第一章 信号はもう黄色
第1話
名誉棄損、誹謗中傷というものに対して、芸能事務所は反応が鈍い。遅いというより鈍い。
主因は決して怠慢ではなく、もちろん中小ならそういうこともあるが、公式に認めることによって認知度が高まってしまうことを快く思わないためだ。
実際、仮に根の葉もない疑惑や言いがかりだったとしても、イメージダウンは免れないことのほうが多い。
たとえばある大物タレントがアシスタントディレクターに対し性的暴行をしていると、関係者のふりをした誰かに書き込まれたとしよう。それはデマだ。だから訴訟をする。訴訟を起こすのでたちまち多くの人が知るところとなる。すると、その時点で信じる信じないの選択肢を与えられる母数が格段に跳ね上がってしまうことになる。対応することによって、嘘か本当かわからないマイナスな噂が多くの人に知れ渡ってしまう。
したがってよほど悪質なものでなければスルーする、ないし動きたくないというのが実情だ。タレント本人にしても波風を立てたくない人は少なくない。
加えて腰が重い理由は、時間がかかる割に賠償金や犯人へのペナルティが微々たるものだというのが実はある。
あるひとつのケースでは、匿名掲示板の悪質な書き込みに対して情報開示請求を行い完全勝利したということがあるが、犯人が生活保護受給者だったり知的障碍者だったため徒労に終わったという話がある。仮に慰謝料を払わせることができたとしても、弁護士費用でほぼ赤字となる。
何が言いたいかというと、つまりアンチを相手に戦うことは非常にコスパが悪い、ということだ。こんな連中をひとりひとり相手にしていたら仕事にならない。だから会社も本人も基本的に腰が重い。
それは芸能界のみならず、ブイチューバーのようなネットタレントも例外ではなく、むしろ正体を隠しているだけあってなおのことやりにくい。
事実、少し前まではアバターを使っている人間への誹謗中傷が罪として成立するのか、という謎があった。現在は判例から成立するとされている。
そういう背景もあって大抵のことは無視しようという空気が、当初この業界にもあったという。その結果どうなったかというと、精神を病んだタレントが卒業したり、体調を崩したタレントが活動休止に陥ってしまうという事例をいくつも作ってしまった。それからというものようやくその方面へ力を入れているようだ。
その中で起きた件の脅迫――。
アンチの対応は非常に難しい。切りがない上に対処を間違うと思いもよらないところへ派生しかねない怖さがある。
それが、日増しに人気となるカラーズや、そのマネージャーたちの大きな悩みの種になっていた。
「何事もなくて本当によかったです」
デスクでひとり遅めの昼食をとっていると、七瀬がまた昨日のようにふらりと現れた。 馴染みのウルフカットに猫のような円らな双眸。右手にサンドイッチ、左手にはおにぎりを持っていて、彼女もこれからのようだ。
「それはどっちのことを言っているんだ?」
「どちらもですよ。変なファンは何事もなく連行されましたし、大手がまた先陣を切ってくれました。いやあ、ブイチューバー業界の未来は明るい」
「株主総会のほうは株主の中にファンらしき人が結構いて、終始和やかな雰囲気だったようだ。ネットにその質疑の内容が公開されてる」
「そうそう、そういうのって愛を感じますよね。ブイチューバーを好きなだけで株まで買って会場まで応援に来てくれるんですから」
「わざわざパソコンの前から離れてご足労してくれるんだ、その動機は愛か憎悪しかない」
「憎悪のほうじゃなくてよかったです」
「いまのところは」
私が皮肉を言うと、彼女はただでさえ大きい目をさらに大きくしてオーバーなリアクションを取る。
「でもうちがいつの日か株主総会やるとしたら、こううまく行くとは限りませんよね。ファンってちょっと予想のつかないところがあるので。会社の前まで来た人もそうですし」
「そうだな……」
つい重めの相槌を打ってしまったためか、食べ物で頬を膨らませたばかりの彼女がずいっと迫ってきた。
「え、何かまたトラブルなんですか?」
咀嚼の途中なので聞き取りづらいがそう心配している。これが上司なら何でもないと煙に巻くところだが、新卒ながら似たような時期に入社した後輩なので、気兼ねなく言う。
「気になる書き込みがある」
「いつも見てる掲示板ですか?」
「いや五ちゃんねるじゃない。エックスのほうだ」
「ああ、ツイッターのことですか。私まだその名前に慣れなくて」
「じゃあ七瀬の前ではツイッターと言うことにしよう」
「いいですよ別に。それでどんなツイート、じゃなくてポストが?」
「これなんだが――」
私はノートパソコンの向きを変えて、いいねを押しておいた例のポストを彼女に披露する。
書かれているのはこの界隈にとって犯行声明ともとれる一文だ。
一言でまとめると、女性アイドルがファンを裏切り男と付き合っている証拠をもうすぐ暴露する。と言ったところか。
マネージャーという立場的にも座視できないが、これを目にしてから嫌な予感というか、胸騒ぎのようなものがずっと消えないでいる。
「何ですこれ。単なるフォロワー乞食じゃないですか」
「虚言だと決めつけるのは時期尚早だ」
「でもいよいよこういう手合いも現れましたか」
「こういう手合い?」
横でリスみたいに口を蠢かせている七瀬が何か訳知り顔だったので、私は視線で追及する。
「ほら前にあったでしょ。いろいろ芸能界に精通している事情通の人が自棄を起こして、暴露系ユーチューバーになって大事件になったこと。先輩も芸能界に関わってたんですからもちろんご存じですよね?」
「ああ。炎上商法に近いことで稼いでいた」
「だからそれのブイチューバー版ってやつ? もちろんこんなの出まかせでしょうけど」
「だといいが」
「え、先輩これマジだと思ってるんですか?」
意図せず大きな声を出したので、私は横目で睨みつけて彼女を黙らせる。
「そうは言っていない。だが、妙に自信満々なところが引っかかる」
「でも有名な女性アイドルブイチューバーってだけで、どこの会社ともどこのグループとも書かれていませんよ。適当なことかましてるだけでしょ」
「むしろのその点が気になる。能ある鷹は爪を隠すじゃないが」
「いくらなんでも考えすぎですって」
こういう危機感のなさに人の経歴が出るように思う。私は芸能事務所から転職し中途採用された身だが、彼女は新卒採用された身だ。互いに急成長する新事業に乗っかった形ながら、根本的な部分で違うのは年齢よりその経験の差のせいだ。
それに、理解しているのだろうか。
この手の新興企業が、成長する過程でどうしても多くの恥部や闇を抱えてしまうということを。
少なくとも私はそれを未然に防げたところを見たことがなかった。
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