カラスのサリーちゃん
雑居テナントビルの屋上からは、それなりに街がよく見渡せた。
電車が脱線して、九十度ひっくり返っているのが分かる。
ちょうどタワーマンションがゆっくりと倒れ込んでいく様子も見ることができた。
真っ赤な空には一匹のカラスだけが飛んでいて、なんとなく見られている気がした。
「そりゃ人間よりデカい口が走り回るわけだ。完全に世紀末だよこれ」
橿原好は大きく溜め息を吐きながら、手摺にうなだれる。
望むのは、ありきたりで平凡な日々だけだったのに。
やっとこれまでのそれなりに苦労してきた少年時代を経て、普通の高校生として世間一般的な日常を送れると思っていたのに、どうもそれは無理らしい。
「オイシソウ?」
屋内と唯一繋がっている扉が、唐突に蹴破られる。
派手に吹っ飛んでいった扉を避けながら、橿原はうんざりと頭を掻く。
目も鼻もないくせに、不思議と追いかけることができたのか、手足の生えた口の化け物も屋上までやってきてしまったらしい。
「オイシソウ!」
「筋トレとかしてないし、たぶん美味しくないよ」
かちんっ、かちんっ、と歯を慣らして口が突進してくる。
猪のように突っ込んでくる口から逃げながら、すれ違いざまに試しに蹴り飛ばしてみた。
「オイシクナイ!」
「ん? なんだこの感触。すごくきもい」
ぼよんっ、と蹴り込んだ足裏に伝わってくるのは、杏仁豆腐を踏み潰したかのような独特な感触。
蹴り飛ばした衝撃で、多少は距離が空く。
しかしあまりダメージが入ってる手応えはなく、口が両端から白い泡を飛ばして怒りを露わにするだけだった。
「オイシソウ! オイシクナイ!」
「いやどっちだよ」
苛立ちを隠さない口が、再び襲いかかってくる。
振り下ろされる筋骨隆々とした拳。
コンクリートの床が破壊され、破片が飛び散る。
その隙に乗じて、もう一度殴りつけてみるが、感触は先程とほとんど同じ。
「うーん。なんかやっぱり、効いてないな」
「普通に攻撃しても、“
「え?」
その時、誰かに話しかけられた気がした。
耳に残るのは、柔らかな女性の声。
慌てて周囲を見渡しても、いるのはいまだに血気盛んな口と、知らない間に手摺に止まっている一羽のカラスだけ。
口とカラスを交互に見回してから、橿原は意を決したように声をかける。
「……まさか口ちゃん、女性の方だったんですね!」
「いやそっちじゃないでしょ。どうしてこの二択を外せるの?」
「うわあ。カラスが喋った」
「酷い棒読みだね。もしかしてわざとだった?」
暴れ回る口から逃げ惑いながら、今度は真っ直ぐとカラスの方へ視線を向ける。
よく見れば、そのカラスは瞳が赤い。
明らかな知性を宿したその眼差しを、彼はすでに知っている気がした。
「よかった。カーくん。生きてたんだな」
「だから違うってば。またわざと二択を外す。私だよ。君が愛して、君が殺した」
「……ヤコブさん、でしたっけ?」
「うーん、その名前はあんまり好きじゃないから。そうだね……“サリー”って呼んで。君の愛しのサリーちゃん」
サリーちゃん。
赤い瞳をしたカラスは自らをそう名乗る。
同級生の死体の真ん中に立っていた、白い髪をした女。
理由はわからないが、どうやらあの女がカラスの中に入り込んでいるらしい。
「それで、どうしてサリーちゃんはカラスになっちゃったの?」
「君に殺されちゃったからね。私が持ってたのは、このカラスだけだった」
「なるほど」
全く理解していないが、橿原はとりあえず分かったフリをした。
複雑なことを深く考えるのは、後回し。
彼には先延ばし癖があった。
「ねえ、好くん。その
「まあ、殺したいってほどではないけど、閉じさせはしたいよね」
「できるよ。私を殺した好くんなら」
「ネチネチが凄い。俺が殺したこと毎回アピールされるのこれ?」
「だって私を殺したんだよ? この事の意味、分かってる?」
「つまりはラブオアダイですね?」
「ちょっと意味わかんないかな」
「ですよね」
優雅に赤い空を舞いながら、カラスのサリーは楽しそうに笑う。
会話をする余裕すら見せる橿原に威嚇しているのか、歯茎を剥き出しにして口が叫ぶ。
「オイシソォォォウ!!!!!」
「ほら、好くんがふざけてるから、怒ってるよ?」
「怒口天ですね」
屋上に据付られていた室外機を持ち上げ、口が思い切り投げてくる。
それを回避すると、その隙に乗じて口が大きな歯を突き立ててきた。
「オイシソウ! オイシソウ! オイシソウ!」
「おぇ。まじきついってこいつ。唾エグい。サリーちゃん。どうしたらこいつ黙らせられる?」
「好くんには、私の力が宿ってる。だから“事象の入れ替え”ができるはず」
「ジショーノイレカエ? なんですのそれは?」
「そうだね。たとえば……ねえ、好くんは私のこと、信じられるよね?」
「え? なに急に?」
「だって私のこと、愛してるんだもんね? だったら——」
サリーがビルの屋上から、中空へと移動する。
黒い羽が舞い、赤い風が通り抜ける。
春にしてはやけに湿った空気が、喉を濡らしていく。
「——今すぐこの場所から、頭を下にして飛び降りてくれる?」
カラスとは程遠い、妖しげな女性の笑い声が響く。
橿原は、試すように自分に注がれる赤い瞳を、真っ直ぐと見返す。
そして小さく、微笑みを返す。
「わかった。おっけー」
「迷ってる暇はない……ってえ?」
迷いは、一切なかった。
サリーが瞬きをする間に、すでに彼は踏み込み切っている。
凄まじい脚力で、遥高くに跳躍する。
口の化け物もそれを、呆然と口送ることしかできない。
躊躇も、戸惑いも、全てを置き去りにして、橿原好は自由落下を始める。
「はい! 落ちまーす!」
サリーに言われた通り、頭を下にして加速度をつけながら落下していく。
あっという間に迫り来るアスファルト。
このままの勢いでぶつかれば、確実に頭どころか全身がひしゃげるように思えた。
「……ふふっ。なんだか、君のことが、私も好きになってきたかもしれないなぁ」
そんな七階建のビルから全力で飛び降りた橿原を眺めながら、サリーが黒い翼を広げる。
その身に纏われる、真紅の光。
長い歴史の中で神と崇められる時代もあった、禁忌の存在の力の一端が芽吹く。
「【私は人間達の間で暮らすために地上に降り立ち、ヤコブという名で呼ばれる】」
紡がれる古の言の葉。
ほとんど同時に、勢いよく橿原好の頭部がアスファルトに叩きつけられる。
刹那、七階建てのビルの屋上で、手足の生えた口が突如ペチャンコに潰れ、歯が唇を内側から突き破り、血溜まりに浮かぶただの肉塊になった。
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