虚飾の螺旋
しがない短編小説家
虚飾の螺旋
佐倉ミキ、30歳。彼女の人生は、スマートフォンの画面の中にあった。朝、目覚めると同時に指が向かうのは、Instagramのアイコン。昨夜投稿した写真への「いいね!」の数を確認し、フォロワーのコメントに一喜一憂する。彼女の現実の部屋は、散らかった雑誌と着っぱなしの洋服で溢れていたが、SNS上の彼女の生活は、常に完璧に磨き上げられていた。
ミキは、ごく普通の会社員だった。給料は手取り20万円そこそこで、貯金もほとんどない。しかし、彼女のSNSアカウント「@_miki_life_glam」には、高級ホテルのラウンジでアフタヌーンティーを楽しむ姿、ブランドの新作バッグを携えて都心のカフェで微笑む姿、海外のリゾート地で優雅に過ごす姿が並んでいた。当然、それらのほとんどは「演出」だった。
きっかけは、2年前のささやかな投稿だった。友人と訪れた少しお洒落なカフェで撮った、何の変哲もないラテアートの写真が、なぜか「発見」され、一晩で数百の「いいね!」がついたのだ。それまで数えるほどしかなかった「いいね!」の数が爆発的に増えたことに、ミキは生まれて初めて、他者からの承認欲求という甘美な毒に侵された。
それ以来、彼女の生活は一変した。週末は、SNSで話題の「映える」スポットを巡るようになった。高価なカフェで一番人気のメニューを注文し、一口も食べずに写真を撮り、すぐに次の店へ向かう。新作のブランド品は、ローンを組んででも手に入れた。一度着用し、最高の角度で写真を撮れば、すぐにフリマアプリで売却する。それでも、次の「映え」のためには、常に新しい「素材」が必要だった。
「ミキちゃん、最近すごくキラキラしてるね!何かあったの?」職場の同僚にそう言われるたび、ミキは心の中でガッツポーズをした。SNS上の虚像が、現実の自分にまで影響を与えている。それが彼女にとって、何よりの喜びだった。フォロワー数は瞬く間に数万人に達し、彼女は「インフルエンサー」と呼ばれるようになった。企業から商品提供の依頼が来るようになり、イベントにも招待されるようになった。
だが、その裏側で、ミキの現実の生活は破綻寸前だった。毎月の支払いに追われ、電気代やガス代の滞納は日常茶飯事。常に睡眠不足で、肌荒れもひどかった。現実の友人たちは、いつしか彼女のSNS疲れに呆れ、離れていった。彼女の周りに残ったのは、SNS上で互いの「映え」を褒め合うだけの、顔も知らない「フォロワー」たちだった。
ある夜、ミキは高級レストランでの食事風景を投稿するために、数ヶ月分の貯金をはたいて予約した。一人でコース料理を頼み、周りの視線を気にしながら、料理が運ばれてくるたびに必死で写真を撮った。完璧な構図、完璧なライティング。しかし、どの料理も冷めてしまい、味はほとんどしなかった。それでも、彼女のスマートフォンには、加工された笑顔の自分が、最高の料理を前に恍惚とした表情を浮かべる写真が収まっていた。
「これでまた、たくさんの『いいね!』がもらえる」
そう思いながら、ミキはレストランを出た。しかし、その足取りは重く、心は空っぽだった。帰り道、ふとショーウィンドウに映る自分の姿を見た。くすんだ顔色、目の下のクマ、疲労困憊した表情。それは、SNS上の華やかな「@_miki_life_glam」とはかけ離れた、現実の佐倉ミキだった。
「こんな自分が、あの完璧な私を演じているなんて…」
自嘲気味に笑ったその時、突然、スマートフォンの画面が真っ暗になった。バッテリー切れだった。
ミキは一瞬、パニックに陥った。ポケットやバッグを探し回ったが、充電器は持ち合わせていなかった。夜道を歩きながら、彼女は生まれて初めて、SNSのない「現実」と向き合うことになった。
「いいね!」も、コメントもない。フォロワーの数も見えない。彼女を承認してくれる、仮想の拍手喝采が一切聞こえない。まるで、自分という存在が、世界から消え去ってしまったかのような、耐え難い孤独感と虚無感が彼女を襲った。
自宅に戻ったミキは、散らかった部屋の隅で、震える手で充電器を探した。ようやく見つけ出し、スマートフォンをコンセントに差し込む。電源ボタンを押すと、ゆっくりと画面が明るくなり、見慣れたSNSのアイコンが現れた。
画面が完全に立ち上がった瞬間、通知が殺到した。「あなたの投稿に〇〇さんが『いいね!』しました」「〇〇さんがコメントしました」「フォロワーが100人増えました!」
ミキの顔に、安堵の表情が広がった。彼女はすぐに、最新の投稿を確認した。レストランでの完璧な笑顔の写真には、すでに数百の「いいね!」がつき、称賛のコメントが溢れていた。「ミキさん、いつも素敵!」「憧れのライフスタイルです!」「私もこんな風になりたい!」
ミキは、そのコメントの一つ一つを、まるで命の水のように貪るように読んだ。彼女の心は満たされ、疲労はどこかへ吹き飛んだ。画面の中の、完璧な笑顔の自分を見つめながら、彼女は再び微笑んだ。
彼女にとって、この虚飾に満ちたSNSの世界こそが、もはや唯一の現実だった。そして、この「いいね!」の連鎖が続く限り、彼女は、この虚像の螺旋から抜け出すことはできないだろう。現実の自分は、いくら疲弊しようとも、画面の中の「完璧な私」を演じ続けるために存在しているのだ。
虚飾の螺旋 しがない短編小説家 @tanpen_sakka
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