは、他の人に信じてもらうのは難しそうね」
「相原さんの家に行ってみるのは……?」
「朝比奈くん、相原さんの電話番号や住所知ってる?私は残念ながら知らないわ」
桐原さんの言葉にはっとする。相原さんの住所を調べようにも、おそらく学校の名簿に記載されていたものも消えてしまっているだろう。この街の「相原さん」を虱潰しに調べるのは不可能だ。もし可能だったとしても、相原さんの家族ですら忘れていたり、最悪、相原さんの一家ごと消えているかもしれない。そうだとしたら調査はできない。
「とりあえず、落ち着いて対策を考えましょう。もしかしたら明日になったら、その相原さん、ひょっこり現れるかもしれないわ。みんなも何事もなかったかのように思い出しているかも」
凌は澪の言葉に深く頷く。そうだったら何も問題はない。きっとそうなるに違いない。
――そう、自分に言い聞かせた。
●
翌日、澪は放課後の図書室を訪れていた。再び凌に呼び出されたのだ。
今日の朝比奈くんは、昨日よりさらに憔悴しているように見えた。図書室の年季の入った木製のドアを軋ませながら開く。いつもの席には、朝比奈くんの姿はない。見回すと、彼は窓から吸い込まれそうなほどの澄み渡った青空を見ていた。
「おまたせ、朝比奈くん。今から紅茶を淹れるわね」
習慣になったティーセットの準備をしようとして――朝比奈くんに止められる。
「桐原さん、まずは座って僕の話を聞いてほしい」
普段、こんなにはっきりと主張する朝比奈くんを見たことはない。ただごとではないと察し、ティーセットを用意する手を止め、いつもの席に座る。
澪が席に座る当時に、対面の凌が堰を切ったように口を開いた。
「次に消えるのは――桐原さん、君だ」
「――私?」
「今日、学校に来たら、井上くん、上原さん、尾形くんが消えていた」
井上くん。上原さん。尾形くん。――相原さんと同じく聞き覚えのない名前。
「そんな人達いたかしら?だって、出席番号1番朝比奈くんの次が、出席番号2番の私よね?」
しかし、凌は力なく首を左右に振った。
「それがおかしいんだよ、桐原さん。僕と桐原さんが仲良くなったきっかけ、覚えてる?」
「もちろんよ。あれは席替えの前、出席番号順に席が並んでいた時、朝比奈くんが私の読んでる小説を斜め後ろの席から覗いたからでしょう?」
あの出来事は今でも昨日のことのように鮮明に思い出せる。朝、授業が始まる前に、放課後まで我慢できずにお気に入りのライトノベルの新刊をカバンからだして開いたところ、斜め後ろの席から「あっ」という声が聞こえて――その日は夕方、日が沈むまで、この図書室で朝比奈くんとキャラクター談義をしたのだから。
「おかしいと思わない?もし僕が出席番号1番で、桐原さんが出席番号2番だったら、桐原さんの席は僕の真後ろになるはずだよ」
後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃。そうだ。あの時期は席替え前で座席は出席番号順。朝比奈くんが1番で私が2番なら、今のような状況は生まれない。――ということは、朝比奈くんと私の間に、何人かの生徒がいた……?
そして……朝比奈くんを除いて、出席番号順に人が消えているの……?
「とにかく、この法則に従うと、次に消えるのは桐原さんってことになるんだ」
「そんな……いったいどうしたら……」
人が消えるなどという現象――その次の標的が自分だと言われても、どう対応したらいいのか思いつかない。警察に駆け込む?「私、今晩消えるんです」などと言って、誰が信じてくれるのか。
――いえ、一人だけ信じてくれる人がいる。
「朝比奈くん、お願い。今晩、私と一緒にいて。人が消えていることを認識できているのは朝比奈くんだけ。もしかしたら朝比奈くんなら……」
朝比奈くんなら私を助けてくれるかもしれない。それは藁にもすがるような考え。超常現象に対抗できる人間なんていないかもしれない。けれど――。
「うん、今晩は僕が朝比奈さんから一瞬も目を離さない。僕が桐原さんを守ってみせる」
――朝比奈くんの言葉が胸の奥に温かな温もりを灯してくれた。うん、必ず守ってね。
●
その日、澪は学校の図書室に泊まることにした。家には友人の家に泊まると連絡してある。
目の前には凌が一時も目を離すまいと澪を凝視していた。一瞬でも目を離した瞬間に、澪が消えてしまうのではないか。揺れる瞳がそう物語っている。
「そんなに緊張しないで。きっとそんな簡単に消えたりしないわ」
澪は淹れ直した紅茶を凌の目の前のカップに注ごうとし――紅茶が手つかずのまま冷めきっているのに気付いた。朝比奈くんが紅茶を飲みもせず、ずっと見つめてくれている。嬉しさと同時に、恥じらいの心も浮かんできた。――こんなことならお化粧してくればよかった。
二人は買ってきておいたコンビニのおにぎりで軽い夕食を済ませる。
無言の静寂が場を満たす。
澪は静けさに耐えきれず、凌に話を振った。
「ねえ、朝比奈くん。せっかくだから、小説のお話でもしない?」
「――けど、こんなときに……」
「私を見つめるだけじゃなく、話もしていた方が、消えないかもしれないじゃない?」
確かに桐原さんの言うことにも一理ある。それに――こちらも無言の空間に気まずさを感じていた。せっかくなら、いつものように桐原さんとは楽しい会話をしていたい。
「そうだね。あ、桐原さんはあの小説の最新刊読んだ?」
「もちろんよ。まさかあんな展開になるなんて思わなかったわ。特に魔王と勇者が恋人同士になるなんてね」
「えー、僕はあの二人は恋人同士よりもライバルとか親友でいてほしかったな。勇者には僧侶がいるし、魔王には腹心の幹部がいるじゃない?」
「その複雑な四角関係がいいのよ」
――こうして、暖かかった紅茶が徐々に冷めていくのに対し、二人のトークは際限なく熱を帯びていった。
●
――午後11時55分。日付が変わる直前。
「お約束通りなら、こういうのは、午前0時か、丑三つ時かどっちかで起こるわよね」
「桐原さん……怖くないの?」
凌の言葉に、澪は無風に凪いだ水面のように穏やかな表情で答える。
「たっぷり楽しい会話しているうちに怖さを忘れちゃったみたい。――それに、朝比奈くんが私を助けてくれるんでしょう?勇者様」
いたずらっぽく笑みを浮かべる澪を見つめ、思わず凌は息を呑んだ。
自分の趣味を包み隠さず話せる友人――それがかけがえのないものだと、心の底から思った。そして、同時に、それを失った場合の恐怖が臓腑の奥底から込み上げてくる。関係の薄いクラスメイトが消えるのと、桐原さんが消えるのとでは、まったく意味が違う。桐原さんのことはなんとしてでも守り抜いてみせる。
凌が決意を新たにするのと同時に、図書室の壁にかかった古い時計が午前0時を指した。
――その、瞬間。
澪の目の前の空間に、紫色の炎に包まれた、人型のぼんやりとした影が姿を現した。
「桐原さん!」
「え、どうしたの、朝比奈くん?」
きょとんとした表情の桐原さん。だめだ、彼女にはあの影が見えていない!――こうなったら!
「そこのお前!桐原さんから離れろ!」
凌は影に向かって威嚇するように大声を張り上げた。
深夜の学校中に響くのではないかというその大音声に、影がゆっくりと顔を向ける。
いいぞ、僕の方に注意が逸れた!
「桐原さんは逃げて!」
「――な、なにかいるのね?わかったわ」
澪は凌の言葉を信じ、図書室のドアを開けて駆けていった。
これで、図書室に残ったのは凌と謎の影だけだ。
『ほう、私のことが見えるのか、小僧……』
影から発せられたのは、この世のものとは思えない声。地の底から直接脳内に響いてくるかのようだ。
「桐原さんに手出しはさせない!」
『くかかかか!』
影の嘲笑が響き渡る。ただの人間ごときにどんな邪魔ができるというのか。しかし、たまには人間と遊ぶのも一興。
『よく吠えた、人間よ。ならば――あの娘に手を出す代わりに、お前の最も大切なものをよこすがいい。そうしたら、あの娘には手を出さずにおいてやろう』
「大切なもの――」
凌は考える。自分の大切なものを差し出せば、桐原さんの安全は保証される。――それなら悩む必要なんてない。僕の命だってくれてやる!
「いいだろう!その取引、乗ってやる!」
●
そのやり取りを、澪は図書室のドアの隙間から覗いていた。一度は逃げ出したものの、凌のことが気がかりで戻ってきたのだ。朝比奈くん、私のためにそんな取引しちゃだめ!しかし、目に見えぬ者の声に竦んだ身体は言うことをきかなかった。声を出すこともできず、ただ朝比奈くんを見ていることしかできない。
『よかろう、取引成立だ。お前の一番大切にしているもの――あの桐原という娘との記憶を貰い受ける。そのかわりに桐原という娘は見逃してやろう』
その極寒の温度をはらむ言葉が発せられたと同時に、朝比奈くんの身体からまるで魂のようにぼうっと光る何かが抜け出していく。それは虚空に飲み込まれ――図書室に沈黙が戻った。
「朝比奈くん!」
立ち尽くす朝比奈くんに駆け寄る。よかった、朝比奈くんは消えてない。もし、私の代わりに朝比奈くんが消えるようなことがあったら、きっと一生後悔したに違いない。
けれど、朝比奈くんの視線がいつもと違うことに気づく。なにか怯えるような視線――知り合った頃に見せていた、他人に対する警戒感。まさか。
「あれ、僕、なんでここに……それに……確か、同じクラスの桐原さん……でしたっけ?」
朝比奈くんの言葉と、見えない存在の言葉が重なった。『あの桐原という娘との記憶を貰い受ける』――つまり、今の朝比奈くんは、私を助けるために大事な記憶を――。
思わず熱くなった目頭からあふれるものをこらえながら、笑顔で答える。
「うん、そう。私、桐原澪。朝比奈くんの好きな小説、私も好きなの。よかったらお友達になってもらえないかしら?」
彼が私を守るために大事な記憶を失ったなら、私はその記憶をもう一度作ってみせる。これまで以上に親しくなれるまで――今のこの気持ちは私の中にだけ大事にしまっておこう。
もし君が消えるとしても、何度でも。 十六凪 @izanagi_
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