白銀のアリシア

朝霧 露

プロローグ――名の消えた英雄

静まり返った資料室で、紙をめくる音だけが響いていた。


王立学園の奥深く。

普段はほとんど使われることのない、古い戦史の棚の前で、

アリシアは一冊の記録に目を落としている。


――八十年前の大戦。

諸国が覇権を巡り、世界が焼かれた時代。


王都陥落の危機。

帝国の侵攻。

そして、新たに結成された連合軍との二正面戦争。


戦況を覆したのは、ただ一振りの剣だった。


そこには何度も、同じ呼び名が記されていた。


白銀の剣聖。


氷を纏った剣技。

圧倒的な魔力。

戦争を終わらせた、決定的な一撃。


どの頁にも、その存在は確かに刻まれている。


「……」


アリシアは、静かに頁をめくる。


功績はある。

戦果もある。

剣の特徴も、当時の証言も残されている。


――けれど。


「……ない」


ぽつりと、声が漏れた。


どこを探しても、

どの記録を読み返しても、

名前だけが、存在しなかった。


「先生、そんな昔の資料まで読むんですね」


不意にかけられた声に、アリシアは顔を上げる。

そこには、生徒の一人が、不思議そうな表情で立っていた。


「この剣聖って……結局、誰だったんですか?」


問いかけに、アリシアは答えなかった。


再び、記録へと視線を戻す。

英雄は、確かにこの世界に存在した。

剣を振るい、戦争を終わらせた存在が、ここに記されている。


それでも――

その名は、どこにも残されていない。


「……」


アリシアは、そっと頁を閉じた。


この戦争が、八十年前の出来事だと知っている者は、

今やほとんどいない。


そして、

その名が消された理由を知る者は――


この資料室にいる中で、

彼女ただ一人だった。


(本編第1話へ続きます)

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