2.

 ◇


 バルトルトは混乱していた。

 どうしてか、群衆の中にいる一人の女から目を離すことが出来ない。まるで目の奥を掴まれたみたいに視線が固定されて動かせなかった。

 なんだ? どうなっている、あいつはなんだ、誰なんだ!?


 姿を見た瞬間から心臓が絞られた。息が浅くなる。

 頭がおかしくなった。突然嬉しくて嬉しくて、震えがくる歓喜に叫び出しそうになる。

 やめろやめてくれ気持ちが悪い! 俺はそういう嬉しいとか悲しいとかの人間じゃない。自分にあるのは生まれてから今日まで激しい苛立ちだけで、日々はその発散の為だけにあるのだ。

 何とか視線から逃れようと理性でもって首をねじろうとした。頸椎が折れるかもしれない痛みで頭が割れそうになる。だけど出来ない! 強引に目を支配されていた。喉が音をたてるくらいに唾を飲みこんで抗うが、瞬きひとつ目が動かない。

「ぐぅ……!」


 あわや限界、と思われた瞬間、すっと視線が消失した。

 何やら奇妙に動いた後で荒い息を吐く主人を心配して、側近のバーガスが近寄って来る。

「どうされましたか」

「……はぁ……はぁ……はぁ……」

 バルトルトは震える手を隠そうとしたが、失敗して狼狽えた。額にも汗がにじむ。

「陛下っ、どうされました!? 休憩だ、休憩の準備を!!」

 バーガスはいつにない彼の主人の様子に冷や汗をかく。現王はいつも不機嫌で怒りをまき散らしながら呼吸をする生き物だ。間違っても震えたり狼狽えて視線を彷徨わせるような無様を晒したりはしない。なのに今はどうしたことだ。


 正装の首元を緩め、冷たい水を献上して事情を窺った。

「小さい女だ……最前列にいた、少年のような恰好をした女を連れてこい」

「! なんと間諜の類でございましたか!?」

「いや、いや……そうではない……はぁ……決して手荒には扱うな。まだ何者かはわからない」

「分からぬ……けれど捕まえる、のですね?」

 めちゃくちゃ好みの女だったのか? 側近はまた別の意味で驚く。この主人は全く女に興味がなかったはずだ。

「捕まえるわけじゃない。良いから四の五の言わずに連れてこいっ!!」

「は……はっ!!」

 いつも通り突然ぶちぎれた主人の勢いに安堵して、バーガスが走り去った。だが暫くして戻ってきた彼は手ぶらである。

「陛下の仰っているような女性は見当たりませんでした。一応まだ探させてはおりますが、少年らしき恰好の女性とは、少年ではなく、ですね? お名前はわかりますか?」

「わかったら苦労せんわっ。もう良い!!」


 バルトルトは安定の不機嫌で声を荒げ、疲れたので下がると言って大きな靴音を響かせながら自室に戻った。


 私室から見える街の景色はいつもより華やかで、浮足立って見える。

 城の一番上にある不便な私室は王都を広く見渡せた。

 イライラしながら王は衣裳を脱ぐ。

 なんだったんだ……なんだったんだ、さっきのは。

 彼は生まれてこの方、腹の奥に理由なき苛立ちを常に抱えて生きていた。生理的な苛立ちは忘れたくても忘れることが出来ない厄介なもので、ひたすらに彼を苦しめた。どれだけ美味しい料理を食べても、優しい音楽を聴いても、美しい女とのひと時も、夢の時間でさえも、彼は解放されたためしがない。


 そう、なかったのだが。


 さっき生まれて初めて、めちゃくちゃ喜んだ。

「やった~!」

 とか

「ハッピー!」

 とか、人生で発したことの無い言葉を叫んでもいいくらいに、嬉しくて嬉しくて堪らなくなった。はっきりわかった。理由はあの女だ。あの女を見て、幸福が爆発した。


 何なんだ。誰なのだ、あいつは。


 貴族の令嬢でもなくば、街の娘とも言い難い、少年のナリをした変な小娘だった。


 思い出すだけで嬉しくなる。バルトルトは思考が乱れるのを自覚する。意思とは無関係に湧いてくる初めての感情と、いつも通りの冷静な判断が頭の中を右往左往するのだ。こんなことも初めてだった。胸を押さえ、頭を掻き毟った三十四の男はガツガツと壁に頭を打ち付けた後でベッドに倒れ込んだ。

 あの女が見つかれば解決するだろう。だけどもういない。

「ぐ……」

 もう一度会いたい気持ちと、見つかって欲しくない興味を否定する気持ちで引っ張り合いになる。だがいくらベッドでひとり眉間に皺を寄せようが、何の解決にもならない。

 こんなことを話せる相手は一人もいなかった。

 よし酒だ。酒を飲もう。

 よろよろとドアを開け、近衛に酒を持ってこいと怒鳴り散らす。

 どうせ初日の挨拶をしたら、もうバルトルトの用事はない。あとは民が勝手に祝って終わるのを待つのみ。一週間の自国の祭典を私室でダラダラして過ごすだけの予定だった。



 やがて美しい月が昇り、夜更けを迎えた。

 酒を過ごし、ソファで寝こけていたバルトルトは、呼ばれてピクリと目を覚ます。

 誰も部屋には居ない。彼しかいない。だけど呼んでいる声がする。


 出ておいで。


 ◇


 王城が見える丘、太い木に登ったヒマリは最上階の部屋に向かって呼びかける。


「出ておいで………あそぼー!」


 それは互いに胸が高鳴るお誘いだった。

 灯りの付いた最上階の窓が開く。テラスに暴君バルトルトが現われた。ぼうっとした顔をして、突っ立って声の主を探している。


「こっちだよ。飛んでおいで……さぁ、背中から羽根を、腰から太い尾を……お腹の奥に意識を向けて、熱い塊を見つけて……元の身体に戻るだけ、必ず出来る、出来るよ」


 フラフラと歩き出し、とん、とテラスの手摺を足で蹴った瞬間に、バルトルトは人の形を崩し、暗闇の中で膨らませた。瞬きの次にはもう、巨大な羽根、長い首、鉤爪のついた手足に輝く黒目の竜がいた。月の光がその美しい姿を縁取る。

「綺麗……!」

 ヒマリはほうっと感嘆の息を吐いた。


 飛翔に戸惑っている様子はあったが、細かくコマンドを入れて安定を促す。

「そう、上手よ。そのままで尾の根元で進みたい方向を意識して……そう、そう、上手! こっちよ。急がなくて大丈夫、ゆっくり飛んでおいで」

 ヒマリが登った大木が近づいてくる大きな風に揺れる。

 バサリ、バサリとぎこちない飛行でやってきた一匹の黒竜が、ヒマリの待つ丘にふわりと降り立った。木から降りた小さな女は駆け寄って両手を伸ばす。

「上手に元に戻れたねぇぇ! なんって綺麗な黒竜!! ふぁ~! めちゃくちゃ会いたかったんだから!! ずっとあなたのことを探してた。山にいるんだとばっかり……まさか人の姿になっているなんて思いもしなかった。ごめんね、来るのが遅くなって。大丈夫だった? 私、竜使いの自分を思い出したのが三年前だったの。あなたも自分が竜だって忘れていたのね?」


 黒竜はじっと自分の手足や尾を見ていた。口を開けてみたり羽根を動かして、何やら確認している。

「大丈夫? 変な所ない?」

 ヒマリが下から腕を伸ばした。

「おいで。ぎゅー、しよ!」

 黒竜は固まる。

「遠慮しないで、おいでほら。マスターだよ、あなたの……うーん、名前付けようか」

 太い尾がペシペシと地面を叩いた。名ならある。

「バルトルトって言うんでしょ? でも長いよね。呼びにくい! 『ル』がついてるって言うのに可愛くないし……そうだ、いっそルだけにしよっか。ル縛りで、ルルにしよう、ルルたん!! あ、か~わいい!」


 最高に可愛い名前が爆誕した。黒竜ルルは震える。

「グォッ」

「なに? なんか文句?」

 急に冷ややかになった主人の声にハッとなり、ルルは首を振った。

「だよね!! よーし、ルル、おいで」

 ヒマリが再び両腕を広げた。

「………」

 ルルは恐る恐る、小さな腕に向かって首を降ろし近寄って行く。

 小さな腕、小さな手、小さな指が温かい温度でルルを抱きしめた。

「会いたかった、ルル……!」

 二人は顔を寄せ合い、頬を擦りつけあう。

 嬉しさと歓喜で声もなく、何度も何度も擦りつけあった。

 ヒマリは少し涙ぐみつつ、ルルの顔を撫でてやり、皮膚の状態を確かめる。鱗に似た皮膚は美しいが、少し張りに欠けていた。尻尾の先も本来なら先端まで硬い筈だったが、若干柔らさがあった。

「ふむ。睡眠不足ね。そりゃそうか、運動不足だもの。眠れないわね。ストレス溜まってるんじゃない?」

 ルルはじっと主人の言葉を聞いた。初めてのことでいまいち理解できないが、とにかくこのマスターの声が耳に心地良いのはわかる。

「そうと決まれば早速空中散歩と行きましょう!! じゃーん!!」

 木の根には鞍と皮ベルトが置いてあった。

「ルル、伏せ!」

「………」

「どうしたの? 伏せ、よ。鞍を付けるわ」

 的確なコマンドである。黒竜は沈黙の末に伏せた。尻尾がびたんびたんと地面を叩く。ヒマリは何度も装着した経験があるかの如く鞍を付け終え、颯爽と乗り込んだ。にやにやしながらルルの首に全身で抱き着く。

「あー! やっと、やっと飛べる!! やっほい!! じゃあ行こ。最初は怖いかもしれないけど、大丈夫。私がいるわ。巣を目指しましょう。運動不足だし、西のチトット山に行こう。今晩はそこの巣でゆっくり寝ましょう。そしたら睡眠不足もなくなって、明日にはルルたん、カッチカチになるから!」


 バサッ、と巨大な羽根が羽ばたく。

 身体が浮いて、黒竜は夜空に同化し始める。

「ルル、私を乗せていると背中で意識して。そうしたら、私は風や衝撃から全て守られる。もし私以外に何かを乗せる時も同じよ。乗せていると知っている限り落とすことはないわ。さー、しゅっぱーつ!」

 少しずつ、二人は夜の空を泳ぎ始めた。

「上手、上手よ、ルル!」


 時折飛翔方法をレクチャーし、だんだんとルルも慣れてくると驚くほど速く飛んだりジグザグに飛んだりして見せた。ヒマリはそのたび撫でて褒め、ルルは喉を鳴らして喜ぶ。

 柔らかい月の光が竜の躰を包む。山々の峰を遥か下に、黒竜はその夜思う存分飛び続けた。ぐんぐんぐんぐん空を裂き、静かにしなやかに羽根を波打ち夢中で翔けた。


「楽しいねぇ、ルル~!」


 結局目的地も超えて色んな場所を羽ばたいて、山頂の巣に降り立ったのは夜明け前である。近くの湧き水で二人は喉を癒した。そうしてヒマリが案内した巨大な穴倉を目にすると、ルルは急いで入って丸くなりたくなる。だけどマスターに止められた。

「竜がこんな汚れた場所で寝たらだめよ。まず羽根で穴の中に風を送って……そうそう、そしたら次は喉の奥に少しだけ熱を込めて、息を吐くの。もわーっとね。もっと、もっとよ」

 穴倉は熱い湯で蒸らされたような状態になる。ぽたぽたと湯と共に汚れが流れて落ちていく。そこまですれば、ルルにもわかった。もう一度、今度は冷たい息を吐いて汚れを濯ぐと最後はカラカラに乾いた火混じりの息で乾燥させれば完成だった。


 なんて素晴らしい寝床になったことか!


 ルルは上機嫌で穴に入り、ヒマリを尾で包んだ。

「おやすみ、ルルたん!」


 ◇


 いや、おはようじゃないぞ。

 起きて一番、自分が抱きかかえている小娘に慄いてバルトルトは震えた。竜の躰は消え、また人の身体に戻っていた。

 チュンチュンと鳥が鳴く爽やかな朝。


「う~ん……」


 コロンと転がってきた娘はばっちりと彼の身体に張り付いて『ルルゥ、まんま』と寝言を吐いた。

 その名前な!!!

 ごーーーーっとバルトルトの胸に怒りが燃え上がる。子どもやペットに付けるみたいな気軽な名前をつけやがって、この女!! 俺は絶対に返事なんかしない!!

 しかもなんだ、マスターだと!? いや分かってる、なんかマスターなんだとはなんでか分かるんだが、だからなんでこんな小娘の命令を俺は聞かなくてはならんのだ!?!?


 とにかくマスター娘はノリが軽い。軽すぎた。とっくに不敬罪で死刑である。

「伏せ」はやめろ。けしからん、俺は国王だ。

 気軽に撫でてどさくさにあちこち唇を押し付けて来るのもやめろ。痴女め!

 思い出して怒りに塗れながら、昨夜ルルとして恋しく感じた女を覗き込んだが、全く普通だった。あんなにあれだけ胸が苦しくなった気持ちが、ない。


 よし、もう絶対にスリスリとかはしない!

 おいでと呼ばれても行ってたまるか!


 バルトルトはだが、ビタビタに引っ付いて眠るマスターを石の上に落ちぬよう腕の中に抱え、昨晩を思い出した。


 めちゃくちゃ、楽しかった……。

 とにかく自分は竜だった。完全に忘れていた。と言うか、知らなかった。

 何時間も我を忘れるくらいにビュンビュン夜空を飛び、生まれて初めてクタクタになった。疲労を初めて理解した。今までいくら暴れようと疲れたことが無かった。

 竜になった瞬間からあの苛立ちは嘘みたいに消え、歓喜の時間が続いている。

 この娘の温度と声、手のひらがどうしようもない幸福を連れてきた。それだけは確かだ。バルトルトは凪いだ心で主人を見つめる。竜になって彼は色んなことを思い出した。


 竜と竜使いはセットである。

 この世界で竜は生態系の頂点にいたが、数十年に一度しか生まれず、個体数は少なかった。多い国でも五を切る。竜はどんな姿にもなれるから、もしかするともう少し多いのかもしれない。だけど竜使いにならどんな姿かたちでも会えば見つかってしまうものだった。バルトルトのように。


 形態を竜にしてしまえば、言葉は失われた。理解はできるが、口の構造が違うから声は出ても音が作れなかった。それに何より竜になっている間は酒に酔ったように鈍感なのだ。例えば外の温度や足元の悪さなど、これまで彼をイラつかせた些細なことが何一つ気にならない。小さすぎて言う気も失せる。たぶんバーガスがギャーギャーとうるさく喚いても気づかないくらいだろう。それは「穏やか」と言われるバルトルト本来の気性であったが、三十四年もイラついて来た男にわかる由もない。

 自分の意識がないわけではないので「伏せ」に受けた衝撃は度し難いものだったが、数秒後にはボヤっと溶けて従ってしまう。まぁいいか、主人だし……。


 いやいや、それはだめだ!!

 バルトルトは眉間に深い皺を寄せ、とにかくこの女と話をしようと思った。見ていると、もぞもぞしてから目を開けた。

「おはよう、ル……んん!?」

 バルトルトの腕の中で目覚めた主人がカチコチに固まる。

「おい、お前、名は何とい」

「ぎゃーーーーーーーーーーーーっ」

 慌てて起きたヒマリが男の腹を強く押して飛びのいた。

「ぐえ」

「あっ、ちょ、すいませ、あの、え、なんで戻って?」

「答えろ! 質問しているのは俺だっ! まずお前は誰なんだ!!」

 青褪めたヒマリがひたと視線を合わせる。ぎくりとしたバルトルトだったが、捉えられるともう視線が離せない。

「戻りなさい、ルル!」


 ぼわーん。

「グゥ……」

 バルトルトはあっけなく竜に戻った。


「あーもう、びっくりしたぁ。ダメじゃない、せっかくの楽しい時間が。さ、朝ごはんにしましょ。食べたら躰を良く見せてね、健康診断よ」

 それから二人は川で水を飲み、魚を捕まえて丸焼きにして食べた。

 十分な運動とかつてない眠りを得たルルは、艶やかでカチカチの鱗を取り戻し、健康診断も完璧である。

「ルル、おしっこしたら見せてね」

「………」

 不敬罪の上に侮辱罪を重ねた小娘は今日は仕事をしますと陽気に宣言する。

「ルルも知っているでしょう? 長く竜が不在だったから、クメルドには今、魔物がとんでもない数で出現しています。魔物は瘴気から生まれるわ。本当はお食い初めみたいに幼竜の頃に瘴気を飲んでおくと強い子に育つんだけど……あ、それがあるから魔物が減るの。だけどルルたんは飲めなかった! だから、今から飲みに行っちゃいまーす!」


 拳を突き上げ出発し、向かった先には黒い渦を巻く瘴気溜まり。正直人が(竜だが)飲めるような代物には見えない。ルルは尾をびたんびたん振り回し、全身で引いている。

「大丈夫、飲めるわよ。竜にとったらお酒みたいなものなんだから。でも全部はだめよ。お腹壊すからね」

 ルルは黒い渦とにこにこの主人を交互に見る。じわ~っと汗が出そうだが(汗腺はないが)、結局にこにこの威力に思考が溶けて口を突っ込んだ。

 何より、確かにクメルドは魔物による被害が甚大であった。魔物が通れば土が汚れるので農作物がやられる。豊かに実ってもいたずらに潰しにくるのだ。国として一匹でも魔物は少ない方が良い。そんなことは内政に興味のないバルトルトとて理解していた。


 ごっくんと一口飲んで、だけどルルは思っていたより薄味であることに気が付く。

 結構いける。どろついた見た目に反して爽快な飲み心地。だがのど越しに苦い刺激があり、なんだか癖になる……!

「ね? 美味しいでしょ?」

 ひと口も飲んだことの無い小娘が得意げに言った。

 だが、何不自由のない生活を送ってきた国王は、今初めて至高の味に出会った。どうりで城のコックをどれだけ入れ替えてもピンと来ないはずだった。こんなもの、竜以外に誰も飲まない。


 瘴気を薄めた後は、この山にいる魔物をどうにかするのが本日のメインイベントである。

「って言っても、私がわかるのはルルの気配だけで他にどんな魔物がどれくらいいるのかとかわからないんだけど。ルルたんにはわかるんでしょ」

 敵を探索しながら少しずつ山を下りる。

 確かにマスターの言う通り、黒竜には魔物の気配がわかっていた。実は今も小物が三体右手の小径からこちらを窺っている。だけど彼は思う。


 戦い方が、わからん。


 常であればこの右手に剣があるのだが、勿論にぎってなどいない。代わりに鉤爪があったが引っ掻いて戦うのも絵面的に違う気がした。猫じゃあるまいし。

 食べればいいのだろうか。

 さっきも瘴気を飲んだくらいだから、自分は魔物も食べるのかもしれない。だけど国王として遠征した先で魔物とエンカウントし、倒した姿はとにかくマズそうだった。臭い個体も多い。魔物は食べられないというのは定説だった。

「どうしたの? ルル。何か不安なのね?」

 竜とマスターは見つめ合う。

 気持ちが小娘に筒抜けで、バルトルトは尻のすわりが悪いことこの上ない。

「何でも私に言うのよ。子どもに見えたって、実際はあなたよりもず~っと大人なんだから」


 じゃあまず、人間に戻せ。

 モヤっと思ったが、またにこにこと見上げられると霧散した。撫でて欲しくなってくる。


 そんなこんなで魔物を無視して歩いていたが、いよいよ道の途中でエンカウントする。思考停止型の魔物が真正面に落ちていたのである。


 ア~…ウウウ~……


 のそのそとのたうち回るように動く唇らしきパクパクがたくさんついた魔物は「チューバー」と渾名されるD級魔物である。動きも遅く、本能で生きているD級は初心者の冒険者が練習に使う相手で、ちゃんと立ち回れば全く危険のない相手だ。だけど油断して唇に吸い付かれるとそこから身体が壊死してしまう。剥がす時には悶絶ものだった。

 チューバーを目にしたヒマリはスーッと横に退いた。

 手のひらを指し示し、どうぞお戦いあれとルルを誘う。


「…………」

「…………」


 ア~…ウウウ~……


「…………」

「どうしたの? さっさとやっちゃえばいいよ。こいつ弱いから」


 ヒマリは不思議そうに何もしないルルを見上げた。

 ルルも可愛い黒目で主人を見返すが、伝えようもない。とりあえず踏み潰してみよーかと前足を振り上げた。

「わーっ! 何してるの! 唇に吸い付かれたらどうするのよ。私の可愛い肉球が剥がれちゃうじゃないっ……あれ、もしかして、戦い方がわからないのね!?」

 太い尻尾が大きく波打つ。

「なるほどぉ。わかった。じゃあ、トレーナーになるわ。えーっと……こほん……ルル! 君に決めた!」

 決められた。

「ルル、ファイヤー!」

 言われてルルはハッとした。そうだ、火が吹けたのだった。ゴーっとチューバ―を火であぶると、魔物はカスカスの黒ずみになる。

「うん、上手ね!! すごい! うちの子、賢い!!」

 ルルは褒められて撫でられて目を細めて喉をゴロゴロ鳴らす。

「あーあ。私のポケットにもルルが入れば良いのにな~」

 残念ながら竜をやめてもおじさんだった。ポケットなモンスターにはならない。

「可愛くって強くって賢くって、もうルルたんは最高~!」

 ルルは尾を振りまくった。飛んで寝て火を吹いて褒められて……なんだこれは、最高に楽しいじゃないか!

「さぁ、ルル、どんどん行こうぜ!」


 そんなこんなで一週間後。行方不明だった王が帰城した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る