第4話 ニュース

 大介は仰天した。十四年間生きてきて、これほど驚いたことはない。目の前にすわっている赤城の顔を、ポカンと眺めていた。まず、聞き違えたと思い、それから、冗談を言われたのだと思った。

 そんな話をするために、呼ばれたのではないはずだ。三年に進級して初めて行なわれた校内模試で、大介の英語の成績は、かなり悪かった。今までの最低レコードを更新した。当然、何らかの叱責が来ると思っていたから、放課後に生徒相談室に呼び出されても、驚かなかった。

―会田君、君、最近、浮わついてないか? まあ、修学旅行なんかもあったことだし、落ち着かないのもわかるけどね。そろそろ本腰で勉強に身を入れないと、志望校合格はおぼつかないよ。

―わかってます。でも、俺…僕、英語って苦手で。

―理由にならない。高校へ行っても、英語とは付き合うことになるんだ。

―すみません。

 覚悟を決めて出向いたのだ。それなのに。

赤城はわざとらしく、咳払いした。

「それで、この件については、君のご両親にもご報告しなければならない。校長先生とわたしとで明日、お宅をお訪ねしたいので、ご両親にご都合のよい時間をうかがってくれ。ご両親がそろっている方がいいが、やむを得なければ、どちらかおひとりでもいい」

「明日、ですか」

「そう。今夜中にお話して、時間を決めていただいてくれ。明日であれば、こちらの時間は都合をつけるから」

「随分、急なんですね」

「これから、色々、手続きがあるんだよ」

「ひとつ、聞いていいですか?」

「なんだね?」

「なぜ、僕なんですか」

赤城は口を開いて、何も言わずに閉じた。そのまま、黙っている。怒ったような顔だ。

「僕より、向いてる生徒はいると思うんです」

言訳するように大介が言うと、ようやく口を開いた。

「委員会の決定だ。異議は許されない」

「異議ってわけじゃあ…ただ、びっくりしたから…」

「さあ、もう帰って、ご両親に報告してくれ」

話は終わったというように、赤城は机の上の書類をまとめ始め、大介は一礼して立ち上がった。

「ああ、会田。君は、きょうだいがいるか?」

「妹がいます。今、小五」

「そうか」

赤城の表情がなごんだ。

「時間を決めるのを忘れないように。道草食わずに帰れよ」

 赤城にはああ言われたが、大介が最初にしたことは、友達を探すことだった。こんなビッグニュース、親よりもまず、友人に報告したい。ナオシは部活だが、昴と弘毅は、校内のどこかにいるはずだ。あちこちをのぞいてまわったあげく、大介は、弘毅が体育館の裏で、バスケ部の連中と煙草を吸っているのを見つけた。おい、と声をかけると、全員が飛び上がった。

「いきなり出てくるな、びっくりするじゃないか」

大介だと知ると、弘毅は腹立たしげに言った。

「ビクビクするくらいなら、そんなもの吸うなよ。二十歳まで待ちゃいいだろ」

「お前、なんにもわかってない。二十歳過ぎたら、馬鹿らしくてこんなもの吸えるかよ。喫煙はね、ティーンの特権なの」

あほらしい。

「なんでもいいけど、ちょっと顔貸せ。緊急だ」

腕をつかむと、「まあ、乱暴」と文句を言いながらも、弘毅はついてきた。


「りゅうがく?」

弘毅はあ然とした顔をした。

「お前が? あり得ない。なんかのまちがいだ」

「俺もそう思ったんだ。でも、赤城は、両親に話しとけって。明日、校長とうちに来るって…」

「へえー。で、どこ行くんだ」

「フランス。学校は、これから決めるって」

「おふらんす! 花のパリ! やっぱ、変だよ、それ」

「うん」

「似合わないよ、全然。お前、フランス語しゃべれるの?」

「んなわけないだろ。フランス語も英語も中国語も、全部同じに聞こえるよ」

「それでなんでお前なんだ?」

「わからない。言葉のことは心配するなって。向こうでまず、語学学校に入るし、日本を発つ前に、留学生はみんな、センターみたいなとこに入るんだって。そこで勉強してから、あっちに行くんだって」

「どれくらい?」

「短くて三年。でも、ほとんどは、向こうで大学を卒業してくるんだってさ」

 話しながら、大介は心細さがつのってきた。自分の生活が、根本から変わろうとしている。あと数年は、このままの生活が続くと思っていた。両親と妹と、四人の平凡な暮らし。多少の波風はたっても、結局は未成年の学生という身分に守られた、責任の無い、のんきな毎日だった。それが、いきなり、たったひとりで、異国へ放り出されようとしている。

「昴、どこにいるか知らないか?」

こんな時、頼りになるのは、物知りの優等生だ。フランス語のあいさつぐらい、知ってるかもしれない。

「帰ったよ。ピアノのお稽古。秋にまた、リサイタルがあるんだってさ。そん時はまた、呼んでくれるって」

 昴はひと月前の春のリサイタルにも、仲間三人を招待した。クラシック音楽には縁のない生活を送っている三人は、半ば迷惑で、それでも仲間だから、と恩に着せるような気持ちで出かけて行った。会場のホテルで、昴の両親に紹介された。昴の叔母―一番若い叔母さんだという綺麗なひとが隣で世話を焼いてくれた。大介たちよりほんの少し年上という印象で、ふわりといい香りがした。微笑しながら、演奏される曲や作曲家についての面白い逸話を話してくれたので退屈しなかった。終わった後のレセプションでは、ワインと軽いスナックが出た。帰る頃には、三人ともすっかりいい気分になっていた。

「一番若い叔母さん、すげえ美人だったよな。また、来るかな」

「俺、秋にはもう、ここにいないよ」

大介は憂うつそうに言った。

「おふらんす。なんだよ、気が進まないのか?」

「お前なら、行きたいか?」

「うーん。おふらんすってのは、俺の趣味じゃない。オーストラリアなら、行ってもいい」

弘毅は、バン、と大介の背中をどやしつけた。

「景気の悪いつらすんなよ。大丈夫さ。毎年やってんだから。俺、これから大島さんのとこへ行く。画用紙を届けるんだ。一緒に来るか?」

大介は、行く、と言った。このまま家に帰りたくなかった。家に帰って、母に話をしてしまえば、留学の話は決定的になる。それがいやだった。赤城の話し振りでは、辞退する余地はなさそうだが、それなら、少しでも、その決定的な瞬間を遅らせたかった。


 大介が大島を訪ねるのは去年のサンクスギビング以来だ。弘毅の話では、一時、落ち込んでいたらしいが、今の大島にその影はなかった。画用紙を受け取って、いつも通り、丁寧に礼を言った。

「すごいニュースがあるんだよ」

弘毅はさっそく、大得意で披露した。

「こいつ、今度、おふらんすに留学するんだよ」

大島の表情が凍りついた…ように、大介には見えた。笑みを仮面のように張り付かせたまま、一切の感情と思考が身体から抜け落ちたようだった。呼吸の有無さえ疑われる。ただ、その瞳が、仮面に開いた二つの穴のように、じっと大介に向けられている。

 大介は怖くなった。

「今日、先生に言われたんだ。突然なんでびっくりした。今月末には、研修センターってとこに入らなくちゃいけないんだ」

恐怖を振り払うように早口で説明すると、大島は、大きく息を吐き出した。

「そうか。今年は大介君が選ばれたのか」

低くかすれた声だった。

「変だろ? こいつが留学生なんて」と弘毅。

「ちっとも変じゃないよ。特別留学生は色々な基準で選ばれる。学業やスポーツが優秀な者もいれば、そうじゃない者もいる。そういう者はまた、別の基準で選ばれるんだろう」

「どんな?」と大介。

「さあ。僕もよくは知らない」

「去年、うちの学校からは、二人、選ばれたんだ」と弘毅。

「ふたり?」

「うん。初めのやつは、名前は忘れたけど、三年の成績のいいやつだった。で、二人目が鳥飼。ナオシがえらい苦労させられたやつ」

「留学生って、辞退できないのかな」と大介。

「できないな」大島は気の毒そうに言った。

「奉仕委員会の決定は絶対だ」

「でも、なんか、人権無視って気がする」

「たしかに」

部屋に沈黙が降りた。

 弘毅はあてがはずれたようだった。面白おかしい話題として、大介の留学のニュースを持ち出したのに、大島は少しも楽しそうではない。大介をからかったり、励ましたりする―常の大島だったら、そうする―かわりに、故意に大介から目をそらし、窓の外を見つめている。大介も黙っていた。国費で留学する特別留学生に選ばれたのだから、祝福してくれるかと思っていた。大介自身は望んだわけでもなし、第一、実感もわかないが、一般的には、名誉なこととされているはずだ。だが、大島の態度は、全く逆だった。

「ご両親は、なんと言った?」

大島は、窓からこちらへ顔を向けて尋ねた。

「まだ言ってません。さっき、言われたばかりだから」

「そうか」

大島はしばらくうつむいて、考え込む風だったが、やがて顔を上げると、言葉を選ぶように、ためらいがちにゆっくりと話し始めた。

「君が不安なのはわかるよ。君の立場に立てば、誰だって不安だろう。それでね、今、思いついたんだが、経験者の話を聞いてみたらどうだろう。去年、君の学校から出た二人の留学生、もちろん、ふたりとも今、日本にはいないだろうが、その自宅を訪ねて、ご両親に話を聞いてみたら…。これから何が起こるのか知っていたら、君も、少しは安心できるんじゃないか」

「それがいいや。大介、そうしろよ」

弘毅が即座に賛成したが、大介の気持ちは晴れなかった。

「俺、知らない人と話すのは苦手だ」

「人見知りは世話が焼けるな。俺が付き合ってやるよ」

ふと、大介は思い出した。でも、鳥飼のお母さんは自殺したんじゃなかったか。去年のサンクスギビングに、飛び下りて。

 大介がその事を言い出す前に、弘毅は知り合いにメールして、さっさと二人の留学生の住所を調べさせた。

 最初に訪れた小幡家は無人だった。和風二階建ての家は、雨戸をすべて閉じ、表札もはずされていた。黄色くなったチラシの束が、郵便受けからはみ出している。誰も住んでいないらしい。

 次に行った鳥飼家は、五階建ての集合住宅の三階で、ここでも応答は無かった。表に出てから、大介は住宅を振り返ってみた。南向きの無個性のベランダがずらりと並んでいる。屋上には、円筒形の貯水槽が見えた。鳥飼の母親は、あの屋上から飛び降りたのだろうか。

あれ。

三階の鳥飼の家の窓にかかったカーテンが揺れたように見えた。大介は目をこらした。一心に見つめたが、グリーンのカーテンは、二度と動かなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る