第26話 新生せし世界樹の若杖

「――『ごちそうさま』の時間ですよ!」


 俺の宣言が、緊迫した工房の空気を切り裂いた。

 怨霊の死の指先が俺の額に触れる寸前。

 リリアも、セナさんも、クロエさんも、絶望に顔を歪ませていた。


 そんな状況で放たれた、あまりにも場違いな俺の一言。

 三人の時間が、ピタリと止まったのが分かった。

 きっと彼女たちの頭の中は、「は?」「ごちそうさま?」「こいつ、最後の最後に頭がおかしくなったの?」というクエスチョンマークで埋め尽くされているに違いない。


 だが、俺の言葉は、ただの戯言じゃなかった。

 それは、最高の『洗い物』を終えた、職人による完了の合図。


 カッ!!


 俺が両手で支える浄化槽の中から、太陽が爆ぜたかのような、凄まじい光が溢れ出した。

 工房の全てが、純白に塗りつぶされる。


「きゃっ!?」

「ま、またですの!?」

「……光が、前より……強い……!」


 仲間たちの悲鳴が聞こえる。

 そして、その光の中心で、心地よい破壊音が響き渡った。


 ピシッ、ピシッ、ピシシッ……パリンッ!


 それは、長年こびりついていた頑固な汚れが、ついに剥がれ落ちる音。

 『死喰らいの茨杖』を覆っていた、あの禍々しい黒い茨が、まるで薄いガラス細工のように砕け散っていく。

 砕けた茨の破片は、黒い闇に戻るのではなく、一つ一つが光の粒子となって、キラキラと工房の中を舞い始めた。


『……ギ……!?』


 俺に迫っていた飢餓の怨霊が、驚愕の声を上げて後ずさる。

 その空虚な瞳が、光の発生源――浄化槽の中へと向けられた。


 やがて、まばゆい光が収まった時。

 そこに現れた光景に、俺たちは息を呑んだ。


 かつて、死と絶望を振りまいていた黒い杖の姿は、どこにもなかった。

 代わりに、聖水で満たされた桶の中から静かに浮かび上がってきたのは、一本の、生命力に満ち溢れた美しい若杖だった。

 芽吹いたばかりのような瑞々しい乳白色の枝。そこから伸びる、柔らかな緑の若葉。そして、枝の先端には、まるで夜空に輝く星々のように、小さな白い花がいくつも咲き誇っている。


「うそ……」

 リリアが、呆然と呟いた。

「なんて……なんて美しい杖なのでしょう……」

 セナさんは、うっとりと涙を浮かべている。


 これが、この子の本当の姿。

 『死喰らいの茨杖』じゃない。

 生命の祝福に満ちた、『世界樹の若杖』。

 俺は、完璧な仕上がりに、満足のため息を漏らした。


『……ア……アア……』


 飢餓の怨霊が、その光景を見て、震えるような声を上げた。

 その声には、もはや飢えも渇きも感じられない。

 ただ、懐かしいものに再会したかのような、深い、深い安堵の色が滲んでいた。


 次の瞬間。

 新生した『世界樹の若杖』から、ふわりと、暖かな生命の光が放たれた。

 それは攻撃的なものではない。

 まるで、母親が我が子を抱きしめるような、優しく、慈愛に満ちた光。

 光は、まっすぐに怨霊へと向かい、その痩せこけた体を、そっと包み込んだ。


『……ギ……ァ……』


 怨霊の体が、ビクリと震える。

 だが、それは苦悶の反応ではなかった。

 長年、忘れていた温もりを思い出したかのような、戸惑いの反応。


 光に包まれた怨霊の姿が、ゆっくりと変化していく。

 落ち窪んでいた眼窩に、穏やかな光が灯る。

 何かを求め続けていた指先は、祈るように胸の前で組まれた。

 そして、飢えと渇きに歪んでいたその表情が――ふっと、安らかな微笑みへと変わったのだ。


『……ア……リ……ガ……ト……』


 声にならない、感謝の言葉。

 それが、確かに俺たちの心に響いた。

 怨霊は、満足げに微笑んだまま、その体は足元からゆっくりと光の粒子へと変わり始める。

 それは、消滅ではなかった。

 長い、長い苦しみから解放された魂が、本来あるべき場所へと還っていく、祝福の光景。

 まさしく、『成仏』だった。


 やがて、最後の光の粒子が天井に吸い込まれるように消え、工房には、嘘のような静寂が戻ってきた。


「…………」

「…………」

「…………」


 リリアも、セナさんも、クロエさんも、目の前で起きた奇跡の光景に、ただ立ち尽くしている。


「はぁ……はぁ……」


 俺は、その場にへたり込んだ。

 どっと、全身から力が抜けていく。

 全身全霊をかけた『洗い物』は、想像以上に体力を消耗していたらしい。


「ア、アラタ! 大丈夫!?」

 我に返ったリリアが、慌てて駆け寄ってきて俺の体を支えてくれる。

「ええ、まあ……なんとか。最高の仕上がりでしたから」

「仕上がりって、あんたねぇ……!」


 リリアは呆れたように言いながらも、その声は安堵に震えていた。

 俺は彼女に支えられながら立ち上がると、浄化槽の中へと手を伸ばす。

 そして、生まれ変わった『世界樹の若杖』を、そっと手に取った。


 ひんやりとした死の感触はない。

 代わりに、まるで生まれたての赤子のような、温かい生命の脈動が、手のひらから伝わってきた。


「……よかった。お腹、いっぱいになったみたいですね」


 俺が杖に微笑みかけた、その時だった。

 杖が、俺の言葉に応えるかのように、ひときわ強い、祝福の光を放ったのだ。


 その光は、もはや工房の中だけには留まらなかった。

 店の壁を、扉を、天井を、まるで存在しないかのように透過し――外の世界へと、一筋の閃光となって、真っ直ぐに突き抜けていったのだ。


「え……?」

「な、なんですの、この光は……!?」


 光は、店の外で固唾を呑んで見守っていた野次馬たちの頭上へ。

 そして、その中心で、歪んだ笑みを浮かべていたカイン・フォン・アークライトの元へと、平等に降り注いでいく。


 俺たちの知らない場所で、新たな奇跡が始まろうとしていた。

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