第29話 エルフの奉仕と、可愛い嫉妬

「あなた様は、我らエルフ一族の『母』そのものを……絶望の淵から救ってくださったのです」


 目の前で、美しいエルフの女性――エリアーナさんが、涙に濡れた翡翠の瞳で俺を見上げている。

 あまりの出来事に、俺の思考は完全にフリーズしていた。


「え、ちょ、な、何をしてるんですか!? とにかく立ってください!」


 俺は慌てて彼女に手を差し伸べるが、エリアーナさんは静かに首を横に振った。


「いいえ。恩人であるあなた様に、真実をお伝えするまでは、このまま……」


 母? 一族の母?

 意味が分からず、俺はただ呆然と立ち尽くす。

 リリアも、セナさんも、クロエさんも、息を呑んで成り行きを見守っていた。


 エリアーナさんは、震える声で語り始めた。


「我ら一族は、外界から隔絶された森の奥深く……『隠れ里』で暮らしております」

「隠れ里……」

「はい。そして、この杖は、元々は里の生命線である『母なる大樹』様の枝から作られた、生命を育むための聖なる杖でした」


 聖なる杖。そう言われてみれば、今のこの『世界樹の若杖』から感じる温かい生命力は、まさにそんな言葉が相応しい。

 だが、それがなぜ、あの死を振りまく呪物になってしまったのか。


「……ですが、ある時から、『母なる大樹』様が謎の病に侵されてしまったのです。葉は枯れ落ち、幹は色褪せ……日に日に、その生命力を失っていかれました」


 エリアーナさんの声が、悲しみで翳る。


「その影響を受け、この杖も力を失い、いつしか生命を『与える』のではなく、『奪う』呪物へと成り果ててしまったのです。我らは、それを『汚れ』と呼んでおりました」


(母なる大樹の病……それが、この杖の『汚れ』の正体……)


 ただの呪いじゃない。もっと根源的な、生命そのものが蝕まれた結果だったのか。

 俺が杖を浄化したということは、つまり……。


「あなた様がこの杖を浄化してくださったことで、ほんの僅かですが、『母なる大樹』様にも生命の光が戻ったと、里から知らせが……!」


 エリアーナさんは、再び涙をぽろぽろとこぼした。

「これは、我ら一族にとって、何百年ぶりかの希望の光なのです……! このご恩は、言葉だけでは、到底返しきれません……!」


 彼女はそう言うと、改めて地面に額をこすりつけんばかりに、深々と頭を下げた。


「どうか、この身をあなた様に捧げることをお許しください。この『アクア・リバイブ』で、住み込みの雑用係として、あなた様のお手伝いをさせてはいただけないでしょうか!」

「へぶっ!?」


 俺は、変な声を出して飛びのいた。

 す、住み込み!? 雑用係!?


「む、む、む、無理です! 絶対に無理です! 俺、人と一緒に住むなんて、家族とですら上手くいかなかったのに、こんな美しいエルフの方と一つ屋根の下だなんて、心臓が爆発四散してしまいます!」


 俺が全力で拒絶の言葉を並べていると、今まで黙っていたリリアが、ずいっと俺とエリアーナさんの間に割って入ってきた。


「そ、そうよ! ちょっと待ちなさいよ! いきなり住み込みなんて、そんな……! だいたい、あんたがいなくても、あたしたちがアラタのことは……」

 リリアが、なぜか慌てたようにまくし立てる。

「そうですわ! アラタ様のお側には、わたくしたちがおりますもの! 見ず知らずの方を、そう易々と……」

 セナさんも、頬を少し膨らませて同調した。


(お、ナイスだ、二人とも! そうだ、もっと言ってやれ!)


 俺が内心で援護射撃を頼むと、クロエさんが静かに口を開いた。


「……家事、できる?」


 え、そこ?


 クロエさんの的確すぎる質問に、エリアーナさんは顔を上げ、涙を拭って毅然と答えた。

「はい。掃除、洗濯、料理はもちろん、薬草の調合や簡単な武具の手入れまで、一通りは心得ております。必ずや、お役に立ってみせます」

 なんという完璧超人。


「「ぐっ……!」」


 リリアとセナさんが、言葉に詰まった。

 そうだ。俺たちは冒険者パーティー。家事能力なんて、正直言って壊滅的だ。

 特にリリアなんて、前に料理を作らせたら、黒い炭の塊を生み出していたし……。


「……採用」

 クロエさんが、ボソリと呟いた。

「採用じゃないわよ、クロエ!」

「ですがリリア、合理的ですわ……。お店も、もっと綺麗になるかもしれません……」

「セナまで!?」


 仲間たちの助け舟は、あっという間に泥舟となって沈んでいった。

 そして俺は……三対一(しかも一人は裏切り済み)の状況で、美しいエルフの涙ながらの懇願を、断れるはずもなかった。


「…………うぅ、分かり、ました……」


 こうして、俺の店『アクア・リバイブ』に、初の従業員が誕生した。

 俺の平穏な引きこもりライフは、また一歩、遠のいてしまったのだった。


 ◇


 翌日から、俺たちの生活は激変した。


「アラタ様、朝のお目覚めに、森で汲んできた朝露で淹れた薬草茶はいかがですか?」

「リリア様、セナ様、クロエ様。朝食の準備ができております。本日は焼きたてのパンと、木の実のスープでございます」


 エリアーナさんは、まさに完璧なメイドだった。

 俺が起きる頃には、店中はチリ一つなく磨き上げられ、朝食はまるでおとぎ話に出てくるような、美味しくて健康的な料理が並んでいる。


「お、おいしい……! なによこれ、パンがふわふわじゃない……!」

「スープも、優しい味がしますわ……。心まで温まります……」

「……おかわり」


 リリアたちは、あっという間にエリアーナさんの胃袋を掴まれていた。

 いや、もちろん俺も、めちゃくちゃ感動している。ニート時代、飯はいつもコンビニ弁当か親の残り物だったんだ……。


 だが、問題はそこからだった。


「アラタ様、少しお疲れのご様子。肩をお揉みしましょうか?」

「ひぃっ! い、いえ、結構です!」

 献身的すぎるエリアーナさんの奉仕に、俺のコミュ障ハートは常に限界寸前だ。


 そして、その光景を、二人の少女が面白くなさそうに見ていた。


「……な、なによ! あたしだって、アラタのためにお茶くらい淹れてあげられるんだから!」

 そう言ってリリアが淹れたお茶は、なぜか泥水のように濁っていた。

「わ、わたくしだって、お店のお掃除くらい……きゃっ!?」

 セナさんが手に取った箒は、なぜか彼女の足に絡まり、盛大にひっくり返る。


 二人のぎこちない対抗心は、工房をさらに騒がしくするだけだった。

 ちなみにクロエさんは、エリアーナさんから効率的な雑巾の絞り方を、真剣な顔で教わっていた。君はそれでいいのか。


(なんでこんなことに……)


 俺は、頭を抱えながら、工房で新しい依頼品の浄化作業を進める。

 エルフの美少女が淹れてくれたお茶を飲みながら、クリムゾン・エッジの美少女たちがドタバタしている。なんだこのハーレムラノベみたいな状況は。俺には荷が重すぎる。


 そんな俺の心を知ってか知らずか、エリアーナさんが、そっと俺の隣にやってきた。

 そして、工房の窓から外の賑わう街並みを見つめ、ふと真剣な顔で呟いた。


「……この街は、本当に平和ですね」

「え? ああ、はい……」


 唐突な言葉に、俺は戸惑いながら相槌を打つ。

 彼女は、俺の方へと向き直ると、その翡翠の瞳に、深い憂いの色を浮かべた。


「ですが、アラタ様。どうか、お忘れなきよう……」

「……?」


「母なる大樹様を蝕む、本当の『汚れ』は……今この瞬間も、世界のどこかで静かに、そして確実に、広がっているのですから」


 彼女の言葉は、この華やかで騒がしい日常が、巨大な嵐の前の静けさに過ぎないことを、確かに予感させていた。

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