第8話 希望と落胆


「遅かったね。誰か呼びにやろうかと思ってたところだったよ」

 ビビが飯場に戻ると、モリヤは既に魚の下拵えを済ませ、油で揚げていた。


「ごめんなさい。頼まれ事でちょっとバタバタしちゃって。遅くなったからって、ジュリも慌てて帰ったの。モリヤに挨拶できなかったわね」

 帰り際、表口で喧嘩別れのようになったジュリとの会話を思い返し、ビビは肩を落とした。

 

 番小屋でシャミネと話した後、ビビは興奮しながら、早速ジュリにその内容を伝えたのだった。

 すると、意外にもジュリはため息混じりに「困ったことになったね」と言ったのだ。


「奴隷印があるってだけでも面倒なのに、魔術だの何だのって、ややこしくなってるじゃないか。そんな話を聞いたところで、どうしようもないよ」


「あのね、これは罪の印らしいわ。私、ノルトケンに行ってみたいと思って」

 ビビは熱をこめて言い返した。ジュリは皮肉っぽい笑みを浮かべた。


「馬鹿だな。罪の印なら、もっとまずいだろ。それに、子供にそんな残酷な魔術をかけるような、邪悪な魔術師を捜すっていうのかい? 危ないよ」


「魔術師の存在を知れただけでも、私にとっては救いなの。とにかくこの印を消す方法があるってことでしょ? ずっと何も変わらない、知らなくていいと諦めてたけど、この先に望みがあるのなら、行動したい。それにね、奴隷制度が廃止されたことをお屋敷の人が知らないはずはないって」

 額に手を当てて、いつになく強い調子で、ビビは言い張った。


 ビビの胸中はざわざわとして、苦しかった。


 シャミネの言葉を何もかも鵜呑みにするつもりはないが、耳の奥底に残っている「何かおかしい」と言ったシャミネの声は、これまでビビが抑え込んできた内心の憤懣を、はっきりと揺るがしていた。


「どうしても旦那様方に聞いてみなくちゃ」


 ビビの口調に気圧されたのか、いっとき口ごもっていたジュリは、頭を振って言った。

「こんなこと言いたくないけど、もし、魔術師にそれを頼んだのが、そのお屋敷の誰かだったらどうするのさ? やぶ蛇だぜ」


 お屋敷の誰か、と聞くと、ビビは言葉を失い、唇を小さく震わせた。


 ジュリはビビの両肩に手を置いてじっと見つめると、言い聞かせるように

「耳新しいことを聞けば、飛びつきたくなる気持ちはわかるよ。でも、それが君にとって本当に為になるかどうかは、慎重に判断しなくちゃね。君はまだ子供だし、異天地にこもりきりで、外の事もよく知らないだろ? いいかい、絶対に、一人で先走って何かしようとしないって約束してほしい。僕も方法を考えてるから。できる限りの力になりたいし、ノルトケンに行くのなら僕も一緒に行く。だけど、すぐには無理だ」

 と言った。


「……どうして? ジュリは喜んでくれると思ったのに」

 ビビは不満だった。さっきまでの勢いが萎えてゆく気がして、話さなければよかった、とすら思った。


「そんな顔しないでくれよ。そりゃ、選択肢は多い方がいい。ただ、今のところ、君の生まれには判らない事が多すぎるんだ。まずは、どうしても、モリヤ叔母さんに知ってる事情を全部隠さず打ち明けてもらう必要があるよ。だけど……もし、いや、そうなった後も、叔母さんが君の味方でいてくれるのか、まだ僕には判らないんだ」

 ジュリは歯切れの悪い感じでそう言うと「ごめん」と謝って、駆けて行ったのだった。

 


「あぁ暑い。どうだい、この魚を五十匹も揚げたんだよ」

 ふいに耳に入ったモリヤの声で、ビビは我に返った。


 モリヤは手拭いで汗を拭きながら、揚げ魚を大皿に盛りつけている。

 白髪交じりのモリヤのひっつめ髪をぼんやり見たビビは、私の行動でモリヤに迷惑をかけることになってしまうのかしら、モリヤは味方じゃなくなるかもってどういうこと? と無意識に声に出していた。


「え、なんだって?」とモリヤが振り向いた。ビビは慌てて「なんでもない」と首を振った。


「じゃ、あんたは付け合わせの玉ねぎとセロリを切ってちょうだい。この魚は香味野菜とさっぱり食べるとおいしいんだ。あとはパンが焼けるのを待つだけよ」

 ビビは涙を流しながら、無心に青い玉ねぎを刻んだ。


 パンの焼ける良い香りが漂い出した頃、仕事を終えたクロクフ人がぞろぞろと飯場に集まってきた。

 体格のいい男達は水瓶の前に並び、順番に水筒に水を入れている。


 しばらくすると「おかみさん、水瓶がすっからかんだ」と遅れて来たらしい男が、炊事場を覗いて言った。


 モリヤは石竈のパンをひっくり返している最中で手が離せない。わかりました、とビビが代わりに返事をした。

「モリヤ、私が水瓶を替えてくるわ」

「悪いね。裏口に用意してあるから」


 夕方の水汲みはビビの役目だったが、今日は飯場に入るのが遅くて、すっかり忘れていたのである。

 何も言わず、水汲みを済ませていてくれたモリヤに申し訳ない気持ちになった。


 ビビは急いで水瓶を手押し車で運んだ。

 空の水瓶と入れ替えて帰ってくると、前庭の方が騒がしい。

 詰問調の女の声が聞こえる。

 手押し車を隣の小屋にしまって、ビビは飯場に入ろうとしたが、どんどん大きくなっていく声が耳障りで気にかかった。


 そこで、空の水瓶を抱え小屋の陰に廻ると、女達の様子を窺った。


 花壇に一人腰かけていて、それを大柄なクロクフ人の女数人が取り囲むように立っている。


「あんた、立派な体持ってるのに、罰当たりなこったね」

「まぁ茶摘みもろくにできない、乳搾りも下手ときたら、しょうがないよ」

 怒気を含んだ声色に驚きながら、ビビは聞き耳を立てた。


「またあたしらの亭主と息子に色目使ったら、今度はぶん殴ってやるから」とか「娼婦やるんなら、マイカに行けばいいじゃないか」などと、座っている女が一方的に、口汚く罵られているようだった。


 こちらに向いた女の尻に隠れて、奥の人物の顔が判らないが、なぜ何も言い返さないのかしら、とビビはもどかしく思った。

 陽が落ちて外は暗い。それでも飯場の灯りがかろうじて届く距離ではある。


 ビビは身を乗り出して目を凝らした。


「あらっ、エラさんじゃないの?」

 ビビが驚いて大声をあげると、女達が一斉に振り返った。

「どうしたんですか」

 ビビは水瓶を置いて、花壇へ走り寄った。


 真ん中に腕組みして立っていた女が、苛々した顔で何か言おうとしたが、両端の女が袖を引いて止めた。

 「飯場の娘っ子だわ、食事を減らされちまったら嫌だよ」「商会に言いつけられたら面倒だから、行くよ。こっちが損する」などと、ひそひそ囁き合いながら、女達は足早に去っていった。


「何があったんですか、喧嘩なんて」

「喧嘩もなにも、いきなり一方的に囲まれて、押されて花壇にドスン、だ。色目使ってるなんて、誰が? クロクフ人の男なんてごめんよ」

 エラがしかめ面で言った。


 エラの唇は紅く光っていた。髪を結って、洒落た花柄のドレス姿なのもビビには意外だった。

 襤褸じみた藍のつなぎをだらしなく着ていた昼間とは、随分印象が違う。

 まるで、マイカの街ですれ違うような「良家のお嬢さま」だ。


 辛い農作業を終えて疲れ切った女達の前に、こんな格好で現れたら、それは反感をかうのかもしれない、とビビは思った。


 エラは俯いて悔しそうに爪を噛んでいたが、ふいに立ち上がると、黙ったまま番小屋の方へ歩いて行った。


 何となくため息をついて、ビビも踵を返した。

 


 ビビが炊事場の戸を開けるなり

「はぁ? なんですって?」

 モリヤの甲高い声が響いた。竈の前でモリヤとテイトさんが向き合っていた。


「なんであたしが?」

 とモリヤが詰め寄った。テイトさんはたじろいで

「おかみさんが嫌なら、ビビにでもやらせればいいだろ」

 と返すと「降参」のように両手を挙げた。


 ビビに気付いたテイトさんは「よぉ」と気まずそうに笑いかけて

「とにかく、俺は伝えたぜ」

 そう言いながら、ビビの横をすり抜け、裏口から出ていった。

 

 飯場の方では、クロクフ人達が賑やかに食事を始めていた。さっき諍いの場にいた女達の姿も見えた。


 彼らの持っていく朝の分のパンが、石窯から出しっぱなしになっている。


 モリヤは険しい顔で黙っていた。

「モリヤ、何だったの?」

 ビビが小声で尋ねると、モリヤは舌打ちした。

「若旦那様の女の為に、事務所を明け渡すんだとさ」


 飯場の隣にある事務所では、テイトさんが寝起きしているのだ。

「テイトさんは長屋の監督部屋に移るんだよ。もともとそれが当たり前だったのに、テイトさんは色々理由つけて、事務所に居座ってたんだけどね」

 むすっとしてモリヤは言うと、疲れたように壁際の椅子に座り込んだ。

 そして、前掛けで顔をごしごしと拭きながら言った。


「明日の昼までに、リネンや敷物類、窓かけも新品に交換して、見苦しくないよう部屋を設えておけって、若旦那様からの言伝だと、また急な話だったんだよ」

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