013 「仲直りがしたいの」


 ノックの、音がした。


「っ!」


 途端、美湖みこは弾かれたように立ち上がって、ピンと姿勢を正した。

 侑弦ゆづるも傾いていた身体を戻し、イスにまっすぐ座り直す。


 横目でお互いの顔を確認してから、ふたりでドアを見つめた。


「どうぞ」


 動かずにいたドアに向かって、美湖が言った。


 おそらく、中に人間がいることは、向こうにも伝わっているだろう。

 なら、居留守はできない。それに、間を置きすぎるのも不自然だ。


 ガララ、と音を立てて、ドアがスライドする。

 侑弦は早まった鼓動を鎮めようと、胸に手を当てながら、その様子をぼんやりと見ていた。


「失礼します」


 しんと冴えた、涼やかな声だった。


 ドアの向こうに立っている顔には、見覚えがある。

 いや……これは、ついさっきの記憶だ。


「いらっしゃい。なにか用?」


 自分と同じリボンを認めたのか、それとも、知っている相手だったのか。美湖は丁寧さと柔らかさの合わさった口調で、そう尋ねた。

 さっきまでの甘い空気は、当然のことながら、すっかり消え去っていた。


 危なかった、と侑弦は思う。

 人に見られずに済んだというのが、まずはひとつ。

 もうひとつは、キスをしてしまう前で、止まったことだ。

 そう考えると、今のタイミングで人が訪ねてきたことは、僥倖だったのかもしれない。


 美湖のように、切り替えよう。

 それに、訪問者の用も、気になるところではある。

 なにせ、彼女は――。


綿矢わたやさん、だよね」


 美湖が名前を呼んだ。

 客人が頷くと、黒い髪が華奢な肩を流れて、さらりと音がしたようだった。


 綿矢わたや紗雪さゆき

 さっき教室で口論をしていた、ふたりの女子のうちのひとり。


 クールというには、いささか冷えすぎた佇まい。

 だが棘のある雰囲気ではなく、まるで冬のような、冷たい清廉さをまとっていた。


天沢あまさわ美湖さん。それに……朝霞あさか侑弦くん?」


 紗雪は不思議そうに侑弦を見て、かすかに首を傾げた。

 まあ、無理もない。ここは生徒会室で、侑弦は生徒会役員でもなんでもないのだ。


 ただ、紗雪はすぐに侑弦から目をそらして、美湖を見つめた。

 どうやら、お邪魔というわけですらないらしい。


「相談したいことがあるのだけれど」


 紗雪が言った。

 それまで緊張したように真顔だった美湖の表情が、途端に緩むのがわかった。


「そっか。なんでも言って。私にできることでも、できないことでも」


 と、美湖の口からお決まりのセリフが出る。


 美湖には、大抵のことはできる。

 けれど、『できない』ということも、美湖にとってやらない理由にはならない。

 ちょうど前回の落とし物のように、手に負えないことは、人のちからを借りる。

 それがしっかりできることも、美湖の強さのひとつなのだった。




「友達と、仲直りがしたいの」


 部屋の中央に固めて置かれたデスクのひとつに座って、紗雪が言った。

 彼女の前には、侑弦がポットで淹れたお茶が置かれている。

 部外者なのに、なぜかお茶汲みをさせられている。

 まあ、べつにいいのだけれど。


「仲直り、ね。喧嘩?」


「いいえ、一方的に拒絶されてるわ。原因はわからない。少し前までは、変わった様子もなかった」


「ふぅん……なるほどね」


 美湖は顎に手を当てて、首を小さく傾けた。


 紗雪の言葉は飾り気がなく、端的だった。

 要点が明確でわかりやすいが、感情や繕いが混ざらないのは少し不思議だ。


「相手の子は? 桜花おうかちゃん?」


「……知ってるのね」


「もちろん。桜花ちゃん、目立つしね。まあ、同じ学年の子は大体覚えてるけど」


 当然だ、というように小さく鼻を鳴らして、美湖は自分のお茶を飲んだ。


 昔から、美湖は人の顔と名前を覚える能力が異常に高い。

 どちらかといえば苦手な侑弦にしてみれば、感心するばかりだ。

 実際、紗雪がここに来たときにも、自分から名前を言い当てていた。


 まあ、綿矢紗雪と佐野さの桜花おうかが友人であることまで知っているのは、それだけでは説明できないのだけれど。


「先週から、急にまともに話してくれなくなったわ。理由を聞いても、教えてくれない。きっかけに心当たりもないから、困って、ここに来たの」


 紗雪の言葉で、侑弦はさっき、教室を出る前に見た光景を思い出した。


 佐野桜花の態度は、頑なだった。

 もともとの関係性は不明だが、紗雪の言っていること自体は、ほぼ間違いないだろう。


「桜花は私にとって唯一の、それに、大切な友達。だから、このままなのはいや。お礼はするわ。だから、助けて」


 淡々と、それでいてまっすぐな声音で、紗雪が言った。

 そのまま、綺麗な姿勢で頭を下げて、ぴたりと止まる。


 律儀、というか、真面目だ。

 だが感情が乏しいせいか、堅苦しいわけではないにしても、どこか無機質な雰囲気がある。


 美湖とは、まるで反対のタイプだな。

 そんなことを思いながら、侑弦は自分の恋人の方を見た。


「もちろん。任せて」


 ほとんど迷うことなく、美湖は言った。

 ぽんっ、と控えめな胸に手を当てて、にっこりとした笑顔を作る。


 まあ、そうだろうな、と思う。

 今まで、美湖が人の相談を無碍にしたところなど、侑弦はただの一度も見たことがなかった。

 断る、という選択肢を、最初から持っていないのだろう。


 それに、おそらくは――。


「あ、でもお礼はいらないよ。頼ってもらえて嬉しいから、ね。ふふっ」


 見返りも、求めない。今までも、これからも。

 きっとそれが、天沢美湖という人間なのだ。



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