第3話「旅立ちの朝」

「……っ、八十年……?」


 その言葉に、アリシアのまなざしがわずかに揺れた。

胸の奥に落ちた驚きが、そっと影を広げる。


 そして――

目の前の老女を見た瞬間、ふいに胸が締めつけられた。


 白銀の剣を掲げ、誰よりも前線で戦場を駆けていた。

炎を纏うような髪。

鋭く凛とした眼差し。

“紅蓮の剣姫”と呼ばれた、あの日の団長――。


 その面影が、静かに、確かに、

今のアルマの横顔と重なった。


「……っ」


 胸の奥で、何かが小さく弾けたようだった。

八十年という歳月の重みが、

ようやく真実としてアリシアの心に届いたのだ。


「……アルマ……フレイヴァン……?」


 かすれた声が、無意識に漏れた。


 目の前の老女の名を口にした途端、

胸の奥に沈んでいた記憶が、静かに色を取り戻していく。


「紅蓮の……剣姫……アルマ・フレイヴァン……!?」


 その名を聞いた瞬間、目の前の老女の表情が静かに和らぐ。


「お久しぶりでございます、……“白銀の剣聖”アリシア様。」


 その丁寧で澄んだ声には、八十年の歳月を経てもなお、

かつて“紅蓮の剣姫”と呼ばれた気高さを宿していた。


 アリシアは小さく息を呑み、そして視線をゆっくりと伏せた。


「……そう。八十年も……経ってしまったのですね……」


 アルマは深く頷き、表情を引き締める。


「……はい。世界の情勢も、当時とは大きく変わってしまっております。」


そこで静かに息を整え、一瞬の“間”を置いた。


「――ですので。今から、私の知る限りの情報をお伝えいたします。」


アリシアは小さく息を整え、そっと視線を上げた。


「……八十年前の大戦のあと、世界は大きく姿を変えました。

 そして現在、有力とされる勢力は――主に三つの国と、一つの商業大国です。」


 アリシアは息を整え、静かにアルマの言葉を待った。


「まずは中央圏域を治める、ルミナリア王国。

 大戦の勝利により多くの領土と資源を得て、今もっとも安定した国とされています。

 ですが近年は……気候の乱れや“異常な魔物”の目撃が増え、

 民が不安を口にし始めております」


 アルマは北の方角へ視線を移した。


「次に、北方領土を中心に勢力を持つアストレイア共和国。

 もとは剣と軍事を誇る騎士国家でしたが……魔法技術は遅れておりました。

 戦後の疲弊で資源も技術も不足していたため、商業大国ガルディアと手を組み、

 資源と交易によって急速に復興しました。

 その結果、いまでは再び強力な軍事国家となりつつあります」


 アルマは丁寧に補足を続ける。


「ガルディアは大戦中、物資供給で莫大な利益を得た国ですが……

 軍事力は決して強くありません。そのため周辺国から狙われかねぬ脆さがありました。

 一方でアストレイアは復興のための資源も技術も足りなかった。

 ――互いの弱点を補う形で手を組み、今では強い結びつきを持つ同盟国となっております」


 アリシアは静かにその言葉を飲み込んだ。


「そして南西に位置する魔法国家、セレスティア帝国。

大戦の敗北で壊滅的な被害を受け、長らく沈黙しておりましたが……

 ここ十年ほど、妙に動きが活発で、不穏な空気を見せています」


 アリシアは静かに息をつき、アルマの語った情勢を胸の中で整理した。


「……そう、ですか。

 世界は……随分と変わってしまったのですね」


 小さく呟く声には、懐かしさと戸惑いが入り混じっていた。


 アルマは深く頷き、穏やかな声音で続ける。


「はい。ですが――

 より詳しい情報は、やはり王都ルミナリアにございます。

 アリシア様が直接お確かめになるのが、いちばん確かでしょう」


 その言葉に、アリシアはふと目を伏せ、しばし考え込む。


 そして顔を上げたとき、その瞳には静かな決意が宿っていた。


「……わかりました。

 まずは王都へ向かおうと思います。

 いまの世界がどうなっているのか――

 この目で、ちゃんと見ておきたいので」


 アルマはその言葉を聞いて、ほっと表情をゆるめた。


「……はい。それがよろしいかと存じます。

 アリシア様のお召し物も、簡単ではございますが

 旅に適したものをご用意しております。

 まずは旅支度を整えましょう。

 王都までは……少々距離がありますから」


 アルマの言葉に、アリシアは胸にそっと手を添えた。

八十年の時の重さが、静かに息へ溶けていく。


「……えぇ。そうね。まずは支度をしないと」


 アリシアは静かにそう言うと、布団を押しのけて身を起こした。

足を床へ下ろした瞬間――


「っ……」


 ふらりと身体が傾ぎ、視界が揺れた。


「アリシア様!」


 アルマが思わず駆け寄る。しかしアリシアは、ぐっと意識を集中させ、

自分の足でしっかりと立ち上がった。


「……大丈夫。ごめんなさい、少しふらついただけよ。でももう平気」


 そう微笑んだあと、ふと続ける。


「それと……アリシアでいいわ。“様”なんて、そんな大袈裟よ」


 アルマの目がわずかに見開かれ、驚きと嬉しさが交じる。


「……アリシア。では、私のことも……アルマと、お呼びください」


「えぇ、アルマ」


 二人は向かい合い、静かに目を合わせた。


「……では、あらためて」


 アリシアはやわらかく微笑み、そっと歩み寄る。


「私を助けてくれて……本当にありがとう」


 その言葉を告げてから、アリシアは両腕を広げ、

アルマの胸元へ静かに身を寄せた。


 温かな抱擁の中で、アリシアは続ける。


「そして……長い間、お待たせしました」


 アルマは震える息をこらえ、アリシアの背へそっと腕を回した。


「こちらこそ……アリシアには、これまで何度命を救われたか。

 恩は数え切れぬほどございます。……本当に、お戻りくださって……」


 抱擁は短く、だが深く――

八十年という長い歳月を越えた再会の温もりが、確かにそこにあった。


 そっと身体を離し、アリシアが小さく息を整える。


「……ありがとう、アルマ。じゃあ、支度をしてくるわね」


 アリシアは小さく一礼すると、小屋の奥へ姿を消した。


「えぇ、お待ちしております……」


 アルマは静かに息を整えながら、そっと手を胸に当てる。

——八十年ぶりに、あの方が歩き出す。


 しばしの静寂が流れたのち。


 ギィ……と、木製の扉がゆっくりと開いた。


 差し込む光の中に、白を基調とした軽やかな旅装を纏ったアリシアが立っていた。

 柔らかく揺れる薄布の裾、品よく施された淡い刺繍。

動きやすさを備えながらも、どこか聖潔さを思わせる装い——

 その姿は、まさに“白銀”の名にふさわしい気高さを宿していた。


 アルマはその光景を目にした瞬間、思わず息を呑んだ。


「……っ……そのお姿……

 まるで……あの頃のまま……」


 滲んだ涙が、静かに頬を伝う。


 アリシアは少しだけ目を丸くし、そして照れたように微笑んだ。


「ちょ、ちょっとアルマ……

 泣かないでよ……大丈夫?」


 その柔らかな声に、アルマは指先でそっと涙を拭った。


「……失礼いたしました。ですが……本当に……

 再びこのようなお姿を拝見できる日が来ようとは……」


 アリシアはそっと微笑み、静かに頷いた。


 そのまま玄関へ向けて歩き出そうとした――その時、


 アルマがふいに木棚へと手を伸ばした。


「アリシア。……これを、お持ちください」


 丁寧に包まれた布をそっとめくると――

澄みきった氷の刃が、微光を湛えて姿を現した。


「……これは……氷華ひょうか……」


 声が震え、言葉にならない息が漏れる。

柄へ手を伸ばすと、懐かしい冷たさが掌に寄り添った。


「どこで……これを?」


 アリシアの問いに、アルマは静かに微笑む。


「アリシアが倒れていた近くで……まるで私を呼ぶように、

 きらきらと灯火のように輝いておりました。

 後にそれがアリシアの愛剣“氷華”だと知り、

“この剣を返すその日まで守らねば”と……

 ずっと大切に保管しておりました」


 アリシアは氷華を胸に抱き寄せ、そっと目を閉じた。


「……ありがとう、アルマ」


 アルマはその言葉に深く頷き、アリシアをまっすぐに見つめる。


「アリシア。ひとつだけ……どうしても伝えておきたいことがあります」


 その声音に気づき、アリシアはゆっくりと向き直った。


 アルマは息を整え、胸に秘めていた思いをそっと解き放つ。


「アリシア。あなたには、再び“決断を迫られる時”が訪れます。


 ……どちらかを選ばなければならない瞬間が、必ず来るでしょう。

 どちらかを助けるということは……もう一方を傷つけるということ。

 中立ではいられない以上、それは避けられない事実なのです」


 アリシアの瞳が、わずかに揺れた。


「……でも、どんな決断をされたとしても……

 どうか、自分を責めないでくださいませ」


 しばしの静寂。


 アリシアはそっと息を吸い、ゆっくりと頷いた。


「……そうね。ありがとう、アルマ」


 そして彼女はアルマの瞳をまっすぐに見つめ、柔らかく微笑んだ。


「行ってきます」


 その言葉に、アルマの表情がふっと和らぐ。


「……行ってらっしゃい」


 アリシアは氷華を腰へ下げ、振り返らずに歩き出す。

 その背中は、まっすぐで、強かった。


 アルマはその後ろ姿を静かに見送る。


「――片方を選ぶだけなら、もしかすると……それほど難しいことではないのかもしれません」


 アリシアの姿が森の奥へ消えていく。


「ですが、あなたは……双方どちらも救う“新たな答え”を探そうとするのでしょう。

 それはきっと、選択という問題よりも遥かに難問となるはずです」


 その声は震えていない。けれど、頬をひとすじの涙が伝った。


「……でも、あなたなら――その答えにすら辿り着いてしまう気がします。

 まだ誰も解くことのできていない、その難問の答えを……

 いつか私に、教えに来てくださいませ」


 アルマは胸元でそっと手を重ね、深く、静かに目を閉じた。


「……これで。


 私のお役目は、果たせました。」


「どうか――もう一度、世界を救ってくださいませ。


 ――剣聖様」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る