羨望の呪縛

しがない短編小説家

羨望の呪縛

小林沙織、30歳。彼女の朝は、スマートフォンの通知音で始まる。目覚まし時計よりも早く鳴り響くのは、Instagramの「いいね!」とコメントの数だ。昨夜投稿した、少し加工した自撮り写真と、流行のカフェで撮ったブランチの写真。それらが、どれだけの他者からの承認を得られたかを確認するのが、彼女の一日の始まりだった。


沙織は、ごく普通の会社員だ。仕事は可もなく不可もなく、給料も平均的。週末は、特に予定がなければ家で過ごすことが多い。そんな彼女の生活を彩る唯一の「光」が、SNSだった。特に、大学時代の友人である高橋美咲の投稿は、沙織にとって常に輝かしい目標であり、同時に胸を締め付ける嫉妬の対象だった。


美咲のInstagramアカウント「@_misaki_perfect_life」には、文字通り「完璧な人生」が投稿されていた。 高級ホテルのスイートルームからの夜景、海外の有名リゾートでのバカンス、著名なシェフが腕を振るうレストランでのディナー、そして、いつも美咲の隣には、絵に描いたようなイケメンの彼氏がいた。ファッションも常に最新で、笑顔はいつも輝いていた。


「また海外か…」


沙織は、自分の古びたマグカップに入れたインスタントコーヒーを飲みながら、美咲の最新投稿に「いいね!」を押した。そして、コメント欄に「美咲ちゃん、いつも素敵!羨ましい!」と書き込んだ。指先は、まるで自動操縦のように動く。しかし、その裏で、沙織の心はドロドロとした黒い感情に支配されていた。


「どうして美咲ばかり、こんなに恵まれているんだろう?」


沙織は、美咲の投稿を隅々までチェックした。写真に写り込んでいるブランド品、ホテルの名前、レストランのメニュー。それらを検索し、自分の収入では到底手が届かない現実を突きつけられるたびに、嫉妬の炎は燃え上がった。美咲の笑顔を見るたびに、自分の人生のどこか足りない部分が浮き彫りになるような気がした。


現実世界で美咲と会う時、沙織は最高の笑顔で美咲の「完璧な人生」を褒め称えた。「美咲ちゃん、本当にすごいね!私には絶対無理だよ!」そう言うたびに、美咲は少し困ったように「そんなことないよ、沙織だって頑張ってるじゃん」と答える。その言葉さえも、沙織には上から目線に聞こえ、嫉妬の燃料となった。


ある日、美咲が「実は彼と結婚することになったの」と報告してきた。左手の薬指には、大粒のダイヤモンドが輝いていた。沙織は「おめでとう!」と叫び、抱きしめた。だが、その瞬間、沙織の脳裏には、自分がいつまで経っても独り身である現実と、美咲の「完璧な人生」が完成してしまうという絶望感が交錯した。その夜、沙織は美咲の投稿に「#幸せのおすそ分けありがとう」と書き込みながら、心の中で「爆発してしまえばいいのに」と呟いた。


沙織の嫉妬は、次第に彼女自身を蝕んでいった。仕事中も、美咲の次の投稿が気になって集中できない。休日も、美咲の投稿に張り合うように、無理をしてお洒落な場所に繰り出し、写真を撮るようになった。しかし、どんなに頑張っても、美咲の「完璧さ」には届かない。その差が、さらに沙織を苦しめた。自分の投稿に「いいね!」が少ないと、自己肯定感が揺らぎ、スマートフォンを投げつけたくなる衝動に駆られた。


「もうこんな生活、嫌だ…」


ある夜、沙織は衝動的に、美咲の最新のウェディングドレスの写真に、匿名アカウントから悪意のあるコメントを書き込もうとした。「こんなに幸せアピールして、いつまで続くかな?」指が震え、送信ボタンを押そうとしたその時、突然、スマートフォンの画面がフリーズした。


再起動するまでの数分間、沙織は息を詰めて画面を見つめた。その短い沈黙の中で、彼女はふと、美咲が以前、こんなことを言っていたのを思い出した。「沙織、SNSって、みんな良いところだけ切り取って載せてるから、あんまり真に受けちゃダメだよ。私だって、大変なこといっぱいあるんだから。」


再起動したスマートフォンを開くと、美咲からのメッセージが届いていた。「沙織、実はちょっと相談があるんだけど、今度会えないかな?彼と、ちょっと上手くいってなくて…」


沙織は驚いた。美咲の「完璧な人生」に、まさかそんな影があるとは思いもしなかった。数日後、美咲と会った沙織は、彼女の口から語られる「真実」に耳を疑った。SNSに投稿されていた輝かしい写真は、実は彼との不仲を隠すための「偽装」だったこと。高級ホテルやレストランは、彼が他の女性と会う言い訳に使っていた場所だったこと。そして、ウェディングドレスの写真は、すでに破談寸前の状況で、最後の望みをかけて撮ったものだったこと。


「私、みんなに『完璧な人生』だと思われたくて、無理してたんだ。でも、もう疲れたよ…」


美咲は、涙ながらにそう語った。その顔は、SNS上の輝かしい笑顔とはかけ離れた、憔悴しきったものだった。沙織は、美咲の苦悩を聞きながら、自分の心の中で渦巻いていた嫉妬の感情が、まるで砂のようにサラサラと崩れていくのを感じた。


美咲の「完璧な人生」は、虚構だった。そして、その虚構に嫉妬し、自分を苦しめていた自分自身が、いかに愚かだったかを沙織は悟った。彼女は、美咲の手を握りしめ、「大丈夫だよ」と、心からの言葉をかけた。


その日から、沙織のSNSとの向き合い方は変わった。美咲の投稿をチェックすることはなくなった。自分の投稿も減り、無理をして「映える」場所に行くこともなくなった。彼女は、少しずつ現実の自分と向き合い始めた。


しかし、数ヶ月後。沙織は、いつものようにスマートフォンをスクロールしていた。すると、目に飛び込んできたのは、職場の後輩が投稿した、ハワイでのウェディングフォトだった。「#最高の結婚式」「#幸せすぎて泣ける」というハッシュタグと共に、後輩は満面の笑みを浮かべていた。


沙織は、その写真に「いいね!」を押した。そして、コメント欄に「〇〇ちゃん、おめでとう!本当に素敵!羨ましい!」と書き込んだ。指先は、まるで自動操縦のように動く。そして、その裏で、沙織の心には、再びドロドロとした黒い感情が、静かに沸き上がっていた。


美咲の虚構を知っても、沙織は嫉妬の呪縛から抜け出せていなかった。なぜなら、彼女の嫉妬は、美咲個人に向けられたものではなく、SNSが作り出す「完璧な誰か」という幻想、そして、それと比較して常に自分を劣っていると感じてしまう、現代社会の病理そのものだったからだ。


彼女は知っていた。この感情は、これからも形を変え、次から次へと現れる「完璧な誰か」に向けられていくことを。そして、その度に、自分自身を苦しめ続けることを。沙織は、スマートフォンの光に照らされた自分の顔を、虚ろな瞳で見つめていた。

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羨望の呪縛 しがない短編小説家 @tanpen_sakka

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