第23話 落日
翌日、オフェン伯爵家から戻ってきた老奥様は、モリヤを呼ぶと
「死産だったんですってね? この薬をしばらく飲ませるといいわ。強壮薬よ」
そう言って、紙に包まれた粉末を渡した。
「身体の回復が最優先ね。あんな細身でお産が耐えられるはずはないのよ。出産時の無理がたたって体を壊す女は多いものです。閣下からお預かりした以上、責任を持ってアバンストへ送らなければならないわ。ソイル家の体面もありますから」
老奥様の穏やかな声色と心配そうな顔つきを見て、老奥様にもまだ情けは残っていたらしいね、とモリヤは思った。
それで、ついほっとするような気持ちになって
「はい。少しでも元気になってほしいです」
涙ぐみながら答えたのだった。
数日後。馬車はサーチャーズ山脈を越えて、獅子街道をひた走っていた。
前夜にビビがまた熱を出したので、モリヤは寝ずに看病しており、眠くてたまらなかった。
街道に入って路面が良くなった。そのせいか、馬車の軽い振動もかえって心地好く、昼食の後、モリヤは荷台の隅で居眠りをしていた。
「モリヤさん、ちょっと」
声が聞こえて目を開けると、アヌの皺深く浅黒い顔がすぐそこにあった。
道中ずっと別の馬車に乗っていたアヌだが、その朝からビビの具合を案じて、こちらの馬車に移っていたのだ。
それをすっかり失念していたモリヤは「わっ」と顔を反らして驚いてしまった。
視線が合ったアヌは、膝を退って離れていき、奥から再び声をあげた。
「亡くなったようです」
「は? なんです?」
モリヤは寝ぼけ眼でのろのろと腰を浮かした。
「アヌさん、あたしはゆうべほとんど眠ってないんですよ」
と文句を言いながら、アヌの傍に這っていった。
「残念ですが、死体と旅を続けるわけにはいきません」
アヌは淡々と言った。横たわっているドルテを指差していた。
「血を吐いて、死んでます」
目をこすりながら覗き込むと、ドルテの口許や上半身には黒っぽい血が飛び散っていた。
「えっ、そんな、ドルテさん!?」
モリヤは眠気も吹き飛んで、とっさにドルテを揺さぶり起こした。
ドルテの見開いた両の目が不思議と澄み切っていたので、望みはあるかと首で脈をとってみたが、既に反応はなかった。体も冷たく手足は強張り始めていた。
「肺を患っていましたからね。この旅は過酷で無理がありました」
アヌの言葉を無視して、モリヤはドルテを揺さぶり続けた。
「ドルテさん! ドルテさん!」
ドルテの瞳が濁っていくのは早かった。
モリヤは諦め、泣きそうになりながらアヌの方を振り返った。
「いつ気づいたんですか」
「モリヤさんに声をかける少し前です。私もうとうとしていましたから」
「こんな狭い所にいて、近くにいて、誰も気づかないなんて。確かに最近、咳がひどくなっていたような気がしてたけど、まさかそんな……」
途方に暮れて、モリヤは呟いた。
眠っているビビを抱きかかえたアヌは言った。
「まだ少しはもつと思ったんですがね」
そして、何かに気づいた様子で、ドルテの枕の側を探っていたが、束ねた薬包紙を取り出し
「これを飲ませていたんですか」
と尋ねた。
モリヤは特に深く考えず頷いた。
「強壮薬だそうですよ」
「強壮薬?」
目が覚めてぐずりだしたビビをあやしながら「いつから?」とアヌは重ねて尋ねた。
「それは、先日、奥様に勧められて……」
モリヤは答えかけ、はっとした。
俄かに動悸が激しくなった。
「ふん。ご親切に、下さった方が強壮薬と言うなら、そうなんでしょう」
アヌは含みのある言い方をして、なぜかモリヤを憐れむように見た。
モリヤが口もきけない程に茫然としていると、アヌが代わりに馭者に変事を知らせた。
馬車はゆっくりと停止した。
少し経ってから、老奥様が様子を見に来た。
スカーフで顔半分を覆っていた。
老奥様は首を伸ばして、汚物を見るような目つきでドルテの死を確認すると、言った。
「まったく、迷惑ばかりかけられて。うんざりするわね」
獅子街道が険阻な峠道と交わる荒野に、馬車は連なって停まっていた。
ドルテの死は一行の間にすぐ伝わって、下女数名が弔意を述べに来たのだが、老奥様が厳しい口調で「伝染ったら困るわ」と止め、近寄らせなかった。
モリヤは涙をこらえ、ドルテの顔や体を丁寧に拭きながら
「アヌさん、あたしは仕えた若いお嬢様を二人も見送りましたけど、その時よりもずっと悲しくて、虚しいです。どうしてドルテさんはこんなに運がないのでしょう」
声を震わせて言った。
アヌはどこからか持ってきた白い敷布を遺体の横に置くと、息をつき
「美人は死顔も綺麗ですね」
と、全く噛み合わない無神経な返事をした。
モリヤの悲嘆に付き合う気はなさそうだった。
ドルテを敷布で包んだ後、幌の外に出ると、老旦那様と若旦那様が激しく言い争っていた。
「国境で止められてしまうぞ」と老旦那様が怒鳴る声がここまで聞こえた。
ドルテのことで揉めているらしかった。
陽が沈むまではまだ間があったが、日暮れも早い季節だ。
ここでぐずぐずしていていいのだろうか、とモリヤは思い、腕組みして肩をいからせている老奥様を盗み見た。
側にいた馭者が、老奥様に「左へ行けばシビイ岬です」と言っていた。
――大丈夫、大丈夫。
モリヤは自分の心に言い聞かせた。
なぜか不安でたまらなかったのだ。胸が痛いくらいに鼓動が早まっていた。
それから、オルレアを抱くと、近くの木陰に身を潜めるように座った。
モリヤの緊張が伝わってか、オルレアは身体を固くして、モリヤの胸元にぎゅっと顔を押し付けた。
大きな落日が輝いていた。
木立ちの隙間から見える海は、陽の光を溶かし込んだように薄赤く、穏やかだった。
峠道をもう少し下れば、懐かしいミナ村が眼下に見えてくるだろう。モリヤは故郷の家をぼんやりと思い出していた。
が、それも束の間のことだった。
老奥様とアヌが何か話しながらこちらに向かってくるのに気づいて、モリヤは耳をそばだてた。
「モリヤ、出てきてくれる? 大事な話があります。どこに隠れているの」
老奥様の声だ。
――うわぁぁぁん!!!
いきなりオルレアが胸元で泣き叫んだ。
モリヤが思わず後ろにのけぞった程、激しく、何かを訴えるような泣き声だった。
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