第2話 似た者同士
あの戦いから、どれほどの時が過ぎたのだろう。
ただ走り続けてきた足は、もう悲鳴を上げていた。太ももは鉛のように重く、肺の奥は焼けるように熱い。それでも──止まることは許されない。
背後から響く怒鳴り声が、その事実を容赦なく突きつけてくる。
「いたぞ、こっちだ!」
「こんなしつこいなんて聞いてないって……!」
まだ追ってくるのか。
もう十分だろ……そう思いたくなるほど、心はすり減っていた。
精神力の残量なんて、もう自分でも分からない。ただ、倒れなかったのは気力か、それとも恐怖か。こんな死にかけの感覚──いつ以来だったか。記憶をたどる余裕すらない。
ただ、生きるために足を前へ投げ出す。それだけが僕を動かしていた。
人が多い都市部へ逃げ込めば、少しは撒ける。そう信じて走るしかなかった。
そんなときだった。
空から、白い影がすっと降りてきた。羽ばたきの音が、追っ手の足音で荒れ果てた鼓膜に、やけに優しく響く。
使い魔の白だ。
「白生きてたか」
その一言だけで、胸がじんと熱くなる。
白は僕の部屋に置いてきた、魔力をたっぷり含んだ魔石をくわえて持ってきていた。
「……よくやった、白。これでしばらくは戦える」
言葉にすると、安堵が喉の奥でわずかに震えた。
だが、その安堵もすぐに別の感情へと変わっていく。
──おかしい。
奴らは僕を殺しにきているはずだ。
契約のこともあって、僕は迂闊に動けない。だがそれ以上に、追跡の動きに違和感があった。動線が妙に整理されている。偶然とは思えない。
これは、誘導されている。間違いなく。
このまま走っても先は見えている。
長期戦なんて無理だ。自滅するのは、確実に僕のほう。
「アストランティアの言った通り、逃げるのが正解……か」
自嘲気味に呟く。逃げに徹する──自分で選んだはずの道。それでも、悔しさは喉にこびりついた。
そして、思わず零れた言葉。
「明日、学校もあるのに……どうすればいいんだよ」
戦いと日常。その落差に、胸が軋む。
こんな状況で授業を受けに行く自分を想像して、乾いた笑いが喉の奥で上ずりそうになった。
そのとき──気配に気づいた。
槍を携えた、高身長の男が暗がりから現れる。
距離、武器、構え。どれを見ても、逃げ道が頭の中で瞬時に閉ざされていく。
身体が反射的に戦闘態勢へと移っていた。
男は、静かに言った。
「待て」
たったそれだけ。
だが、その言葉の真意を探るほどの余裕なんて、もう残っていなかった。思考の余白がすべて消えていく。
逃げるか、戦うか。
その二択しかない世界で、僕の心はすでに答えを選んでいた。
――放て。
――やるしかない。
今すぐこの状況を打破し、人混みに紛れて逃げる。それだけが生き残る道だ。
そう考えるより早く、俺は走りながら並行詠唱を終えた。
「クロッカス」
放たれた魔術は、相手の時間感覚を十分の一まで落とす——禁術と呼ぶには劣る、粗削りな劣化魔術。それでも、使った後の反動の凄まじさで知られた危険な力だ。
術を受けた男は、一瞬だけ動きを鈍らせ——そして鼻で笑った。
「これは禁術じゃなくてただの魔術だな。そわそわしたぜ。おいコラ、待て!」
……マズい。このままじゃ本当に逃がしちまう。
帰ったら姐さんにどやされる以前の問題だ。
男は軽く息を吸い込み、次の瞬間、全身の力を脚へ集中させた。
そして叫ぶように、
「ビート、ビート、ビート!」
その言葉に合わせるように地面が弾け、男の姿が一気に迫る。距離が、瞬きする間にゼロへ縮んでいく。
地面が、向かってくるような錯覚がした。
倒れたのか? いや、違う。反動——いや、それもまだ来ていない。
ということは……。
この男、あのデバフ状態のままコンマ数十秒でここまで迫ってきたというのか。
「ありえない」
思わずこぼれた俺の声に合わせて、男が背中へずしりとのしかかってきた。
「お前本当に戦闘素人か? あんな動き、火事場の馬鹿力でもそうできるもんじゃないぜ」
嘲り半分の問いかけに、俺は虚ろな表情のまま答える。
「少し経験はあります」
すると男は、喉を震わせて甲高く笑い出した。
「そりゃーこんな逸材、姐さんが欲しがらないわけないよな! はははは!」
その笑い声が夜に響き、別の追っ手が慌てたように近づいてきた。
「いたぞ! こっちだ!」
その声を聞いた直後、俺の意識は暗闇へ沈んだ。
——かすむ視界の端で、追っ手の驚いた声が揺れていた。
「誰だお前! その少年から離れなさい!」
男はゆっくりと顔を上げ、まるで新たな獲物を見つけた捕食者のような鋭い眼光で追っ手たちを睨みつける。
懐から小型の無線機を取り出し、静かに問う。
「姐さん、こいつら処分してもよろしいでしょうか」
『許可する』
通信越しに響いたのは、それだけの冷徹な声。
次の瞬間、男の表情が豹のように獰猛なものへと変わった。
「目撃者は生かしちゃおけねぇな」
その言葉と同時に、夜気を裂く惨劇が広がる。
辺り一面に血飛沫が咲き、追っ手たちは抵抗する間もなく殲滅された。
「雑魚は雑魚か」
男は少しだけつまらなそうに呟いて僕の方に向かい担ぎ上げてその場を後にした。
そして——まるで何事もなかったかのように、静かに雪が降り始めた。
白い粒が、血の痕跡すら覆い隠すように舞い落ちていた。
◆◆◆
目を覚ました瞬間、車体を震わせるエンジン音が低く響いた。ここがどこへ向かっているのかは分からない。ただ、密閉された車内は驚くほど冷え切っていて、肌の上に刺すような寒気がまとわりつく。
「目が覚めたか」
さっき僕を気絶させた、狂犬じみた雰囲気の男が、無造作にこちらを覗き込んでいた。
「……あんた誰」
そう問うと、男はしばらく考えるように顎を指先でなぞり、
「今は言えない。教えてほしいなら、用件を飲んでもらおう」
とだけ告げる。
そのとき――奥の座席から、気配もなく白髪の少女が現れた。まるで空気が形を取ったような、静かな動きだった。
「説明は私がする。第一隊長殿、席を外してくれないか」
少女が淡々とそう言うと、男は少し残念そうに肩をすくめ、後部座席へ移動した。
「アストランティアなのか」
思わず声が漏れると、白髪の少女は眉をひそめ、
「あのクソ女と同類にするのは辞めてくれないか」
と不機嫌そうに言い放った。
その直後、奥の席からくぐもった笑い声が聞こえた。
「第一隊長」
少女が低く呼ぶと、男はすぐに「あいよ」と応じ、今度こそ完全に黙り込んだ。 白髪の少女は、淡々と告げた。
「君に選択肢は二つある」
その言葉は、どこか懐かしい響きをまとっていた。胸の奥でアストランティアを思い出し、思わず苦笑が漏れそうになる。
僕は、もう一度だけ確認するように口を開いた。
「あの質問よろしいでしょうか」
「なんだ。言ってみろ」
「あなたと戦ったあの女の人はどうなりましたか」
問い終えた瞬間、緊張が背筋を走る。少女は悔しそうに眉を寄せ、短く答えた。
「逃がした」
その言葉に反応するように、車体が小さく揺れた。後部座席から男の声が飛ぶ。
「それはどうかとか大隊長」
「さっき言った通りだ。逃がしたのだと言ったのだ」
運転席の男は溜め息まじりに「マジか」と漏らし、その隣では別の男が笑いをこらえきれず肩を震わせていた。
少女は苛立ちを隠さず振り向きざまに言い放つ。
「うるさい、黙れ。それと上層部への報告は後でする」
そして僕のほうへ視線を戻し、淡々と告げる。
「先ほども言った通り君には二つの選択肢がある、今すぐ私に殺されるか、私たちと協力して今君を追跡している奴らを追い払うかだ」
なんだよ、この感じ。やっぱりアストランティアにそっくりじゃないか。
「この一つ目の質問、今日二回目だぞ……」
思わず独り言が漏れる。だが、考え込む暇なんてなかった。
「協力するよ」
即答していた。迷う理由なんて、どこにもなかった。 車内には、あの甲高い笑い声が響き渡っていた。というか、ずっと笑っている。壊れたオルゴールみたいに、ひとりでゲラゲラと鳴り続ける男。……うるさい。
「なら俺の名前を教えてやる俺はウィリアムズ・レックスこれからは第一隊長と呼んでくれ」
ドヤッ、と効果音がつきそうなキメ顔だった。が、心は一ミリも動かない。尊敬? ないない。胸のどこを探しても“上司として見る”って感情は見つからなかった。
「わかりました第一隊長」
完全に上の空で返したのは、たぶん脳が現実逃避していたからだ。
「これから君の”上司”になる男になんだその態度はボコられたからか」
余計なことを言い出すなよ、この人。心の中で盛大にツッコんでいると、運転席から低く苦笑混じりの声が聞こえた。
「すまないあとこいつはしばいておく俺は整備士のジャックこのメンツとは腐れ縁でなこいつらいつもこんな感じなんだできれば仲良くしてやってくれ」
ジャックは妙に落ち着きがあって、常識担当っぽさがにじみ出ていた。対してレックスは、ぽかんと口を開けて抗議する。
「俺一応階級上なんだけれど」
そこへ、鋭くも平板な声が飛ぶ。
「落ち着けお前ら」
睡蓮の一声で、車内のアホみたいな空気が一瞬だけ整列した。さすが大隊長、威圧感のスイッチが強い。
……しかし、ジャックはすぐに真顔になった。
「そういえば大隊長あの整備したての装備はどうしたまさかもう使い切ったのか」
睡蓮は視線をそらし、完全に沈黙。これは黒だ。黒確定だ。
ジャックはゆっくり深いため息をついた。
「次壊したら大隊長の給料から整備費請求するからな」
その瞬間、睡蓮はボロボロの刀をそっと抱えるように握りしめた。
なんだ、この部隊。大人の姿をしているのに精神年齢が自由すぎる。
でも、そんな馬鹿げたやり取りを眺めているうちに、胸の緊張がどこかへ消えていく。
「少し寝る」
気が抜けた声でそう言い残し、目を閉じる。
……もしかしたら、これが“安心”ってやつなのかもしれない。
僕が眠っているあいだ、車内ではひそひそ声の会議が始まっていたらしい。運転席のジャックが、深いため息をひとつ落とす。
「でどうするのよこんな使えるもわからないポンコツ連れてきておまけに性格が悪いときた」
ぼやきつつも、声にはしっかり“判断する側の人間”の温度がある。これまでの苦労が滲んでいた。
そこへ、レックスが肘をシートに乗せながら、ヘラッとした笑みを浮かべる。
自信だけで世界を渡ってきたような、あのウザカッコいい笑みだ。
「少し使えると思うぜ俺の見立てでわな」
軽く言ったつもりなのだろうが、妙な説得力があるのが腹立たしい。
そのやり取りに、後部座席で腕を組んでいた睡蓮が静かに目を開けた。
口数は少ないが、まぶたの動きひとつで場の空気が変わる。
「彼はあのアストランティアが執着している人物だ私は有効活用したい」
淡々と言いながらも、指先がコートの端を軽く摘まんでいる。
それだけで“真剣に考えている”ことが伝わるのだから、彼女の存在感はずるい。
レックスと睡蓮の言葉に、なんとも言えない「仕方ねぇな……」という表情をする。
レックスが肩をすくめながら提案する。
「よしならさっさと本部まで連れ来て後ことは任せようぜ」
軽いのに、妙にリーダーっぽいのがまた悔しい。
ジャックはステアリングを指でトントンと叩きながら、皮肉を含んだ声で応じた。
「その方が賢明だな」
睡蓮はこくりと小さく頷く。髪が僅かに揺れ、その影が彼女の表情を隠した。
「よし決まりだこいつを無事本部まで連れいき部隊に加える」
静かに言い放つその声には、一切の迷いがなかった。
……僕が知らないところで、運命の歯車は勝手に進んでいたらしい。
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