第7話 絶望の底で見つけた鉄屑、俺はそれを洗わずにはいられなかった

汚い。

 あまりにも、汚すぎる。


 世界の終わりを告げるかのようにそびえ立つ禍々しい塔。街を飲み込まんと広がる、怨念を煮詰めたような汚泥の海。逃げ惑う人々の絶叫。その全てが、俺の意識からは遠ざかっていく。


 家族に捨てられ、社会に拒絶され、このまま凍え死ぬだけだと思っていた俺の、空っぽになったはずの心。その中心に、まるで灼熱の鉄を押し付けられたかのように、一つの感情が焼き付いていた。


(汚い、汚い、汚い、汚い……!)


 目の前に広がる、無数の武具の残骸。

 泥にまみれ、錆に蝕まれ、呪いに蝕まれ、本来の姿を完全に失ってしまった、哀れな鉄屑の山。

 その一つ一つが、声なき声で俺に助けを求めているように感じられた。


「綺麗に、してくれ」と。


「……ははっ」


 乾いた笑いが、凍てついた唇から漏れる。

 頭おかしいだろ、俺。世界が終わろうとしてるんだぞ? 今まさに、命の火が消えかかってるんだぞ? なのに、考えていることは、目の前のゴミをどうやって綺麗にするか、だけ。


 だが、俺の体は、俺の意思とは関係なく、勝手に動き出していた。

 ふらり、とベンチから立ち上がる。鉛のように重かったはずの体が、嘘のように軽い。


 ズブリ、と汚泥の中に足を踏み入れる。靴の中に染み込んでくるヘドロの不快感も、今はどうでもよかった。

 俺は、何かに導かれるように、無数の残骸の中から、ある一点へと向かっていく。


 それは、ひときわみすぼらしい、一本の短剣だった。

 柄は腐り落ち、刀身は赤黒い錆と泥の塊に覆われ、もはや武器としての体をなしていない。誰が見ても、ただの鉄屑だ。


 だが、俺には分かった。

 この分厚い「汚れ」の鎧の下に、本来の美しい輝きが、か細い息をしながら閉じ込められているのが。


(見つけた……)


 俺は、まるで長年探し求めていた宝物を見つけたかのように、そっとその短剣を拾い上げた。

 手に取った瞬間、ズシリとした重みと共に、脳髄を直接かき混ぜられるような、強烈な不快感が伝わってくる。


(なんだ、これ……銀食器の時の『淀み』とは比べ物にならない……! 怨念、憎悪、絶望……負の感情の塊じゃないか……!)


 だが、恐怖はなかった。

 むしろ、逆だ。

 これほどの敵(汚れ)を前にして、俺の魂は、歓喜に打ち震えていた。


「最高の……『作品』に、なる……」


 俺は短剣を抱えるように持ち、振り返る。

 この汚泥の海から、俺を救い出してくれるヒーローはいない。俺に手を差し伸べてくれる家族もいない。


 だが、俺には聖域がある。

 戦場がある。


 俺は、公園の隅にある、古びた水道へと向かって、おぼつかない足取りで歩き出した。

 周囲の阿鼻叫喚は、もはやBGMでしかなかった。


 キュ……という耳障りな音を立てて蛇口をひねると、凍えるほど冷たい水が勢いよく流れ出す。

 俺は、その冷たさも意に介さず、短剣を洗い始めた。


 まずは、表面にこびりついた物理的な汚れからだ。

 指先で、泥の質感を確かめる。


(粘土質の泥だな。粒子が細かいから、傷をつけないように、まずは流水で大まかに洗い流す……!)


 ゴシゴシとこするのではない。水の流れだけを利用し、泥が自ら剥がれ落ちていくように、絶妙な角度で短剣を動かす。

 数分後、大まかな泥が落ち、赤黒い錆に覆われた刀身が姿を現した。


(次は、この錆か……。これは酸化鉄……だが、ただの錆じゃない。魔力的な何かが混じっている。研磨剤で削るのは下策だ)


 洗剤も、薬品もない。

 だが、俺には【洗い物】で培った経験と知識がある。

 俺は辺りを見回し、花壇の隅に落ちていた、酸性の土壌を好む植物の枯れた葉を見つけた。それをすり潰し、わずかに残った樹液を錆の上に塗りつけていく。


(気休めかもしれない。でも、酸で錆を中和する原理は同じはずだ……!)


 ブツブツと呟きながら、俺は一心不乱に作業を続ける。

 まるで、精密な外科手術を行う医者のように。

 あるいは、失われた芸術品を修復する職人のように。


 不思議なことに、凍えて動かなかったはずの指先が、今は自分の意思通りに、繊細に動いていた。体の芯から、何かが燃え上がっているかのような、熱い感覚があった。


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 俺の執念が通じたのか、あれほど頑固だった錆が、少しずつ剥がれ落ちていく。

 そして、ついに――。


 分厚い汚れの層の下から、くすんではいるが、紛れもない鋼の刀身が姿を現した。


「はぁ……はぁ……」


 荒い息をつきながら、俺は自分の仕事に見惚れる。

 物理的な汚れは、ほぼ完璧に落としきった。

 だが、これで終わりではない。


 この短剣には、まだあのドス黒い『淀み』が、魂にこびりついたタールのようにまとわりついている。これこそが、この短剣をただの鉄屑に貶めている、汚れの根源だ。


(ここからが、本番だ……)


 俺は、あの銀食器の時と同じように、そっと目を閉じた。

 全ての意識を、手のひらの短剣に集中させる。


 世界から音が消える。

 寒さも、痛みも、絶望も、全てが遠のいていく。

 俺と、目の前の「汚れ」だけが、この世の全てだった。


(綺麗になれ)


 それは、祈り。

(お前は、こんな汚れた姿でいるべきじゃない)

 それは、願い。

(お前が本来持っている、本当の輝きを取り戻せ)

 それは、命令。


 俺の人生の全て。

 家族に罵倒され続けた28年間。

 社会からゴミ扱いされた日々。

 その中で、唯一俺が俺でいられた、【洗い物】という行為への、異常なまでの執念。

 その全てを、この一点に注ぎ込む。


 俺の存在価値の、全てを懸けて――。


 すると、どうだろう。

 俺の魂が、まるで蛇口から流れ出る水のように、手のひらの短剣へと流れ込んでいくのを感じた。

 激しい消耗感。命そのものを削っているかのような感覚。


 だが、それと引き換えに、短剣にまとわりついていたあの粘つくような『淀み』が、陽光に晒された氷のように、少しずつ、少しずつ溶けていくのが分かった。


(いける……! 落ちる……! この汚れは、俺が洗い流せる……!)


 確信が、歓喜となって全身を駆け巡る。

 俺が、俺の力が、この世界で初めて、何かを成し遂げようとしている。


 その時だった。


 カッ……!


 閉じた瞼の裏で、閃光が弾けた。

 手のひらの短剣が、まるで小さな太陽になったかのように、凄まじい熱と光を放ち始めたのだ。


 そして、俺の体もまた、その光に呼応するかのように、内側から淡い輝きを放ち始めていた。

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