第2話 夏休み・ぐいぐいくるクマ
「おい相原!」
ウソでしょ? なんであいつが?
夏休みに入り萩徳漁港の白灯台道から海を眺めていたわたしに、大音量で割れ鐘のような汚い声を掛けてきたのは
影間島にある六校の小中学校を兼務する図書司書。今年から赴任してきた。一応「南方先生」とは呼ぶが教師という意味での「先生」ではない。
若ぶって大型バイクなどを乗り回しているが五十を幾つか過ぎている痛いオヤジ。デリカシーが無いから嫌いだ。
「おい相原!」
「はい」大人に二度も呼ばれたら返事をするしかない。
しゃがんでいたけれど立ち上がって返事をしてやった。
「おい相原!」
何? 三回目って!
「そんなちっちゃい声じゃ返事にならんぞ! 返事は相手に聞こえるようにするもんだ」
ちっちゃい声の返事聞こえてるんじゃん。
「なんでしょうか?」
「いや、釣りでもしようかとこのあたりを回ってるんだが」
確かに釣竿を持っている。
「なかなか良さそうな場所が無くてね。萩徳港はいかがなものかと眺めてみたらみつきちゃんがしゃがんでるのが見えたから「あ、ウンコしてるのかな?」って」
「するわけないでしょ!」
「そうそう、するわけないよね。するわけないのにするっていうのはよっぽどの理由があるんだろうなって先生気になっちゃって」
「だからしてませんって!」
「ならいいけど」
冗談なんだか本気で言っているのか、こいつは本気で言っているフシがあるから怖い。
「用が無いならどっかに行って下さいませんか」
「おいおいここはみつきちゃんの堤防なのか? みつきちゃんの許可が無いと入れないのか?」
ち、めんどくさいヤツ。
「……じゃあいいです。わたしが帰ります」
一拍あって。
「ちょ待てよ」
何そのドヤ顔。似てるよ。似てますよ。あのグループから出たかっこいい俳優に。声はそっくりだったよ。だけど……。
思わず頬がゆるんでしまった。
声と顔と体型のギャップに堪え切れない。
「おお、いいねえ。先生みつきちゃんの笑顔初めて見たよ」
「先生は自分が何と呼ばれているか知っていますか?」
「クマだろ?」
知っているのか。名字の南方から偉人の「南方熊楠」経由で体型と振る舞いから学校ではみんな「あのクマが」とか「あ、クマが来た」とか南方先生のことはクマとしか呼ばない。
「クマが二枚目俳優のセリフを言ったら笑うでしょうよ」
「ああ、まあ、じゃ二枚目なクマってことで……」
何言ってんだか。
クマの脇を通って帰ろうとするとクマがまた口を開いた。
「釣り教えてやるからついてこい」
「いやです」
「そう言うな。横で見てるだけでいいから来い」
「いやです」
「じゃ、教えてやらないし話もしなくて良いから帰るな。先生がみつきちゃんの予定を狂わせるのは本意じゃないから」
そう言われるとわたしだってもう少し海を眺めていたいし、何よりもクマなんぞに予定を狂わされるのはわたしだって本意じゃない。もう少し居ようかしらという気になる。
クマはさっさと白灯台の下へ歩き始めた。と思ったら急に振り向き、「左舷標識灯の下は何か釣れるのか?」とわたしに聞いた。
さげん? ひょうしき? ……? 何それ?
「なあ、左舷標識灯の下は……」
クマは私と母の「白灯台」とその下の海面を交互に指さしながらもう一度聞いてきた。
さげんひょうしきとう?
「……それ、灯台ですけど」
今度はクマが首を傾げる。ちょっとしかめ面なのがイラつく。
「君に「航路標識法」の説明をするのは大人げないからやめとくけど、あれは「灯台」ではない」
「灯台です。赤灯台と白灯台です」
「ちがいます。右舷標識灯と左舷標識灯です」
く、大人げない奴。アンタがそう言うならそうなんでしょうけど、意味が通じればいいことじゃない。
私が子どもの頃、夏休みになると母はふるさとの影間島に私を連れて帰省していた。
実家のある萩徳集落の海はちょうど船着き場や防潮堤の改修、増設工事の真っ最中だった。
「海が狭くなるのが嫌だな」と私が言うと母は、
「ここは漁師さんが多いから防潮堤が必要なのよ。台風のときなんかに船や漁小屋、集落まで守ってくれるのよ。それに……」
と言って母は白灯台を指差し、
「この灯台があれば暗くなってからも漁師さんが安全に帰ってこれるでしょ? おかあさんだってたまに萩徳に帰った時に「いつも変わらないもの」があるのは嬉しいな。それが今できたものでも」と言った。
道路も学校の木造校舎も山の蘇鉄も花も川も毎年帰省するたびに「あら、あれ無くなっちゃった」とつぶやいていた母。
時代の流れの中でさまざまな物が失われていくのは当然の事として受け止めたうえで、変わらないものを心の安心として欲しがっていたのは、その頃すでに母は父の仕事の失敗を予感していたのかも知れない。
私の中の白灯台も同じだ。母との思い出の筆頭に来るのが「白灯台」。
小さくなった砂浜で日光浴をした後、二段になっている防潮堤の上段にそびえたっている白灯台から、母と二人で飛び込みをして遊んだ。
集落内にいる従弟らも飛び込みの仲間に加わり楽しいひと夏を過ごした。
次の年には防潮堤の周りにテトラポットがうたれて飛び込みもできなくなってしまっていたが、白灯台はその姿を変えずにそこにあった。
「この白灯台から飛び込みしたわね」
引っ越してからも母と散歩をすると必ずあの夏のひと時を懐かしく語り合った。
「マーくんは下の段からしか飛べなくて」マーくんは従弟の雅行だ。
「まだマーくんは小さかったから」
「でも私といっこ違いで、しかも男の子よ!」
とめどなく思い出が湧いてくる。
影間島。萩徳。白灯台。
この思い出に父は登場しない。父は仕事で一緒に帰省する暇などなかった。
だから安心して母と話せた。笑えた。
埼玉時代の思い出話をしようとすれば父を思い出す。何も自分から地雷を踏みに行くことはない。良い思い出すら苦い。
憔悴しきった父の顔。怒りっぽく、常に目が釣り上がっていた父の顔。母に怒鳴り散らす鬼のような父の顔。父を思い出すと、もれなくそれらが付いてくる。
だから大切な「白灯台」
それをコイツは「灯台じゃない」などと。
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