第10話 蘇る神速、そして約束の場所へ

「……分かりました」


 自分でも信じられないほど、か細く、それでいて確かな響きを持った声が、俺の口からこぼれ落ちていた。

 目の前で深々と頭を下げる赤髪の少女、リリア。彼女の祈るような姿と、目の前に差し出された極上の『汚れ』。その二つの引力に、俺の貧弱な抵抗はあっさりと粉砕された。


(やっちまったああああ! なんで引き受けちまうんだ俺のバカ! コミュ障! 人見知り! 社会不適合者! これからどうすんだよ!)


 内心で頭を抱えて絶叫する俺とは裏腹に、俺の右手はまるで自分の意思を持っているかのように、すっ、と前に伸ばされる。

 そして、黒い瘴気を放つ、呪われたガントレットにそっと触れた。


 ズンッ……!


 触れた瞬間、脳髄に直接、冷たくて重い泥を流し込まれるような、強烈な不快感が全身を貫いた。

 聖剣の時とは違う。あれは長い年月をかけて蓄積された、いわば「自然発生した汚れ」だった。だが、こいつは違う。明確な悪意と殺意を持って練り上げられた、純度100パーセントの呪詛の塊だ。


「……っ!」


 リリアが、俺の表情がこわばったのを見て、心配そうに顔を上げた。

「だ、大丈夫……? やっぱり、無理そうなら……」


「いえ……大丈夫、です。これは……すごい『汚れ』だ」


 俺の口から漏れたのは、恐怖ではなく、歓喜に満ちた呟きだった。

 リリアと、その後ろで見守っていた銀髪と黒髪の少女が、俺の言葉の意味が分からず、ポカンとした顔で俺を見ている。


(説明なんてできない。分かるはずがない。この、人生最大級の強敵と対峙している、この武者震いにも似た興奮を!)


 俺はガントレットをリリアの手から受け取ると、再び公園の水道へと向き直った。

 蛇口をひねり、冷たい水を流す。


「え、あ、洗うの!?」


 リリアの素っ頓狂な声が聞こえるが、もう俺の耳には届かない。

 俺は目を閉じ、意識を目の前のガントレットに集中させる。

 物理的な汚れはない。問題は、この内部にまで染みついた、魂を腐らせるかのような呪詛だ。


(こいつを洗い流す……!)


 俺は、進化したばかりのスキル【万物浄化】の力を、意識的に引き出した。

 聖剣の時のような、無我夢中の暴走じゃない。

 俺が長年培ってきた【洗い物】の技術――汚れの構造を見極め、最適な手順で、最小限の負荷で完璧に洗い上げる、その精密なコントロールを、このスキルに乗せる。


(綺麗になれ)


 心の中で、強く、ただ強く念じる。

 俺の魂が、俺の存在価値の全てが、淡い光の粒子となって両手からガントレットへと流れ込んでいく。


 ジュウウウウウゥゥゥーーーーッ!!


「「「きゃっ!?」」」


 背後で少女たちの短い悲鳴が上がる。

 ガントレットから立ち上っていた黒い瘴気が、まるで聖水に触れた悪霊のように、断末魔の叫びにも似た甲高い音を立てて霧散していく。


 黒光りしていた無骨な鉄の表面に、まるで錆が剥がれ落ちるように、亀裂が走る。その亀裂から漏れ出すのは、闇ではない。内側に閉じ込められていた、燃えるような紅蓮の輝きだ。


 パリィン、と黒い呪いの殻が砕け散る。

 そして、俺の手の中に現れたのは――。


「……美しい」


 思わず、ため息が漏れた。

 そこにあったのは、まるで竜の鱗を一枚一枚丁寧に重ね合わせたかのような、流線的で美しいフォルムを持つ、深紅のガントレットだった。表面には炎を模した金色の紋様が走り、その中心には、脈動するかのように淡い光を放つ赤い宝石が埋め込まれている。


 俺の脳内に、再び情報が流れ込んできた。


『アイテム名:神速の籠手(ブレイズ・ガントレット)』

『ランク:S』

『状態:浄化済』

『呪い:【筋力半減】→ 解除済』

『真の能力:【神速連撃(アクセル・ラッシュ)】解放』


「……できました」


 俺は振り返り、呆然と立ち尽くすリリアに、生まれ変わったガントレットを差し出した。

 その輝きは、公園の薄暗い闇を払うかのように、神々しい光を放っている。


「う……そ……」


 リリアは、震える手でそれを受け取った。

「あたしの……あたしの『ブレイズ・ガントレット』が……元の姿に……いや、それ以上の輝きに……」


 彼女は恐る恐る、そのガントレットを自分の左腕に装着した。

 カシン、と心地よい音を立てて、ガントレットが彼女の腕に吸い付くようにフィットする。


 その瞬間、リリアの全身から、凄まじい闘気のオーラが迸った。


「なっ……! なに、これ……!?」


 リリア自身の目が、信じられないものを見るように見開かれる。

「力が……力が、蘇ってくる……! ううん、前よりもずっと……!」


 彼女は衝動を抑えきれないとばかりに、軽く左の拳を振るった。

 ブンッ! と、空気が裂けるような鋭い音が響き渡る。


「すごい……! すごいわ! 呪いで重く沈んでいた体が、羽のように軽い! これなら……これなら、あたしの剣は、もう一度……!」


 歓喜に声を震わせるリリアの瞳から、大粒の涙がいくつもこぼれ落ちた。


「リリア……!」

「よかった……本当によかった……!」


 仲間である銀髪の少女と黒髪の少女が、リリアに駆け寄り、三人で抱き合って喜んでいる。その光景を、俺は少し離れた場所から、ぼんやりと眺めていた。


(ああ……よかったな)


 なんだか、胸が温かくなる。

 俺の【洗い物】が……いや、【万物浄化】が、初めて誰かの役に立った。誰かを、笑顔にできた。

 今まで家族の誰からも感謝されたことなんてなかった俺にとって、それは経験したことのない、くすぐったいような感情だった。


 喜びの涙が落ち着いたのか、リリアは俺の方に向き直ると、改めて深々と頭を下げた。


「本当に、ありがとう……! あなたは、あたしたち『クリムゾン・エッジ』の恩人よ!」


 顔を上げた彼女の表情は、先ほどまでの絶望が嘘のように、太陽のような笑顔に変わっていた。


「そうだ! こんなすごいことをしてもらったんだもの、ちゃんとお礼をしなくちゃ! ねぇ、あたしたちと一緒に、冒険者ギルドまで来てくれないかしら!」


「へ……?」


 ぎ、ぎるど……?

 冒険者が集まる、あの……?


「む、無理です無理です! 絶対無理です! 俺みたいなのが、そんな人がいっぱいいる場所に行ったら、蒸発して死にます!」


 思わず、全力で首を横に振って拒絶する。

 しかし、リリアはぐいっと俺に顔を近づけてきた。快活な笑顔が、やけに眩しい。


「何言ってるのよ! これは正式な依頼として、ちゃんと報酬を支払いたいし! それに……」


 彼女は、後ろにいる仲間たちを指差した。


「この子たちの装備も、まだ呪われたままなの。だから、お願い! あたしたちを、あたしたちのパーティーを、完全に救ってほしいの!」


「うっ……」


 言葉に詰まる。

 彼女たちの装備……それはつまり、まだこの世界には、俺が浄化すべき『汚れ』が残っている、ということ……。


 俺が葛藤していると、リリアは「えーい、問答無用!」と叫んで、俺の腕をがっしりと掴んだ。


「さあ、行くわよ! アラタ!」

「ちょ、え、名前!? いつの間に……ひ、引っ張らないでくださいぃぃぃ!」


 俺の情けない悲鳴は、世界の終わりの喧騒に虚しく吸い込まれていく。

 聖剣エクスカリバー・ゼロを小脇に抱え、薄汚いスウェット姿のまま、俺は美しい女剣士に腕を引かれ、冒険者ギルドという未知の魔境へと強制連行されることになった。


 これから俺の運命がどうなるのかなんて、全く想像もつかなかった。

 ただ、一つだけ確かなことがある。

 あの場所には、きっと、もっとすごい『汚れ』が待っているに違いない――。

 そう思うと、不思議と足取りが、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。

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