タシュ―旧大陸興亡記―

佐子 八万季

第一章 奇妙な水死人

第1話 冥界の舟人


 眉月のほの暗い夜。平底舟は心地好く揺れていた。

 島陰に碇泊している親船、ミタリ神号の灯りが左手に見えていた。


「風向きはすっかり変わったようだ」

 紫文しぶんは夜空を仰いで呟いた。


 向かいで櫂をゆっくり動かしている骸骨、ねい

「東の向かい風が止みましたな」

 と言った。


 柔らかな潮風が舟の上を吹き抜けていく。


 舳先に座っていた水先案内人の沙々も肯きながら

「もう安心です。いやぁ、昨日までの暴風雨が嘘みたいだ」

 と応えた。天候も落ち着き、船出の目途が立ったからか、声が明るかった。

 

「まったく、うんざりする嵐だった。胸のむかつきがまだおさまらん」

 紫文の横で脇息に寄りかかっていた錫多しゃくだは、顔をしかめて文句を言った。


「前兆はなかったんですがねぇ」

 と申し訳なさそうにうなだれる沙々を見て

「初めてのことだな。しかし、交易省の日和見番とも話し合って船出したのだ。自然相手の事では仕方なかろう」

 紫文はかばうように言った。

 何日も海上で足止めを食っている間、ずっと気を揉んでいた沙々が気の毒だったのだ。

 

 ミタリ神号は、白銀の鈴夜しろがねのすずよの交易船である。

 船は二年に一度、秋に吹く西の闇風に乗って、サーチ島の交易都市マイカへ渡る。そして、翌晩夏の南白風で鈴夜に戻る。


 闇風、白風は、常夜風とも呼ばれる特殊な季節風だが、沙々の風と潮を見極める目は確かで、これまで航海の日取りが狂った試しはなかった。


 ところが、この度の帰路は、マイカを出港して早々、暴風雨に遭った。二日前のことだ。

 

 沖合で稲妻がひらめいた時、甲板にいた紫文はまともに光を見てしまった。顔を俯けてよろめきながら、錫多を急かし船内に入った途端、雷鳴が轟いた。

 それからすぐに、猛烈な横殴りの風雨が襲ってきた。


「おかしな天気だ。紫文、目は大丈夫か」

「あぁ。大事ない。これほど空が急変するとはな」


 船板を叩く波音の凄まじさに驚いて、紫文と錫多は顔を見合った。

「木っ端微塵にならねばよいが」

 と錫多が漏らした程、船は激しく揺れ出した。

「まだサーチ島から遠く離れてはいない。危険であれば引き返せるはずだ」

 紫文は言いながら、額の冷や汗を拭った。

  

「なんとか避難湾に入ることができました」

 涼しい顔で沙々が船室まで報告に下りてきたのは、それから数時間の後だった。


「沙々め。船酔いしていないのはさすがだな」

 錫多は少し呆れたように呟いた。


 手にした海図を広げてみせた沙々は、錫多と紫文が覗き込むと、現在地を指し示した。

「ここはデラリーズ村の外れにある入り江です。島の南東部ですね」


 あの悪天候の中、山あてをしながら舵取りしていたらしい。

 大きな帆船だから、陸が近くなっても、やたら突っ込むわけにはいかない。急峻な断崖が続く長い海岸線を抜けて、うまく島陰に寄せたな、と紫文は感心した。


 沙々は船窓の方へ手を上げ、言った。

「半島の向こうには、マイカの灯台がかすかに見える位置です。とはいえ、船体には異常なし、港に戻る意味もありません。ここで錨を下ろして嵐をやり過ごし、次の風待ちをします」


 翌未明に暴風雨がおさまっても、余波の方がひどかった。船は揺れに揺れ、その間、錫多は船室でぐったりと横になっていた。


 紫文は嘔気に耐えながら、何とか座ってはいた。だが、あと半日もこんな揺れが続けば、自分も無様にのびてしまうだろうと不安を覚えた。


 それでもいつしか眠りに引き込まれて、はっと目覚めた時、揺れは止んでいた。


 外は薄暗かった。

 海が静かなことにほっとしながら、操舵室に顔を出すと

「紫文様、もう大丈夫です」

 と振り向いた沙々が大声で言った。右舷の方がばたばたと騒がしかった。


 首を伸ばして見れば、船員達が平底船を下ろす準備をしていた。錫多も梯子を外すのを手伝っている。

「何かあったのか」


「いやぁ、錫多様がまいっているご様子なので、息抜きに水遊びの小舟でも出しましょうか、なんて話していたところでして」

 沙々が答えた。


「水遊び? もう日は暮れきっているではないか」

 と紫文は咎めるように言ったが、沙々は笑い飛ばした。

「嵐が蒸し暑さも連れ去りました。ちょうどいい夕涼みになりますよ」


               

 ぽとり。海面が震え、みるみる波紋が広がっていく。凪の水面に映る月影も揺れる。


 錫多が物憂げにカロの実を齧りながら、食べ滓を海へ投げ棄てていた。


「錫多様、嘔気はもうよろしいのですか」

 寧が尋ねた。錫多は答える代わりに、ふん、と偉そうに鼻を鳴らした。


「僕が水気を摂るように、カロをおすすめしたのです」

 と沙々が言った。むき出しの長い歯をかたかたと鳴らして何か言いたげな寧を横目で見て、錫多は笑った。

「船長もカロを食いたいようだの」

「わしは食えませんて」

 寧は気まずそうに言った。このヒビだらけの骸骨が、ミタリ神号の船長だ。


 頭巾から覗くどす黒い眼窩を見るともなしに見やり「不便なことだな」と紫文は思う。

 物を食えないとなると、どういう理屈で生きているのか不思議だが、それはいくら考えても紫文には理解の及ばないことだった。


 白銀の鈴夜は、死者の国である。

 ミタリ神号は鈴夜の船なので、錫多の護衛として同行している紫文と水先案内人の沙々、その他は、当然、皆かの地の者であった。


 船長のような骸骨が一般的な民の姿であり、彼らはただ「寧」と呼ばれる。

 揃いも揃って頭巾をかぶった暗くひっそりとした佇まい、それでいて、動く先には骨の軋む喧しい音がつきまとう。


 この交易船にも、お仕着せの真っ黒い上着をつけた大勢の寧が、船員や従者として乗り込んでいた。

 紫文が辛うじて判るのは船長の寧だけだ。

 いつまで経っても、他の骸骨達は見分けがつかない。


 錫多が紙袋を紫文へ回して、食べるように手ぶりで促した。

「では、遠慮なくいただこう」


 カロはホオズキに似た小粒の果実だ。マイカの出城を出立する際、たまたま傍を通りかかった行商人から沙々が買ってきた。


「故郷の双蜜という果物に似ていますけど、もっと瑞々しくてうまいです」

 と沙々は喜んでいた。


 紫文は特にうまいとも思わないが、沙々の言う通り、水気を摂るには良いものである。

 橙色の実を噛むと、皮が快く弾けて甘酸っぱい果汁が口中に溢れた。


 紫文が慌てて口許を押さえるのを見て、船長は羨むように「なんとも華やかな香りですな」と言った。


 数個で飽き飽きしてしまった紫文を横目に、錫多はその後もカロの実を黙々と口に運び、どこか呆けたような顔をして、じっくりと味わっていた。

  

「どうです、皆様、夜も更けてきました。そろそろ戻りましょうか」

 船長に代わって櫂を漕いでいた沙々が呼びかけた。


「沙々よ、そう急かすな。現し世の痩せた月と水の音を、も少し楽しませてほしい」

 錫多はのんびりと言い、月を見上げた。


 月は、舟の真上にあった。


「名残惜しいのでな」そう言い足した錫多の声は優しく、すっかり機嫌は直ったようだ。

 現し世、か。紫文は錫多の横顔を見つめた。


 錫多は普段、深い頭巾で豊かな白髪と青白い顔を覆い隠しているのだが、今は頭巾の前垂れを上げ、寄せた布地を金鎖で留めていた。

 それが王冠のように頭上でまばゆく輝いている。


「王などという概念は、我々の世では通用しませんけれども、錫多様は、天上の大御神様の眷属、冥界の主天といわれる白銀の鈴夜を司る三柱のお一人でもありますからね、まぁ大変なお方には違いありません」

 いつだったか、錫多の下男を務める寧が、誇らしげに語っていたのを、紫文は思い出した。


「なんだ、紫文。さっきからぼんやりと」

 錫多が訝しげな顔をしていた。

「いや、なに、そなたも名残惜しいなどと思うのだな、と意外でね」

「ふん。二年に一度とは待ち遠いものよ。このままマイカの出城に帰っ……」

「錫多様、冗談はよしてください」と船長が遮って「嵐なぞに遭わねば、今頃はとっくに国に着いていたものを」とぶつぶつ言った。


 確かにそうだ。

 予想外の悪天候で未だこんな所にいるが、明日船出して、南白風の勢いに乗れば、渦と呼ばれる断裂海溝を越え、この世の果てまでは、あっという間なのだ。


 空はいつしか桃色へと変わり、帆船を導くように真っ赤な海鳥がやかましく飛び交う。

 やがて「鈴夜の門番」ともいわれる濤の宮国の平たい島影が見えてきて、防人の漕ぐはしけが紫文と沙々を迎えに来るだろう。


 振り返って見れば、水平線の彼方には、紫の巨大な光の塊が鎮座していて、ミタリ神号は航跡も残さずそこへ吸い込まれていく。

 紫文にはもう見慣れた帰郷の一幕だった。


 その神々しい光の塊は、生命の終焉の灯と呼ばれている。鈴夜の界の入口が開く時だけ、こちらからも見えるのだ。


 紫文らも死ねば魂は鈴夜に召されるというが、辿り着いた多くの魂はすぐに昇天できるわけではなく、終焉の灯の中で「浄化」を待つと伝えられていた。

 寧となって白銀の鈴夜に留まれるのは、限られた魂だけらしいから、紫文には見分けのつかない船上の寧達も、鈴夜では選ばれし者であるのだ。


 肉体を喪った寧は哀れに思えるが、錫多のようになまじ不老不死の体を持つ人外も難儀だろう、と紫文は思う。

 どんな形であれ、永遠というものは苦しく辛いに違いない。


 錫多の美しい横顔から目を逸らし、紫文は暗い海に目をやった。

 

              

 

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