江猟市(保護区)の記録
古宮九時
第1話 操沢佳代
※今作は読みやすさを重視し、描写を分かりやすいものに置き換えています。
※
ちりちりと鈴が鳴っています。
よくない兆しです。
鈴の音に耳を傾けてはいけない。気づいてはいけない。
でも誰も、そのことを人に教えはしないのです。
教えられずとも、みないずれ知ることなので。
私がそれを知ったのは、十四の時でした。
私には一人の友人がいました。
十二までは私と同じようなただの子供だったのに、中学校に入ると同時に肌から日焼けがすっかり抜けて、大人びた美人になりました。
そのあまりの変わりように、私は彼女に置いていかれたような気持ちになったことをよく覚えています。
彼女の夢は装丁家になることでした。
新しい本の発売日には真剣な目で書店の平台を見ていたことをよく思い出します。
図書館に通うことも常で、それ以外ではスケッチブックを開いてよく街中の景色をスケッチしていました。
一方私は自分が何をしたいか、何になりたいかも考えつかず、そんな彼女を半分羨ましく横目で見ていました。
大人たちは知っていたのでしょうか。勘づいていたのでしょうか。
私は、私たちは何も分かっていませんでした。
彼女におしらせが来たのは、十四歳の時のことです。
それを私は誇らしいとさえ思いました。おしらせが来るということは名誉なことだという空気がありました。
選ばれたものとしてこの街を出ていく、それが自分の友人であることに密やかな興奮を覚えていました。
この街で暮らしていると、家族友人におしらせが来たというものはそこそこの割合います。
けれど私にとって寧々は最初の一人でした。だから私はおまつりを心待ちにさえしていたのです。
「
そう聞かれたのは、おまつりの一週間前の夜でした。
「夜? なんでわざわざ」
「禁止区域に入りたいの」
彼女がそう言って見せてくれたのは一枚の写真です。森の中に咲く白い花の写真。
「この花の実物をどうしても見たいの。でもそこが――」
「禁止区域」
この街にはいくつもそういう場所があります。
子供に入れない場所はとても多く、そこから先も年齢や職業、立場で入れるかどうか決まっている場所が多いのです。
森の多くは禁止区域で、それは畑や牧場など大事な場所が森の近くにあるからです。
ただ子供たちはしばしばそれを守らず、人の畑を横切って怒られていたりしました。
そのせいで私も禁止区域に大した抵抗を覚えず、ただ「夜にどうやって抜け出そう」と、そちらの方が気になったくらいです。
「いいよ、行こう」
おまつりが来れば、寧々はこの街から出て行ってしまう。
だから彼女の望みを叶えることに抵抗はありませんでした。
寧々は、ほっとしたように微笑みました。
その笑顔がとても美しかったことを覚えています。
寧々が行きたいと願ったのは、街の南東側にある森でした。
近くにはキャンプ場があり、小学校の時には修学旅行でキャンプをしたことを覚えています。
夜になって部屋の窓から抜け出した私は、寧々と合流して自転車で夜の街を走りました。
誰かに見つかったらどうしようと、できるだけ大人に見えるような服を選んで。
思えばあの時が私の人生で一番、胸躍る時間だったかもしれません。
幸い、私たちは誰にも見咎められることなく森の際に到着しました。
自転車を木の陰に停めて、懐中電灯を照らして、二人で森の中に入りました。
寧々は黒いリュックサックを背負っていました。
そのリュックからは見たことのない真新しいお守り袋が下がっていました。
私たちは最初他愛もない会話をしていましたが、次第に話すことがなくなって私はつい尋ねました。
「そのお守りどうしたの?」
「お父さんにもらったの。おまつりの日まで手放すなって」
聞かなければよかったと、後に思いました。
あの夜のことでもっとも後悔しているのは、この問いかもしれません。
私たちは一本ずつ持った懐中電灯で細い道を入って行きました。
禁止区域には特に目印もありません。
花の写真は特別許可をもらった人が撮影したものらしく、市の写真展に飾られていたというのです。
「私、将来作りたい本があったの。写真を見て、この花こそが表紙にふさわしいって思っちゃって」
「寧々の絵好きだよ。もらった栞も大事にしてる」
彼女が時折スケッチを加工して作ってくれる栞は私の宝物でした。
それを挟むだけで、どの本も特別に思えたものです。
寧々は嬉しそうに笑って――
その時、チリチリと鈴の音が聞こえました。
私たちがびくりと足を止めたのは、それが森の奥から聞こえたからです。
チリチリ、チリチリ、と、鳴る、
近づいてくる。
チリチリ
それがなんであるのか、私はまだ知らず。
けれど寧々は、何か知っているようでした。
「なんで、まだ」
彼女は呆然とそう呟いて、でもすぐに我に返ったようでした。
私の手を掴んで懐中電灯を消させて。
「逃げよう。早く」
囁き声は半分以上が息でできていました。
チリチリと、チリチリと
鈴たちの音が近づいてきます。
どんどん大きくなる。音が、どんどん。
私たちはいつの間にか全速力で走っていました。
最初は足音を殺そうとしていましたが、鈴は確実に距離を詰めてきている。そのことに気づいて耐えきれず走り出したのです。
鈴は既にぐわんぐわんと森中に鳴り響いていました。
懐中電灯は途中で落としてしまって、あたりは真っ暗で。
無我夢中でした。心臓が爆発しそうでした。
最初に捕まったのは、私の方でした。
髪を掴まれて後ろに引きずられて、悲鳴を上げました。
耳のすぐ横で鈴の音が大音量で聞こえて、頭がおかしくなってしまいそうでした。
チリチリチリチリヂリチヂリチ
音が、入り込んでくる。頭の中に。
私は悲鳴を上げて、パニックで全身をばたつかせて。
寧々は、そんな私を助けようと戻って来てくれました。
本当は逃げられたはずなのに。
いえ、それでも彼女は逃げられなかったのでしょうか。
真っ暗でした。何も見えなかった。
だから私は最後まであれがなんだったのかよく分かりません。
「やめて」「たすけて」と寧々の悲鳴が聞こえました。
それは少しずつ闇の向こうへ遠ざかっていきました。無数の鈴の音と共に。
私は怖くて、その場に蹲ったままでした。
大事な友人を助けに追うことはできませんでした。
必死で両耳を押さえて、私は泣いていました。
鈴の音も、寧々の泣き声も聞きたくなかったのです。
どれくらいそうしていたのか。
気づいた時、辺りは静まり返っていました。
空は白んで、近くに寧々のリュックサックが落ちていました。
私はそれを拾って、のろのろと家に帰って眠りました。
寧々がいなくなったことは、騒ぎにはなりませんでした。
私が隠したわけでもありません。
私は翌日リュックサックを持って彼女の家に行きました。
何を説明するより先に、彼女の父親はリュックサックを見て顔色を変えました。
差し出されたそれを反射的に振り払って、リュックサックは玄関に落ちました。
黒いお守り袋が床にぶつかって、その口から小さな金色のコインが零れたことを私は見逃しませんでした。
呆然と立ち尽くす私を無視して、父親は焦った様子でどこかに電話していました。
そこからすぐに市役所のひとが何人もやってきて、私は家に戻されて
それきりです。
それきり寧々は戻ってきませんでした。
もう二十年も前の話です。
この街で暮らしていると、そして年を取ると、説明されずとも色々なことが分かってきます。
鈴の音は、よくない兆しです。そしておしらせも。
分かっていて口を噤みます。ここはそういう街だからです。
※
「涼? まだ具合悪いの?」
私は小学生の息子の部屋にそう声をかけます。
息子は少し前から部屋に閉じこもっていて学校に行っていません。
本人曰く「気持ちが悪い」とのことですが、病院に行くことも拒否し、正直困惑しています。
学校で何かあったのか、先生や同級生に聞いてみた方がいいかもしれません。
返事がないことに諦めた私は、インターホンの音を聞いて玄関に向かいました。
扉を開けても、そこには何故か誰もいませんでした。
代わりに郵便受けに何かが刺さっているのが見えました。
「あら」
取り出したそれは息子が学校で使っているのと同じ連絡袋です。
おたよりが何枚も入っているらしきそれを私は軽く振って――
ああ、鈴の音がする。
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