リナと空白の王国
ちびた
第1話 空白に色を描く日
リナは放課後の教室で、そっとノートを閉じた。
最後のページには、書きかけの物語が途切れたまま残っている。勇者が旅立つ直前で止まったその文章を、クラスメイトに見られてしまったのだ。
「また? マジ子どもっぽ」
「中学生にもなって、お姫さまとかウザ」
からかい混じりの声と笑い声が耳に刺さり、リナはうつむいた。
本当は続きを書きたかった。胸の中にはあふれるほどの言葉が渦巻いているのに、ペンを持つ手は動かなかった。
――書いても、どうせ笑われるだけ。だったら、書かなきゃいい。
急いで荷物をまとめて学校を出た。
何回も経験してきたことだった。物語を書けば、周りに笑われた。
暗いとかキモイとか、陰口をたたかれた。
なんで運動が好きな人たちは運動するだけでかっこよくて、物語が書きたい人は書いてるだけで陰口を言われるんだろう。同じように好きなことをしているだけなのになんでダメなの。なんで笑うの。
リナの足は駆けるようなスピードで家に向かっていたが、途中から力が抜けたように失速した。
学校の先生はいつ、他人の好きなことを笑うなって教えるの。
私は……書くことが好きな人は、どこへ行けばいいの。
家に帰ると机の上に、一本の大きなクリアブルーのペンが置かれていた。普段の筆箱には入らないほど長く、太い。手にするとひんやりとした重みが伝わってくる。
見覚えはない。けれど、不思議と「これでなら書ける」と思えてしまった。さっき書かなきゃいいって思ったばかりなのに。
てかこのペン……デカくない?お母さんが置いたのかな。
でもきれいな色……。まぁいいや、あとで聞いてみよ。
その夜。お風呂上りに部屋に戻ったリナは、机の上のペンに目をやって
「あ、お母さんにこのペンのこと聞くの忘れたなー」
と言いつつ、右手で濡れた髪の毛を拭きながら左手でペンを撫でた。ほんと、きれいなクリアブルー……。
するとその瞬間、ペンが淡く光りだした。
「え……うそなに、これ。スイッチとかあるの?触っちゃったかな、どうなって……」
リナが目をこすりながらペンをつかみ上げた次の瞬間、真っ白な大地に立っていた。
空も地面も、すべてが紙のように白く、音ひとつしない。
「……は?!え、なにここ、どこ?」
手にしていたクリアブルーのペンは、自分の部屋で見たときよりもかなり大きくなっていた。まるで剣?もうちょっと大きいかも。でも不思議と重さは感じなかった。
その剣のようなクリアブルーのペンで試しに地面に触れると、水面のように青い波紋が広がった。思わず「あかいはな」と書いてみると、それは立体となって咲き、風に揺れた。
「わぁっすご!字が!立体になったんだけど!」
リナが
「石川啄木、って書いたらどうなるんだろ?!」
とペンを抱え直した、そのとき。
「空白の王国へようこそ。書く側の者よ」
花の中心から、小さな光の精霊のようなものが現れた。
その声は、耳ではなく心に直接響いてくるようで、不思議な音の振動だった。まるで風が頬をなでるように、優しく、透明で、どこか懐かしい響き。
リナは思わず息をのんだ。言葉ははっきり聞こえるのに、振り返っても誰もいない。
「うそでしょ、本当にこの花から出てきた、の……?」
花の中心にいる精霊のようなものは、ただ淡い光を放ちながら、頷いて言った。
「わたしは、この空白の世界を守るもの。永く、あなたのような書く側の者を待っていた」
夢の中に迷い込んだような、不思議な感覚だった。
精霊は語る。かつてこの王国は物語で満ちていたが、忘却と争いによってすべてが失われ、今は白紙のままだと。
「物語で……満ちてた?」
「そう。だが今は虚無が広がり、残されたものをも飲み込もうとしている」
精霊がそう言った次の瞬間、地平の彼方から黒い影が迫ってきた。
それは墨を垂らしたようにじわじわと広がり、さっき咲いた花に触れた途端、音もなく色を奪っていった。
「なにあれ?!」
リナは思わず、必死にペンを走らせた。
けれど花はすぐにしおれ、虚無に呑まれてしまった。心臓がぎゅっと掴まれるように苦しい。
「お前が迷っているからだ。心が空白を許せば、虚無は強くなる」
精霊の声に、リナは唇をかんだ。
「虚無が広がれば、人は心を失う」
精霊の声が心に響いた。
――だって、どうせ作っても笑われるんじゃん。書く意味なんてない。心を失うなら、それは笑ったその人たちが悪いでしょ……。
その瞬間、虚無はさらに勢いを増し、スピードを増した。一気に白紙の地平を漆黒に染めていく。
リナは膝を抱え込みそうになった。けれど、ペンを抱える腕は震えながらも離せなかった。
その時
胸の奥に小さな声が響いた。
――本当は、書きたいんでしょう?
思い出したのは、初めて作文を発表した日のことだった。
小さな舞台で、緊張しながら読み上げた自作の物語。拍手もあった。
けれど、一部の笑い声が心に突き刺さった。
「何今の」
「リナちゃんが考えたお話でしょ、子どもみたい」
「ちょっと、笑わないでよ。私も笑っちゃうじゃん」
「だってえー」
かつての、悪意のあるクラスメイトたちの言葉がフラッシュバックした。それ以来、思いきり書けなくなっていた。
「……でも」
リナは深く息を吸った。
喉に何か詰まったみたいに苦しくなって、目の前が揺れた。ペンを抱える腕も震えていた。
これまでの悔しさも恥ずかしさも全部まとめて、ペンに。この、身体ごとこめて。
「私は……か、きたい……」
漆黒は勢いを止めない。リナは大きく息を吸った。
「私は、書きたいの!!」
叫ぶようにペンを走らせた。
夜空、川、花、山……
といった、書くのに時間のかからない風景をまず書いて世界を増やしていく。
そうしてから「咲き乱れる満開の桜」「小高い丘」「そよ風に揺れる菜の花」
のような、情景を描写する言葉も書いていった。
闇に、のまれてしまわないように。
大きなペンは身体と一体化して、するすると動いて白い大地に一気に世界を作り出した。
――心の奥に沈めていた、すべてを青い線に変えて描いた。私の思い描いていた物語の世界の、広い夜空。主人公たちが幾度となく見上げてきた、あの夜空。
主人公たちの心を癒してきた、桜の木。
すると一瞬、虚無がひるんだ。
物語は光を帯び、黒い影を裂いていく。咲きかけていた花が再び色を取り戻し、地平線へ広がっていく。一気に咲いたブルーの花は今度は枯れずに風に揺れた。
「それだ。葛藤も痛みも、すべて物語にできる。作ることは、お前の力だ」
精霊の声は、微かに笑うように響いた。
温かく、けれど深く胸に刻まれる響き。
空白の王国の一角に、確かに色と命が戻っている。
「……できたんだ。私の物語で」
その瞬間、視界がぐらりと揺らぎ、気づくとリナは自分の部屋に戻っていた。
机の上のノートを開くと、さっきまで空白だったページに、青いインクで花畑が描かれている。しかしあのクリアブルーのペンは、どこにも見当たらなかった。
リナはしばらくそのページを見つめてから、引き出しからそっとお気に入りのペンを取った。
――書いても笑われるかもしれない。けれど書かなければ、何も生まれない。そして私の人生も、始まらないんだ。
「私やっぱり、書きたい」
大きく息を吸って、姿勢を正した。
ゆっくりと、しかし確かにペン先が紙を走る。
言葉がつながり、世界が広がっていく。
窓の外では朝日が昇り始めていた。
新しい物語の光を胸に、リナはまた書き出した。
空白の王国はまだ虚無に覆われている。けれど、そこに色をつけることができるのは、自分しかいないと知ったから。
――そして物語は、今始まったばかりだ。
リナと空白の王国 ちびた @rin-matoba
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