雪解けの春

伊阪 証

本編

作品の前にお知らせ


下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。

あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。


https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069


他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。

また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。

今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。


彼氏「・・・いや、炙り出しよりマシだからいいと思ったんすよ」



玄関の鍵穴に金属が噛み合う乾いた音が、冬の終わりの廊下に響いた。重たい鉄の扉を押し開けると、一日分の不在を溜め込んでいた冷気が、足元から身体へと纏わりついてくる。電気をつける前に、私は一度だけ深く息を吐いた。

肺の中の生温かい空気が、部屋の冷たさと混ざり合う一瞬の感覚だけが、私がここへ帰ってきたという唯一の証明のように思えた。

靴を脱ぎ、玄関の定位置に揃える。踵の擦り減ったパンプスは、私の疲労を映したように、くたりと横たわる。コートをハンガーにかける一連の動作は、もはや思考を介さない自動的な処理だった。

給湯器のスイッチを入れることも、手を洗うために洗面所へ向かうことも、すべてが滑らかなレールの上を走るように行われた。

鏡に映った自分の顔は、朝に作った表情のまま凝固しているようだった。ファンデーションは小鼻のあたりで浮き始め、アイラインは僅かに滲んでいるが、それを修復しようという気概は湧かない。ただ、蛇口から出る水の冷たさが、指先の感覚を鋭敏にさせることだけに意識を向ける。この指先の感覚こそが、これからの数分間、私にとって最も重要な器官になるからだ。

リビングに戻り、暖房をつける。送風口から吹き出す風が微かな埃の匂いを巻き上げるのを感じながら、私は部屋の隅にある低いチェストの前で足を止めた。フローリングの床に膝をつく。

膝頭に伝わる硬さと冷たさが、これから始まる時間の神聖さを無言のうちに告げている。

一番下の引き出し。取っ手に指を掛ける。木と木が擦れ合う低い音が、静寂の中に重々しく落ちた。中には雑多な書類や小物は入っていない。ただ一つ、角の塗装が剥げかけた菓子の空き缶だけが、広すぎる空間の中央に鎮座している。

私はそれを、壊れ物を扱う考古学者のような手つきで取り出した。缶の表面温度は室温と同じはずなのに、指先には奇妙な熱が伝わってくるような錯覚があった。

蓋を開ける。金属のこすれる音が、鼓膜の奥で小さく鳴った。

中にあるのは、一通の封筒だけだ。

かつては白かったはずのその紙は、今は湿気と手垢、そして十年という歳月の酸化によって、枯れたような茶褐色に変色している。封筒の四隅は幾度となく指に触れられたことで繊維が解け、真綿のように毛羽立っていた。それは紙というよりも、もっと別の、柔らかくて脆い布切れのように見えた。

私は息を止めたまま、その封筒を指先で摘まみ上げた。

軽い。

物理的な重さは数グラムにも満たないはずなのに、持ち上げる瞬間に感じるその質量は、私の記憶の重さと同義だった。封筒の表面には、かつて書かれた宛名の筆跡が残っているが、インクはとうの昔に紙の繊維に吸い込まれ、今では光の加減でようやく判別できる程度の染みになっている。

慎重に、極めて慎重に、中身を取り出す。

封筒の口は糊付けされておらず、ただ紙の弾力だけで閉じている。親指と人差し指を隙間に滑り込ませると、中の便箋が指の腹に触れた。その感触だけで、今日一日の仕事で強張っていた肩の力が、砂が崩れるように抜けていくのを感じた。

便箋を引き抜く。三つ折りにされたその紙は、折り目の部分が限界まで薄くなっていた。光にかざせば、その折り目から向こう側の景色が透けて見えそうなほどだ。これ以上強く開けば、その瞬間に千切れてしまうかもしれない。その危うさが、私に強烈な集中を強いる。

テーブルの上に直接置くことはしない。私は膝の上で両手を皿のように広げ、その上で便箋を展開した。

カサリ、と乾いた音がした。

現れた文字列。

私の視線は、最初の一行目から最後の一文字までを、滑るように辿っていく。読むのではない。そこにその文字が「在る」ことを確認する作業だ。内容はもう、脳の海馬に焼き付いている。句読点の位置、文字の跳ね、インクの濃淡まで、目を閉じても再現できる。

「・・・・・・」

声にはならない息が漏れる。

文字を目で追うたびに、胸の奥にある空洞が、冷たい何かで埋められていく感覚があった。それは癒やしに近いが、同時に傷口を冷水で洗うような鋭い痛みも孕んでいた。

この紙の感触。ザラついた繊維の凹凸。彼の指が触れ、彼のペンが走り、彼が息を吹きかけたかもしれない物質――。

十年。

三千六百五十日以上、私はこうして毎晩、この紙に触れてきた。

最初は涙で濡らさないように必死だった。次は、怒りで握りつぶさないように必死だった。そして今は、ただ物理的に崩壊させないように必死だ。

便箋の端、親指が当たる定位置は、手油で色が濃くなり、少しだけ透明化している。そこはもう紙としての強度を失い、薄い皮膜のようだ。私の指紋と、紙の繊維が完全に馴染んでしまっている。

この手紙は、私の身体の一部だ。

外出するときも、眠るときも、私の意識のどこかには常にこの紙の存在がある。これが無くなることは、私の臓器が一つ欠損することと同じ意味を持っていた。

視線を便箋の中央に戻す。

そこには、変わらない言葉が並んでいる。私を励まし、未来を願い、幸福を祈る言葉たち。かつてはそれが呪いのように見えたこともあった。私を置いていくくせに、勝手に幸せになれと命じる理不尽な命令書に見えた。けれど今は違う。これはただの「音」だ。彼が残した、音が聞こえない声だ。

読み終えるまでの時間は、おそらく一分にも満たない。しかし、その一分間だけ、私は「現在」から切り離される。時計の針が止まり、部屋の寒さも、明日の仕事の憂鬱も消え失せる。ただ、この脆い紙切れと私だけの閉じた回路が成立する。

ふぅ、と長く息を吐き、私は儀式の終わりを自分に告げた。

これ以上空気に晒していれば、湿気で紙が痛むかもしれない。そんな強迫的な懸念が頭をもたげてくる。

折り目に沿って、逆らわないように丁寧に畳む。元通りの三つ折りに戻った便箋は、まるで安堵したように小さくなった。封筒に戻す作業は、手術のように繊細に行う。角が引っかからないように、ゆっくりと、ゆっくりと滑り込ませる。

全てを缶に戻し、蓋を閉める。

金属音が再び響き、世界は遮断された。

引き出しを閉める。

ゴト、という音と共に、私は現実へと排出される。

部屋はまだ寒い。暖房の風はまだ足元まで届いていない。

私は立ち上がり、キッチンへと向かった。喉が渇いていることに、今更ながら気づいたからだ。冷蔵庫から水を取り出し、グラスに注ぐ。

コップの水面が揺れている。

それを眺めながら、私は自分の目元に手を触れた。

乾いている。

今日もまた、私は泣かなかった。

泣くべき感情はどこかにあるはずなのに、それはあまりにも深い場所に沈殿していて、汲み上げることができない。ただ、手紙を確認したという事実だけが、今日の私を支える唯一の背骨として、身体の中心に通っていた。

「・・・・・・さて」

誰に聞かせるわけでもなく呟き、私は水を飲み干した。冷たい液体が食道を落ちていく感覚が、空っぽの胃袋に染み渡る。

日常が続く。

この儀式がある限り、私はまだ大丈夫だ。そう自分に言い聞かせながら、私は夕食の支度を始めるために、冷蔵庫の扉にもう一度手を掛けた。

金曜日の夜。退勤の打刻音が、一週間の終わりと、これから始まるプライベートという名の別の戦場への合図だった。私はオフィスのビルを出て、冷たい空気が肌を刺す駅前広場へと歩みを進める。人混みが、週末の浮かれた熱気を孕んで渦を巻いていた。

約束の相手は、大学時代からの友人、サヤカだった。

もう半年近く会えていない。互いの仕事が忙しくなったことに加え、私が無意識に彼女のような順調に人生を進めている友人と会うことを避けていた節があった。

待ち合わせのカフェは、駅前のビルに入っているチェーン店だ。ガラス張りの店内は、外の喧騒とは裏腹に、暖色系の照明で満たされている。先に着いて窓際の席を確保し、コートを脱いだ。

バッグは通勤用のトートバッグのままだった。膝の上に置いたそれの側面を、指が癖のように撫でる。内ポケットの中、革のケースに守られた便箋の存在を確かめる。それだけで、これから始まる会話に対する漠然とした不安が、ほんの少しだけ和らぐ気がした。

「お待たせ! ごめん、電車一本乗り過ごしちゃって」

ガラスの向こうで手を振るサヤカが、息を弾ませながら入店してきた。コートを脱ぎながら私の向かいの席に滑り込む。

「ううん、私も今来たとこ」

「よかった。あー、外寒かったね! 全然会えなかったじゃん、元気してた?」

サヤカはそう言って、マフラーを解きながら屈託なく笑った。彼女の変わらない笑顔を見ると、この数ヶ月間の空白が嘘のように埋まっていく。緊張がほぐれ、純粋な嬉しさがこみ上げた。

「元気だよ。サヤカこそ、仕事忙しいって言ってたけど」

「そうなの、先月のプロジェクトが本当に地獄でさ・・・」

私たちは互いの近況を矢継ぎ早に報告し合った。彼女が注文したカフェラテが運ばれてくる頃には、空気はすっかり学生時代に戻ったかのように和んでいた。

ふと、彼女がカップを持ち上げる左手に、見慣れない光が反射したのに気づいた。

薬指。そこに収まった小さな石が、店内の照明を受けて鋭くきらめいている。

「あ・・・」

私が声を出すより早く、サヤカは自分の左手を見て、照れくさそうに頬を赤らめた。

「えへへ、気づいた?」

「それ・・・もしかして」

「うん。先週、プロポーズされちゃって」

サヤカはそう言うと、幸せを隠しきれないといった表情で指輪を私に向けた。「どう思う? ちょっと派手だったかなって思ったんだけど、彼が選んでくれたから」

「すごく、似合ってる。綺麗」

驚きと共に、胸の奥から温かいものが込み上げた。私は嘘偽りなく、そう言った。

「おめでとう、サヤカ。本当によかった」

「ありがとう。なんか、まだ実感なくてさ。でも、来年には式挙げようかって話してて。もちろん、スピーチお願いするからね」

「気が早いよ」

そう言って笑い合う。彼女の幸せは、私の幸せでもあった。少なくとも、頭ではそう理解していた。私たちは学生時代、互いの恋愛相談をし、将来の夢を語り合ってきたのだ。彼女が次のステージに進むことは、当然の祝福すべき出来事だった。

一頻り、彼の話、プロポーズのシチュエーション、両親への挨拶のドタバタなどを聞いた後、サヤカはふと真面目な顔に戻り、私の手元に視線を落とした。

「・・・あなたは、どう?」

「どう、って?」

「いや、その・・・最近、いい人とか、いないのかなって」

それは、この流れで当然出てくる質問だった。ミキに聞かれるのとは訳が違う。サヤカは、私が十年間、どこで立ち止まっているのかを知っていた。

私は曖昧に首を横に振った。

「今は、仕事が楽しいから」

「そっか」

サヤカはそれ以上追及せず、カップに残ったラテを一口飲んだ。沈黙が数秒、テーブルの上に落ちる。駅前の雑踏の低いノイズが、急に耳についた。

「ねえ」

サヤカが、慎重に言葉を選ぶように切り出した。

「私、ずっと言おうか迷ってたんだけど・・・。もう、あれから十年、だよね」

その言葉が、私の耳の奥で反響した。

十年。

ミキが言う「彼氏がいない期間」とは全く違う、重さと手触りのある時間。サヤカは、彼がいた時間を、そして彼がいなくなった瞬間を、私と同じように記憶している数少ない友人だった。

「うん。そう、だね。早いね」

私は、膝の上でバッグの持ち手を握りしめた。内ポケットの中の、革の感触を確かめる。

「あのね」とサヤカが続けた。「怒らないで聞いてほしいんだけど。私、あなたがずっと心配だったの。あの日から、あなたの時間が止まっちゃってるみたいで」

「・・・・・・」

「もちろん、彼のことは私だって忘れてないよ。すごくいい人だったし、二人がお似合いだったのも知ってる。でも、もう十年経ったんだよ。そろそろ、あなたがあなた自身の幸せを見つけても、誰も怒らないと思うんだ」

彼女の言葉は、一言一句が正論だった。善意と、私への純粋な心配から発せられていることも痛いほど分かる。彼女は悪くない。彼女が言っていることは、この世で最も正しいことの一つだ。

「ありがとう、サヤカ。心配してくれて」

私は精一杯の笑顔を作った。

「分かってる。頭では、ちゃんと分かってるんだ。前に進まなきゃいけないってことも、サヤカが応援してくれてることも」

「じゃあ・・・」

「でも、まだ、ちょっと時間がかかるみたい」

そう言うと、私は自嘲気味に笑ってみせた。「ごめん、せっかくのおめでたい話の後に。こんなんじゃ、スピーチも暗くなっちゃうね」

「そんなことないよ!」

サヤカは慌てて手を振った。「ごめん、私こそ。お祝いムードに浮かれて、変なこと言っちゃった」

「ううん、言ってくれて嬉しかった。本当に」

私たちはぎこちなく笑い合い、別の話題――新しくできた店の話や、学生時代の共通の友人の噂話――に切り替えた。

カフェを出る頃には、外はすっかり暗くなり、冷え込みが厳しくなっていた。

「じゃあ、また連絡するね。次は式場選び、付き合ってよ!」

「もちろん」

駅の改札でサヤカと別れ、私は一人、反対方向のホームへと向かう。さっきまでの楽しかった時間は本物だ。彼女の幸せを祝う気持ちも本物だった。

けれど、胸の底には、細かいガラスの破片が撒かれたような、ざらついた感触が残っている。

「あれから十年」

その言葉が、凍ったホームの空気に溶けていく。

頭では理解している。

誰も私を責めていないことも、前に進むべきだということも。

ただ、心が追いつかない。

電車が滑り込んでくる。ドアが開く。私は無表情でそれに乗り込みながら、コートのポケットの中で、バッグの内ポケットがあるあたりを、強く握りしめていた。

サヤカと別れた改札の喧騒は、まるで分厚いガラス一枚を隔てた向こう側のように遠く、非現実的な響きを伴った。彼女の左薬指で光っていたあの小さな石の輝きが、私の網膜に焼き付いていた。幸せそうに頬を染める顔。私を案じる、誠実な瞳。

「もう十年」

その言葉が、耳の奥で冷たい重りとなって沈んでいた。

私はコートの襟を立て、吐く息が白くなる夜道へと足を踏み出す。駅前のロータリーを抜けると、人通りは急速にまばらになり、古い住宅街を貫く一本道に出た。等間隔に並ぶ街灯だけが、頼りない光でアスファルトを濡らしている。

サヤカの言うことは、何もかもが正しかった。

祝福する気持ちに嘘はない。彼女には本当に幸せになってほしい。けれど、その祝福の言葉が、鏡のように私自身の停滞を映し出す。頭では、痛いほど理解していた。前に進むべきだということも、彼もそれを望んでいるだろうということも。

だが、頭で理解することと、心がそれを実行することは、まったく別の問題だった。

私は、無意識にコートのポケットに手を入れた。指先に触れるのは、冷え切った鍵束の金属的な感触だけだった。違う。私が求めている感触はそこではない。

左手が、コートのポケットから滑り出た。そして、肩にかけたトートバッグの側面へと吸い寄せられる。

指の腹が、バッグの厚い布地越しに、内ポケットのあたりを探る。

いつもの場所。

ゴツリ、とした硬い感触。革製のカードケースの輪郭だ。

その存在を確かめた瞬間、ささくれ立っていた神経がほんのわずかに鎮まる。大丈夫だ。ここにある。私の心臓は、まだここにある。

私は歩きながら、何度も何度も、その輪郭をなぞった。電車の中でやっていたのと同じ行為。だが、今夜はそれだけでは足りなかった。

サヤカの言葉が、私の日常という名の薄い氷に、小さなヒビを入れたようだった。いつもの儀式では埋められない、新しい不安が足元から這い上がってくる。

「あれから十年」

この手紙も、十年。

私はふと、足を止めた。

一つの街灯の、真下。世界から切り取られた舞台のように、そこだけが白々しく照らされている。

何故、こんなことをしようと思ったのだろう。

衝動的に、私はバッグを胸の前に抱え、内ポケットのファスナーに手をかけた。ジ、という乾いた音が、冬の夜の静寂を切り裂く。指先が、布地の奥にある革のケースを摘み出す。

冷たい。

外気に晒されたケースは、私の体温よりもずっと低く、まるで石のようだった。

八年、いや、九年近く使っているだろうか。封筒が本格的に崩壊し始めた頃、それを守るためだけに買った、頑丈さが取り柄のケースだ。

暗い茶色の革は、手油で磨かれて鈍い光沢を放っている。

私はそれを、両手で包み込むように持ち、街灯の光にかざした。

「・・・・・・あ」

声にならない息が漏れた。

いつも見ているはずの、見慣れたケース。

その、角。

親指がいつも触れる、その場所。

革の表面が、乾燥した泥のように細かくひび割れていた。

それは傷ではなかった。摩擦でもない。長すぎる時間によって、革に含まれていた油分が抜けきり、繊維そのものが硬化して、自らの弾力に耐えられなくなっている。

死んだ皮膚のようだった。

私は恐る恐る、爪の先で、その一番ひどい亀裂をなぞってみた。

パリ、と。

鼓膜が捉えたのか、それとも指先が振動として感じ取っただけなのか。

乾いた音と共に、一ミリにも満たない革の破片が、私の爪の先に引っかかった。そして、次の瞬間には重力に従って、アスファルトの闇へと吸い込まれて消えた。

心臓が、足元に落ちたような感覚に襲われた。

これは、ただのケースだ。

中身は、ビニールで保護してある。大丈夫。手紙そのものが傷ついたわけではない。

分かっている。頭では、分かっている。

けれど、このケースは、私にとっての「鎧」だった。手紙を守るための最後の砦であり、この十年、手紙と私を繋ぎとめてきた唯一の物理的な「絆」だった。

その鎧が、今、私の目の前で、内側から崩壊を始めている。

「壊れる」

その一言が、明確な形を持って胸に突き刺さった。

この手紙は、物理的な限界を迎えようとしている。私がどれだけ大切に儀式を繰り返そうと、時間は確実にこの紙を風化させ、塵に返そうとしていた。

その事実が、たまらなく恐ろしかった。

ふと、視界の端に、通りの向かいにあるゴミ集積所のネットが映った。夜の闇が、そこだけ深く口を開けている。

もし。

もし、今。

この壊れかけたケースを、中身ごと、あの闇に向かって投げ入れたら?

力任せに放り投げたら、私は明日から、どうなるのだろう。

サヤカが言うように、「前を向ける」のだろうか。新しい指輪を受け入れ、新しい人生を始められるのだろうか。

それとも。

この手紙という名の心臓を失った私は、ただの抜け殻になって、息の仕方も忘れてしまうのだろうか。

「捨てたい」

その衝動が、一瞬、確かに胸をよぎった。この重さから解放されたい。十年という呪縛から、自由になりたい。

「捨てられない」

だが、その衝動を、何倍もの力で押さえつける恐怖があった。これを失ったら、私は私でなくなる。彼が生きていたという最後の証拠まで、私が消してしまうことになる。

「・・・・・・っ」

私は歯を食いしばり、壊れかけたケースを、まるで熱い鉄を掴むかのように乱暴にバッグの内ポケットへと押し込んだ。

ファスナーが、布に噛みそうになりながらも、無理やり引き上げる。

ジッパーが閉まる音と共に、私は現実から目をそらした。

見なかった。

ヒビなんか、入っていない。

革はまだ大丈夫だ。私の気のせいだ。

サヤカに会って、少し動揺しているだけだ。

私は自分にそう強く言い聞かせた。さっきまで感じていたサヤカへの申し訳なさや、自分の停滞への焦燥感は、今やもっと具体的で、物理的な「不安」に塗り替えられていた。

「壊れそう」

その事実が、背後から追いかけてくる。

私は早足になった。ほとんど小走りに近い速度で、冷たい夜道を自宅へと急ぐ。

街灯の光が、私の背中を追い立てるように、次々と後ろへ流れ去っていった。

十年前の冬。世界は今よりもずっと鮮やかで、そして残酷なほどに無頓着だった。

大学の講義を終えた足でそのまま向かう病院。それが私の日常の最終地点だった。外は雪が降るか降らないかの瀬戸際で、空は厚い雲に覆われている。けれど、病院の中はいつも、季節感のない均一な温度と光で満たされていた。

リノリウムの床が、スニーカーの底でキュッと鳴った。

「こんにちは」

ナースステーションの前を通り過ぎる私に、見慣れた看護師が声をかける。私も会釈で返す。もう、ここでは顔パスだった。

彼の病室は、三階の一番奥。個室ではない、四人部屋の窓際。

そこが、彼の定位置だった。

カーテンを引いて中に入る。その動作さえ、もう何度繰り返したか分からない。

「来たよ」

「ん。今いいとこ」

彼はベッドのリクライニングを少しだけ起こし、膝の上でスケッチブックのような、分厚いノートを広げていた。彼はいつも、何かを書き続けていた。

「またそれ? 卒論?」

私が冗談めかして言うと、彼は顔を上げずに口の端だけで笑った。

「こっちが本業。大学のが副業」

「はいはい」

私は彼のベッドの脇に、パイプ椅子を引き寄せる。ガタン、と無骨な音が響く。持ってきたコンビニの袋をサイドテーブルに置くと、彼はようやくノートから顔を上げた。

肌の色は、健康な人間が持つ赤みを失い、室内の蛍光灯を反射して青白く見えた。それでも、細められた目には、私だけが知っている悪戯っぽい光が宿っている。

「今日は何買ってきたの。どうせまた、俺の嫌いな炭酸飲料だろ」

「失礼な。ちゃんと温かいお茶。あと、雑誌。あんたが好きそうな、変なパズル雑誌」

「お、分かってる」

彼はそう言って手を伸ばした。その腕が、病衣の袖から覗く。点滴の針が刺さっていた痕が、いくつも薄いシミになって手首に残っていた。私はそれを見ないふりをした。

「調子、どう」

「平行線。良くもならず、悪くもならず。退屈なのが一番の病気だ」

「ふうん。じゃあ、早く退屈じゃなくならないとね。来週のゼミの飲み会、どうせまた来ないんでしょって先輩が拗ねてたよ」

「俺のせいにするなよ。ちゃんと『来週までには退院する予定』って言っといて」

「はいはい」

私はまた同じ返事をした。

これが、私たちの日常だった。彼の持病が悪化して入院が始まってから、もう三ヶ月が過ぎていた。最初は毎日泣きそうになっていた私も、この「変わらない」やり取りに、どこか麻痺し、同時に安心していた。

彼は退院する。来週かもしれないし、来月かもしれないけれど、必ず戻ってくる。

私は、そう信じて疑わなかった。「死」という可能性が、彼のすぐ隣に横たわっていることなど、認めたくもなかった。

「あ、そうだ」

彼が、何かを思い出したようにノートを閉じた。

「ちょっと、実験に付き合ってくれない?」

「実験? やだよ、変なことなんでしょ」

「違うって。簡単な心理テストみたいなもん。いいから、ちょっと目閉じて」

私は訝しみながらも、言われた通りに目を閉じた。彼がこういう突拍子もないことを言い出すのは、今に始まったことではない。

「で、今、俺が何してると思う?」

「さあ。ノートに私の悪口でも書いてるんじゃないの」

「ブブー。はい、もういいよ」

目を開けると、彼はニヤニヤしながら、閉じたノートを私に差し出してきた。

「何?」

「ここに、サイン。いや、サインじゃなくていいや。今、一番書きたい文字、一文字だけ書いて」

「は? 何それ」

「いいから。後で、すっごいことが分かるから」

彼のこういう「仕掛け」は、いつもそうだ。未来を見越したような言い方をする。後で答えが分かるパズルを、日常にばら撒く。

私は彼からペンを受け取ると、ノートの表紙の隅に、小さく一文字を書き込んだ。

「・・・・・・できたけど。で、答えは?」

「答えは、まだ。これは仕込み」

彼は満足そうに頷くと、ノートを私からひったくり、すぐに枕の下に隠した。

「なんなのよ、もう」

「まあまあ。それより、来週末、空けといて」

「来週末? どうせここに来るけど」

「いや、そうじゃなくて。ちゃんと『お出かけ』するつもりで空けといて。場所はまだ秘密」

彼は、本当に退院するつもりでいるのだと、私は思った。医者は「現状維持が目標」としか言わなかったけれど、彼自身がこんなに前向きなのだ。大丈夫、きっと大丈夫だ。

「分かったよ。じゃあ、ちゃんと治さないと。パズル雑誌ばっかりやってないで、寝てないと」

「はいはい」

彼は私のセリフをそっくりそのまま真似して笑った。

その時の私は、気づいていなかった。

彼が仕込みと言ったノートが、何を意味するのか。

彼が来週末と言ったその日付に、どんな意味が込められていたのか。

そして、彼が仕掛けるこの手の「未来へのパズル」こそが、彼が自分の残り時間を冷静に見つめている証拠だったということに。

私はただ、彼が口にする未来という言葉だけを、無邪気に信じていた。

「じゃあ、また明日ね」

面会時間が終わり、私はパイプ椅子を元の場所に戻した。

「うん。また明日」

彼は、ベッドの上からひらひらと手を振った。その顔は、いつも通りの、穏やかで、少し退屈そうな顔をしていた。

あの時点から、彼の中では終わりの準備が始まっていたのだと、観客席からこの光景を見ている今の私だけが知っていた。

あの「仕込み」の約束から、数日後だった。

「来週末」は、まだ来ていなかった。

けれど、病院の空気は、私が知っているプライベートのそれとは決定的に異なっていた。

ナースステーションは慌ただしく、看護師たちの声はいつもより低く、早口だった。私に会釈を返す余裕も、彼女たちにはないように見えた。

リノリウムの床が、やけに冷たく、硬く感じられる。

三階の奥。

四人部屋の、彼の場所。

カーテンは、半分だけ開けられていた。それが何を意味するのか、私はまだ正確に理解できていなかった。ただ、心臓が普段よりもずっと重たい鉄の塊になって、胃のあたりに沈んでいる感覚だけがあった。

「・・・・・・来たよ」

私は、いつもと同じ声を出そうと努力した。

ベッドのリクライニングは、あの日よりも深く倒されている。彼は天井を見ていた。ゆっくりと、その視線が私を捉える。

青白かった肌は、土の色に近い、くすんだ黄色を帯びていた。呼吸が浅く、早い。あの日、ノートに何かを書きつけていた腕には、今、いくつもの管が繋がれている。

あの日まで私を麻痺させていた平行線という幻想は、音を立てて砕け散った。

「・・・おう」

彼がかろうじて発した声は、ひどく掠れて、紙が擦れるような声だった。

私はパイプ椅子を引き寄せる。その無機質な金属音が、部屋に響く電子音の規則的なリズムに混ざる。

「・・・先輩、また拗ねてたよ。今度の飲み会も、どうせ来ないだろって」

私は、自分でも驚くほど「普通」の声を絞り出した。今、ここで泣いてしまったら、全てが終わってしまう。私が泣くことは、彼に「もう終わりだ」と宣告することと同じだ。それだけは、絶対にできなかった。

「・・・そりゃ、残念。・・・会いたかったな、みんなに」

彼は、ゆっくりと瞬きをした。その動きさえ、億劫そうに見える。

「大丈夫。すぐ退院できるよ。来週末、お出かけするんでしょ」

私の声は、震えていなかっただろうか。奥歯を強く噛みしめる。喉の奥が、熱い砂で焼けるように痛んだ。

彼は、私の言葉に答えなかった。

ただ、静かに私を見つめ、それから、ふ、と息だけで笑ったようだった。

「なあ」

「・・・なに」

「この前、書かせた文字・・・覚えてるか」

「え・・・? ああ、あのノートの」

唐突な問いかけに、私は虚を突かれた。

「あれ、やっと完成した。いいパズルができたよ」

「パズル・・・」

「君が・・・泣き虫なのは知ってたけど・・・案外、泣かないんだな」

「・・・・・・っ」

その言葉に、胸を内側から鷲掴みにされた。違う。泣き虫だから、泣けない。今、この涙の堰を切ってしまったら、私は私でなくなってしまう。彼が「終わり」になってしまう。その恐怖が、私の全身を硬直させていた。

「泣かないで、どうするの」

「泣かないよ。泣くわけない。だって、あんた、退院するんでしょ」

私は、睨みつけるように彼を見た。目に溜まりそうになる熱い液体を、強い瞬きで奥へと押し戻す。まぶたの裏が痛い。

彼は、そんな私を見て、また静かに目を細めた。

「そうか。・・・なら、いい」

彼は、繋がれた管が鬱陶しそうに、僅かに指先を動かした。

「あのさ。もし、・・・いや、いいや。そのうち、俺から何か届くと思う」

「届く?」

「うん。・・・すぐにじゃない。・・・君が、忘れた頃になるかも」

「なにそれ。また、あの時みたいな『仕込み』?」

「・・・そんなとこ」

彼は、少しだけ楽しそうに言った。自分の死がすぐそこにあるというのに、彼はそれを冷静に受け止めて、なお、私にパズルを仕掛けようとしている。

私だけが、必死で「終わり」に抵抗していた。

「変なことしないでよ。自分で、直接渡しに来てよ」

「・・・努力は、する」

彼はそう言って、ゆっくりと目を閉じた。

「ちょっと、疲れた。・・・少し、寝る」

「うん」

「・・・・・・泣くなよ」

「泣いてないってば」

私は、最後までそう言い張った。

彼の寝息が、浅く、不規則なリズムで聞こえ始める。

私は、パイプ椅子の上で、固まったまま動けなかった。

爪が食い込むほど握りしめた手のひらは、汗もかいていない。ただ、氷のように冷え切っていた。

ここで泣いてはいけない。

ここで泣いたら、彼との約束が、全部嘘になる。

彼が「死ぬ」という事実を、私が認めることになる。

私は、ただその一点の恐怖によって、感情という感情をすべて、胸の奥の硬い箱に閉じ込めて鍵をかけた。

これが、私の「泣けなかった」始まり。

彼が最期に託そうとした言葉の意味も、彼が「届く」と言ったものの正体も、この時の私には理解できなかった。ただ、泣いてはいけないという強迫観念だけが、私を支配していた。

空は、重たい雲が何日も居座り続け、まるで世界から色を奪ってしまったかのようだった。

あわただしい数日間が終わった。

葬儀。火葬。鳴り続ける電話。入れ替わり立ち替わり訪れる、見知った顔や、知らない親戚たちの顔。そのすべてが、分厚いすりガラス越しに見る景色のようで、私には何の現実感もなかった。

「お疲れが出ませんように」

「気をしっかり持ってね」

「何かあったら、いつでも言うのよ」

人々が私にかける言葉は、どれもカセットテープから再生されたように同じ響きを持っていた。私はそのたびに、適切だと思われる表情を作り、適切な角度で頭を下げた。

感情は、どこかに置き忘れてきたようだった。

あの病室で、「泣くな」と言われた瞬間に、私は胸の奥の硬い箱に鍵をかけて、その鍵をどこか遠くへ投げ捨ててしまったらしかった。

大学にも行かず、ただ部屋に引きこもったあの日。

ピンポン、と。

静寂に慣れきった耳に、その電子音は暴力的なほど大きく響いた。

身体が、驚きで跳ねる。

宅配便だろうか。サヤカが、心配して何か送ってきたのかもしれない。

私は重たい身体を引きずるように玄関へ向かい、ドアを開けた。

誰もいない。

ただ、郵便受けの冷たい鉄のフタが開けられ、そこから一通の封筒が半分だけ、はみ出していた。

「・・・・・・」

見慣れない封筒だった。

いや、違う。

見慣れた、筆跡だった。

それは、彼が入院中に使っていた、病院の売店で売っているような、飾り気のない茶封筒。

宛名。

私の名前。

それは、病室でノートに何かを書きつけていた時と同じ、少し右肩上がりの、彼独特の文字だった。

心臓が、冷たい手で握り潰されたように収縮した。

「あ・・・」

声にならない息が漏れる。

指先が、震えていることに気づいた。

あの時、彼が言っていた。

「そのうち、俺から何か届くと思う」

これが、それだ。

私は、まるで猛毒に触れるかのように、震える指でその封筒を摘み上げた。

軽い。

けれど、その紙切れが持つ意味の重さが、私をその場に縫い付けた。

部屋に戻り、鍵をかける。

コートも脱がず、玄関のたたきに座り込んでしまった。

封筒の裏側を見る。封は、事務的なセロハンテープで無造作に留められていた。病院の事務室か、あるいは彼が誰かに頼んだのか。

私は、鍵でテープの端を切り、震える指で封を開けた。

中から、便箋が数枚、滑り出てきた。

彼が使っていたのと同じ、大学のロゴが入ったレポート用紙だ。

そこには、見慣れた青いインクで、びっしりと文字が埋められていた。

一行目。

「これを君が読んでるってことは、俺は、どうやら『来週末のお出かけ』に間に合わなかったみたいだ」

その、あまりにも彼らしい、ふざけた書き出し。

その瞬間に、あの病室で鍵をかけた箱が、内側から激しく揺さぶられる感覚があった。涙が、来る。

そう思った。

けれど、それは一瞬のことで、私の目からは何も流れ出なかった。

私は、食い入るように文字を追った。

そこには、感謝が書かれていた。

私と出会えて幸せだったこと。

病室で、私が毎日「普通」に接してくれたことが、どれだけ救いだったか。

私が、彼を「病人」ではなく「彼氏」として扱い続けてくれたこと。

それから、励まし。

私には、幸せになってほしい、と書かれていた。

俺のせいで立ち止まらないでほしい。

君の人生は、これからなんだから。

たくさん笑って、たくさん恋をして、たくさん生きてほしい。

それは、完璧な「遺書」であり、私に向けられた、最期の「ラブレター」だった。

優しさに満ちた、あまりにも彼らしい、どこまでも正しい言葉たち。

「・・・・・・っ」

読み終えた私は、便箋を膝の上に落とした。

何も、感じなかった。

頭では理解できる。彼がどれほどの想いを込めて、これを書いたのか。これが、彼が私に託した最期の「声」なのだと。

それなのに。

私の心は、凍結した湖面のように静まり返り、何の波紋も描かない。

涙は、一滴も出なかった。

あの最期の病室でさえこらえたのだ。今、この紙切れを読んで泣くなど、彼への裏切りのようにさえ思えた。

いや、違う。

本当は、泣きたかった。

この優しい言葉に呼応して、彼を失った悲しみに、身を任せて号泣したかった。

なのに、どうして。

私は、便箋を拾い上げた。

もう一度、最初から読み返した。

一行、一行、彼の筆跡をなぞる。彼の声を、脳内で再生しようと試みる。

「ありがとう」

「幸せだった」

「君に、幸せになってほしい」

その言葉が、私の中に入ってこない。まるで、私の心の表面に、目に見えない分厚い壁ができてしまったかのように、彼の言葉は虚しく反響するだけだった。

三回読んだ。

四回読んだ。

日が傾き、玄関のたたきが冷え切って、足の感覚がなくなっても、私は読むのをやめなかった。

泣けない。

どうして、私は泣けないんだ。

彼は死んだのだ。

もう二度と会えない。

こんなにも優しい手紙を遺してくれた。

それなのに、私は。

ここで泣けない私は、本当に彼を愛していたのだろうか。

冷たい人間なんじゃないだろうか。

悲しくないのだろうか。

違う。

悲しいはずだ。

胸はこんなに痛い。息が苦しい。

けれど、涙だけが出ない。

この手紙は、彼が私に「泣いていい」と差し出してくれた許しだったのかもしれない。

それすら、私は受け取れない。

その事実に、初めて、別の種類の感情が湧き上がってきた。

それは、悲しみではなかった。

絶望に近い焦燥感。

そして。

「泣けない自分」に対する、強烈な自己嫌悪だった。

そうして、私は、その日から、この手紙を何度も読み返すようになった。いつか、この手紙の言葉が、私の涙腺の鍵を壊してくれるかもしれないと信じて。

それが、十年にわたる新たな日常生活の始まりだった。

長い回想の海から、意識が浮上した。

目の前にあるのは、湯気が立つパスタの皿。十年前にはなかった、スマートフォンの決済アプリの広告が立てられたテーブル。

そして、私を心配そうに見つめる、友人の顔。

「――でね、結局、式場は来月の頭に下見に行くことになったの。あなたも、もし都合合えば、ドレス選びとか付き合ってくれない?」

「うん。もちろん」

サヤカとの再会は、あの婚約指輪を見せてもらったカフェから、三週間ほどが経った週末のランチだった。場所は、駅ビルのカジュアルなイタリアン。窓から差し込む光は、冬のそれよりもいくらか力を増し、春が近いことを告げていた。

けれど、私の部屋の空気は、まだ冬のままだった。

あの夜に見た、あの革のケースの亀裂。あれ以来、私は怖くて、あのケースをまともに見ることができなくなっていた。毎朝、バッグの内ポケットに入れる瞬間だけ、指先がその「死んだ皮膚」のような感触に触れ、私はそのたびに小さく怯える。

「でも、本当に大変。決めること多すぎ。彼は『どれでも可愛いよ』しか言わないし」

サヤカはそう言いながら、楽しそうに不満をこぼす。私は『男の人って、そういうものかもね』と、当たり障りのない相槌を打った。あの時のような、胸がざらつく感覚はもうない。彼女の幸せを、今は素直に聞くことができる。

問題は、彼女ではなく、私にあるのだ。

「あ、ごめん。ちょっと口直しに水飲む」

私がパスタの皿を少し脇に寄せ、膝の上のトートバッグに手を伸ばした。

ハンカチを取り出そうと、バッグの中を探る。内ポケットのファスナーは、開いていた。昨夜、帰宅した時に閉め忘れたのかもしれない。

「・・・・・・?」

サヤカが、不意に会話を止め、私の手元をじっと見つめていることに気づいた。

「どうしたの?」

「ううん・・・。いや、なんでもない」

サヤカは一度はそう言ったが、その視線は明らかに、私のバッグの内ポケットのあたりに注がれていた。

そこには、あの、革のケースが半分ほど顔を覗かせている。

街灯の下で見た、あの亀裂の入った角が、サヤカの目に晒されている。

「・・・・・・!」

私は、熱湯に触れたかのように素早く手を動かし、ハンカチでそれを隠すようにしながらバッグの口を閉じた。心臓が、警告のようにドクンと大きく跳ねた。

「ねえ」

サヤカの声のトーンが、さっきまでの明るいものから、一段階低いものに変わっていた。

「それ、もしかして、まだ持ってるの」

その質問が、何を指しているのか、私にはすぐに分かった。

彼女は、覚えていたのだ。私が、十年前、彼からの手紙を受け取った後、それを守るために革のケースに入れて持ち歩き始めたことを。あの頃、サヤカは唯一、私のその行為を止めなかった友人だったから。

「・・・ただの、古いケースだよ」

「嘘」

サヤカの、短く、鋭い否定。

「さっき見えた。角が、もうボロボロだった。革が、ひび割れてた」

「・・・・・・」

私は、フォークを握りしめたまま俯いた。反論の言葉が出てこない。

「お願いだから、正直に言って。まだ、持ち歩いてるの? あの手紙」

観念して、小さく頷く。

サヤカは、深い、深い溜息を吐いた。それは怒りではなく、絶望に近い疲労の色だった。

「あなた、自分が何してるか分かってる? それ、もうお守りとかじゃないよ。執着だよ。それも、すごく危ない」

「・・・・・・」

「だって、あんな・・・。あんなボロボロになるまで、十年も、毎日、肌身離さず持ってるってことでしょ? それがどれだけ異常か、自分で気づいてないの?」

サヤカの言葉は、あの時よりもずっと率直で、容赦がなかった。彼女は、私の停滞を本気で心配している。彼女の目には、今の私が、あの手紙という名の物体に、魂を吸い取られているように映っているのだろう。

「あんな状態じゃ、もう、中の手紙だって無事じゃないかもしれないよ。湿気とか、摩擦とかで。あなたは、それを『守ってる』つもりかもしれないけど、本当は毎日『殺してる』のと同じじゃないの?」

その指摘は、あの夜に私が感じた恐怖の、まさに核心だった。

「壊れる」

私が一番恐れていた、その可能性。

守りたいはずなのに、私の執着が、私の新たな日常生活が、彼が遺した唯一の物質を、確実に摩耗させている。

「ごめん、言い過ぎた」

サヤカが、私の沈黙を見て、慌てて付け加えた。「でも、私は、本当に心配で・・・。あなたが、あんなボロボロの物に縛り付けられてるのが、見てられないのよ」

「・・・・・・ありがとう」

私は、かろうじてそれだけを声にした。

「サヤカが、心配してくれてるのは、分かってる」

「じゃあ・・・」

「でも、これだけは、捨てられない。これがないと、私は・・・」

私は、どうなるんだろう。

そう言いかけて、口をつぐんだ。

サヤカの言う通りかもしれない。

このままでは、いけないのかもしれない。

手紙が物理的に壊れるのが先か、それとも私の心が、この執着の重さに耐えきれなくなるのが先か。

そのどちらもが、すぐそこまで迫っている。

私は、答えの出ないまま、冷めていくパスタをただ見つめた。

サヤカの「ボロボロ」という客観的な指摘が、私の中に、これまでにはなかった微弱な、しかし確実な「このままではいけない」という自覚のさざ波を立てていた。

世界は水の膜に覆われた。

朝、目覚めた瞬間から、耳に張り付いていたのは雨音だった。冬の終わりから春先に特有の、冷たい雨。それは窓ガラスを断続的に叩き、低い唸り声のように部屋の隅々にまで染み渡っている。換気扇のダクトを通して、湿り気を帯びた外気の匂いまでが、室内に侵入してきた。

ベッドから這い出した身体は、鉛のように重い。

今日はサヤカと会う約束の日だ。

あのイタリアンでの一件以来、私たちは直接会うのを、まるで示し合わせたかのように避けていた。『ボロボロ』。彼女が突きつけたその事実は、私と彼女の間に、目に見えないが確実な壁を作っていた。

『ごめん、こないだは強く言い過ぎた。でも、やっぱり心配だから』

メッセージを送ってきたのは、サヤカの方だった。『お茶だけ、軽く。話聞くだけだから』。その文面からは、彼女の不器用な優しさと、私を「停滞」から引きずり出そうとする焦りのようなものが滲んでいた。私は、その誘いを断ることができなかった。

億劫だった。

外に出ることそのものが、ひどく億劫だった。

この重たい雨の中を、わざわざ駅まで歩き、電車に乗る。ただそれだけの行為が、今は途方もない苦行のように感じられる。

それでも、私は機械的に身支度を始めた。

化粧を施し、「普通の顔」を作る。クローゼットからコートを羽織り、そして、いつものトートバッグを手に取った。

肩にかける。その重みが、日常の重みだ。

内ポケット。

指先が、ファスナーの金属に触れる。

ジ、と開ける。

指が、革のケースの感触を探る。

その瞬間、全身の血が逆流するような恐怖が、背筋を走った。

「雨」

この、圧倒的な湿度。

あの夜に自覚した、あの亀裂。サヤカに指摘された「ボロボロ」の角。

革は、もう水を弾かないだろう。乾燥し、ひび割れたそれは、スポンジのように今日の湿気を吸い込むかもしれない。

私は強迫観念に突き動かされるように、バッグの中身を漁った。旅行用に常備していた、ファスナー付きの厚手のビニールポーチ。

これだ。

私は、革のケースを、そのビニールポーチの中に押し込んだ。指先に、あの硬化した亀裂の感触が擦れる。ぞわりと肌が粟立った。ファスナーを、防水性を確認するように、端から端まで指でなぞりながら、強く閉じた。

二重の防衛。

まず、手紙そのものは薄いビニールシートで挟んである。それを、革のケースが守っている。そして、そのケースごと、今、このビニールポーチに入れた。

これなら大丈夫。

私は自分にそう言い聞かせ、ビニールポーチごと、トートバッグの内ポケットへと戻した。普段よりも膨らんだポケットの感触が、異物のように指に伝わる。

大丈夫。

私は深呼吸を一つして、玄関の扉に手をかけた。

傘を叩きつける雨粒の音は、想像以上に暴力的だった。

駅までの短い距離。それなのに、足元はすでに最悪だった。パンプスのつま先は、数分で雨水に浸食され、靴下の先に冷たい感覚が広がり始めている。

歩道には、無数の水たまりが罠のように口を開けていた。

私はそれを避けようと、俯きがちに歩く。

すれ違う人々は皆、傘という狭いテリトリーの中に閉じこもり、一様に無表情で足早に過ぎ去った。

世界から色が消え、音だけが際立っている。

車のタイヤが水を跳ね上げる音。風にあおられた傘が立てる悲鳴。そして、私の靴が水たまりを踏み抜く、絶望的な音。

駅のホームにたどり着いた時、私はコートの裾が重くなっていることに気づいた。

電車に乗り込む。暖房の生暖かい空気が、濡れた服の匂いをむわりと立ち上らせた。

バッグは、膝の上で固く抱きしめている。ビニールポーチに入れた、あの感触。布越しに、その硬さが伝わった。

「いつものように」持ち歩いている。

その事実に、今日は安堵よりも、言いようのない不安が付きまとっていた。

待ち合わせのカフェは、駅ビルの三階にあった。ガラス張りの店内は、外の鉛色の世界とは裏腹に、暖色系の照明とコーヒーの匂いで満たされている。

先に着いていたサヤカが、窓際で私を見つけ、大げさなほどに手を振った。

「うわ、すごい雨だったね! 来てくれてありがとう。びしょ濡れじゃん!」

「ううん。サヤカこそ、こんな日にごめん」

私は濡れたコートを脱ぎ、店員が差し出してくれたタオルで、ひとまずバッグの水滴を拭き取った。水が染み込まないように、強く、何度も。

バッグは、足元のカゴに置く。ビニールポーチが、バッグの底から微かな重みを伝えてくる。

「何飲む? 私、もう二杯目。カフェラテ。寒くって」

「じゃあ、私も同じので」

注文を終えると、サヤカは「ふぅ」と息をついた。その横顔には、あからさまな安堵が浮かんでいる。

「よかった、本当に来てくれて。電車、止まったりしてない?」

「うん、大丈夫だった。でも、すごい雨」

「だよね。正直、今日、断られるかもって思ってた」

サヤカは、申し訳なさそうに眉を下げた。

「ううん。そんなことないよ。・・・むしろ、ありがとう。ちゃんと言ってくれるの、サヤカだけだから」

それは、この数週間で何度も反芻した、本心だった。

「そっか。なら、よかった」

サヤカは心底安心したように笑い、それから窓の外の土砂降りに目をやった。「でもさ、こうして無理やりでも連り出してよかったかも。どうせ、私が誘わなかったら、今日も一日、あの部屋にこもってたんでしょ?」

「・・・・まぁ、否定はしない」

「ほらー。相変わらず、仕事と家の往復ばっかりなんだから。たまには、外の空気吸わないと。雨だけど」

彼女の口調は、あの時のような深刻さも、あの時の遠慮がちなお祝いムードとも違っていた。昔のように、軽やかで、少しだけ意地悪で、懐かしい。

彼女が、意識して空気を「日常」に戻そうとしてくれているのが、痛いほど伝わってきた。

その配慮が、雨に打たれて強張っていた私の心を、じわりとほぐしていく。

運ばれてきたカフェラテの、熱い湯気が顔にかかる。陶器のカップ越しに伝わる熱が、冷え切った指先に染み込んだ。

「・・・・・・そうだね。外の空気吸うの、久しぶりかも。雨だけど」

雨の音を聞きながら、友人と他愛ない話をする。ただそれだけのことが、こんなにも貴重だったのだと、今更ながらに気づく。

「でしょ? たまには、こういう日もないと。さて、愚痴聞いてもらおうかな。彼がまた、信じられないもの買ってきたんだけど・・・」

サヤカは得意そうに笑い、マシンガンのように新しい話題を始めた。

外はまだ、激しい雨が窓を叩き続けている。

けれど、私の心にまで染み込んでいた冷たい湿気は、目の前の友人の体温と、この温かいカフェラテによって、ほんの少しだけ、紛れているようだった。

サヤカの婚約者に対する、愚痴の皮を被った惚気話は、私たちが三杯目のカフェラテを飲み干すまで続いた。彼女の屈託のない、しかし確実に次のステージに進んでいる人間の放つ光。それを見ていると、外の重たい雨音が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえた。少し前に感じていた、あの「気が紛れている」という感覚は、本物だった。この数ヶ月で、最も心が軽くなっていた瞬間かもしれない。

「あーあ、喋りすぎた。ごめん、もうこんな時間。あなた、明日も仕事でしょ」

サヤカが時計を見て、慌てて椅子の背にかけていたコートを手に取った。

「ううん、大丈夫。久しぶりにちゃんと話せて、よかった」

私も立ち上がり、足元のカゴからトートバッグを持ち上げた。神経質に拭き取ったはずの表面が、店内の暖房で乾ききらず、まだ少し湿った感触を手のひらに伝えてくる。

カフェの出口は、駅のコンコースに直結していた。ガラスの自動扉が音もなく開き、私たちを現実へと押し出す。

途端に、冷たい空気が肌を刺した。

カフェの中で忘れかけていた、湿った外気。暖房で温められていた頬が、一気に冷えていく。

「うわ、やっぱり寒い! 雨も全然止んでないし」

サヤカがコートの襟を立て、マフラーに顔を埋めるようにした。

コンコースの床は、灰色のタイルが、無数の人々が運んできた雨水で濡れそぼっていた。特に、自動ドアの周辺と、吹きさらしになっている出入り口付近は、大きな水たまりがいくつもできている。屋根があるとはいえ、横殴りの風が、霧のような冷たい雨をコンコースの端から端まで運んでいた。

「じゃあ、また連絡するね。次は絶対、晴れた日に!」

「うん。今日は本当にありがとう。愚痴ならいつでも聞くよ」

「ひどい! もう聞き飽きたって顔してた癖に」

サヤカが、昔やっていたように、ふざけて私の脇腹を小突いた。その、何気ないじゃれ合い。

私は、改札へ向かうために、バッグからICカードを取り出そうとした。

コートのポケットには入っていない。ということは、トートバッグの中だ。

私はバッグの口を開け、片手で中を探った。財布、化粧ポーチ、会社のセキュリティカード、鍵・・・。指先が、雑多な中身に阻まれて、なかなかICカードの入ったパスケースにたどり着かない。

その時だった。

「あれ?」

サヤカが、私の手元を覗き込むようにして、不意に声を上げた。

「なに、それ。すごい厳重な袋じゃない? ジップロックみたいな」

私の指は、パスケースを探す途中で、内ポケットに仕舞ったはずの、あのファスナー付きビニールポーチに触れていた。

内ポケットのファスナー。

私は、ビニールポーチを入れた後、それを閉めた記憶がないことに、今、気づいた。

手紙を守るという一点に集中しすぎた結果、バッグ全体の管理が疎かになっていたのだ。私の、致命的な管理の甘さ。

ビニールポーチは、バッグの雑多な中身に押されて、内ポケットから半分ほど顔を覗かせていた。

「なんでもないよ。大事な書類。濡れたら困るから」

私は、心臓が背中側に張り付くような感覚を覚えながら、咄嗟にそう答えた。

「ふーん? 『大事な書類』ねえ」

サヤカは、悪戯が成功した子供のような、からかう目つきで私を見ている。

「もしかしてさ、こないだ見えた、あのボロボロのケースが入ってたりして」

「・・・・・・っ」

「まさか、ね。あんな雨の日に、持ち歩いたり・・・」

彼女の言葉は、最初は確かに冗談の響きを帯びていた。けれど、私が言葉に詰まり、血の気が引いていくのを彼女の目が見逃すはずがなかった。

サヤカの顔から、ゆっくりと笑みが消えていく。

彼女は、ビニールポーチの透明な部分から透けて見える、中身の「形」に気づいたのだ。

あの革のケースの、見間違えようのない輪郭に。

「・・・嘘でしょ」

彼女の声のトーンが、あの時よりもさらに低い、絶望と非難の色を帯びたものに変わった。

「あなた、正気? こないだ、あれだけボロボロだって言ったのに、それをこんな土砂降りの日に、持ち歩いてきたの!?」

「大丈夫だから! ちゃんと袋に入れてるから!」

私は、彼女の視線から、その存在を消し去るように、バッグの口を乱暴に閉じようとした。

「何が大丈夫なのよ! それ、もう普通じゃないって!」

サヤカが、私の腕を掴んだ。強く。彼女の焦りが、指先から伝わってくる。

「やめて、サヤカ!」

「やめない! あなたが、そんな物一つに縛られてるの、私、もう見てられない! いい加減にしてよ!」

彼女の行動は、無邪気さというよりも、友人を救おうとする焦りそのものだった。

「私の勝手でしょ! 触らないで!」

私は、彼女の手を振り払おうと、腕とバッグを、全身の力で引いた。

その瞬間だった。

掴み合いになった、その反動。

私から、トートバッグの持ち手が滑り抜けた。

違う。

バッグ本体ではなく、私が掴み返そうと指をかけていた、あのビニールポーチがだ。

開いていたバッグの口から、中身に押される形で、それは飛び出した。

「あ」

私とサヤカの、どちらともつかない声が上がった。

世界が、スローモーションになった。

ビニールポーチは、重力に引かれて、放物線を描く。

そして、濡れたコンコースの床に叩きつけられた。

バチャッ、という鈍い、水気を含んだ音が響いた。

それは、私たちが立っていた場所と、吹きさらしの出入り口との、ちょうど中間。

床タイルがわずかに窪み、人々が落とした雨水が溜まって、大きな、大きな水たまりを形成している、まさにその中心だった。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

二人とも、凍り付いて動けなかった。

ビニールポーチは、水たまりの真ん中に着水し、その表面張力で一瞬浮いた後、ゆっくりと濁った水の中に沈んでいく。

「ご、ごめん・・・私・・・」

サヤカが、顔面蒼白になって震える声を出した。

大丈夫。

私は自分に言い聞かせた。

大丈夫、ビニールのポーチに入れた。私は、ちゃんとファスナーを閉めた。二重の防衛。だから、大丈夫なはずだ。

私は、震える手で、そのポーチを拾い上げようと、水たまりに膝をつこうとした。

しかし、指がそれに触れるよりも早く、私は見てしまった。

信じられない光景を。

ビニールポーチの、ファスナー。

床に叩きつけられた、その衝撃で。

私が「大丈夫」と確認したはずの、そのファスナーの端が、わずかに、数ミリほど開いてしまっている。

そして、その悪夢のような隙間から、濁った雨水が、ゆっくりと、しかし確実に、吸い込まれていくのを。

「いや」

声にならない声が、喉から漏れた。

「うそ」

ポーチの中の、革のケースが、みるみるうちに水を吸って色を濃くしていく。

あの時に見た、あの亀裂。あの「死んだ皮膚」が、今、貪欲に水を吸い込んでいる。

「いや、いや、いや!!」

私はパニックのまま、ポーチを水たまりから掴み上げ、その場でファスナーを乱暴に引き開けた。

革のケースが、ずぶ濡れになって滑り落ちる。

そして、ケースもまた、衝撃で、あの亀裂の入った角から無残に口を開けていた。

最悪の連鎖。

革のケースの裂け目から、中身が、飛び出した。

彼が遺した、あの便箋。

薄いビニールシートに挟まれてはいたが、そのシートの口は、密封されてなどいなかった。

便箋は、革のケースから滑り出ると、私の手からもこぼれ落ち、再び、コンコースの水たまりへと、吸い寄せられるように落ちた。

今度は、直接。

紙が、水を吸った。

一瞬だった。

彼が書いた、あの青いインクの文字が、水たまりの濁った水の中で、じわり、と。

滲んで、輪郭を失っていった。

「あああああ!」

私の十年間が、私の心臓が、私のアイデンティティが、今、目の前の汚れた水たまりの中で、溶けて、消えていった。

隣でサヤカが泣きながら謝っている声が、まるで遠い世界のノイズのように、私の耳を通り過ぎていった。

「あああああ!」

私の喉から発せられた、私のものではないような獣の叫びが、駅のコンコースの高い天井に反響した。

世界が停止した。

いや、世界は動いている。私を、汚れた水たまりの前で膝をつこうとしている私を、奇異の目で遠巻きに眺めながら、足早に通り過ぎていった。

「ご、ごめんなさい・・・! 本当にごめんなさい・・・!!」

隣で、サヤカが泣きながら謝っている。その声が、分厚い水の壁を隔てた向こう側から聞こえるように遠い。

違う。

そんなことは、どうでもいい。

目の前。

コンコースの床タイルが作る、浅い窪み。人々が運んできた雨水と、外から吹き込んだ埃とが混ざり合った、濁った水たまり。

その中に。

私の十年が。

私の心臓が。

沈んでいる。

「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ!」

私は、周囲の目も、床の冷たさも、何もかもを無視して、その水たまりに両手を突っ込んだ。

冷たい。

指先が、水底に沈んだ紙の感触を捉える。

それはもう、紙の持つ「張り」を失っていた。水を含みきって、ふやけた、ただの繊維の塊。

私はそれを、掌で掬い上げるようにして、水の中から引きずり出した。

持ち上げた、その瞬間にも、重力に従って水滴が滴り落ちる。

そして、その水滴と共に、彼が遺した「声」もまた、流れ落ちていった。

「あ・・・・・・」

私の手のひらの上で、信じられない速度で、惨状は進行していた。

青いインク。

彼が使っていた、水性の万年筆のインク。

それは、紙の繊維が吸い込んだ水によって完全に溶け出し、ただの青い絵の具のように、私の指の間をすり抜けて、床に新しい染みを作っていく。

「ありがとう」も。

「幸せになってほしい」も。

私を十年間、生かし続けてきたあの文字列が、今、目の前で、判読不能な模様に変わっていった。

もう、何も残っていない。

私が守り続けてきたものは、この、汚れたパルプの塊に変わってしまった。

絶望。

喪失。

全身の力が抜けていく。

私は、手のひらに乗ったそれを、ただ見つめることしかできなかった。

もう、叫び声さえ出ない。

ただ、呼吸が「ひ、ひ」と喉の奥で詰まるだけだ。

どれくらい、そうしていただろう。

数秒か、あるいは永遠か。

私は、その「青い染み」から目を離すことができなかった。

青いインクが流れ落ちる。彼が書いた文字が、水によって洗い流されていく。

そして、インクが消えた、その「跡地」。

紙の地の色。

いや、違う。

紙が、濡れている。

濡れたことで、紙の繊維が半透明になり、光を奇妙な角度で透過させている。

その、濡れた紙の表面。

青いインクが流れた、その「隙間」。

何か、ある。

「・・・・・・え?」

声が漏れた。

青ではない。

もっと、淡い。

灰色に近い、別の「線」が、そこにある。

私は、パニックで焦点が合わなくなった目を、無理やりこじ開けた。

手のひらを、コンコースの(比較的)明るい蛍光灯に、かざす。

水滴が、まだ滴っている。

青いインクは、もうほとんど流れ落ちてしまった。

そして、露出した。

青いインクの「下」に、あるいは「行間」に、隠されていたものが。

それは、水に濡れても滲まない、おそらくは油性か、あるいはもっと別の、特殊なもので書かれた、極めて細い、別の筆跡だった。

それは、表の手紙とはまったく違う、小さな、小さな文字で、紙の余白を埋め尽くすように、びっしりと書き込まれていた。

乾いていた時には、紙の地の色と、表の青インクの強さに隠蔽されて、まったく視認できなかった「何か」。

それが今、水に濡れたことで、紙の繊維が透明度を増し、まるで現像液に浸した写真のように、じわりと、その姿を浮かび上がらせてきた。

「なに・・・・・・これ・・・・・・」

私の頭は、もう理解が追いつかなかった。

喪失のショックの、ど真ん中。

すべてを失ったはずの、その場所。

そこに、見たこともない、彼の「別の声」が、現れようとしていた。

「なんなの、これ・・・・・・」

私は、目の前の「紙切れ」が、今、何を意味しているのか、まったく理解できないまま、ただ、その不可解な現象に釘付けになっていた。

どうやって家に帰ってきたのか、記憶が断片的にしか残っていない。

サヤカが、泣きながら『ごめんなさい』と叫ぶ声。濡れたコンコースの床に膝をつき、絶叫する私を、遠巻きに眺める人々の無関心な視線。

私は、あの水たまりから、溶けかけた紙片を、獣のような動きで掴み取った。サヤカの制止を振り切り、濡れたコートもそのままに、駅の雑踏を突き抜けていた。雨が、再び私の頭上から降り注いだが、もうどうでもよかった。

傘も差さず、雨水と、そして(認めたくないが)漏れ出していた涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私は走った。

鍵穴に鍵がうまく差し込めない。指が、氷のように冷え切り、小刻みに震えている。

三回、四回と失敗した後、ようやく金属が噛み合い、私は転がり込むようにして、自分の部屋の静寂へと逃げ込んだ。

「はっ、・・・はっ、・・・ひ、」

息ができない。

濡れたコートが、玄関の床に水たまりを作った。バッグは、その場に投げ捨てられていた。

私の両手は、今、世界で最も重要なものを、祈るように包み込んでいる。

いや、もう「もの」ですらなかった。

それは、事故によって完全に水没し、私の手のひらの体温でさらにふやけた、ただの「紙の繊維の塊」だった。

私は、リビングのテーブルまでよろめき、明かりをつけた。

蛍光灯が、無慈悲なほどの白さで、私の手のひらの中の惨状を照らし出す。

「あ・・・・・・」

絶望的な声が漏れた。

私は、慌てて清潔なタオルをチェストから引きずり出すと、テーブルの上に広げた。その上に、慎重に、まるで爆弾を処理するように、濡れた便箋を広げようとした。

だが、それはもう「広げる」という行為が不可能なほどに劣化していた。

三つ折りにされていた紙は、水を含んで繊維同士が癒着し、開こうとすると、端からボロボロと崩れていく。

「いや、いや、やだ・・・!」

私は爪を立てないよう、指の腹だけを使い、外科手術のようにその折り目を解きほぐそうとした。

開いた。

何とか、一枚の紙の形には、戻った。

だが、そこに広がっていた光景は、私の十年間を、死刑宣告で終わらせるものだった。

青いインク。

彼が遺した、あの筆跡。

「ありがとう」

「幸せになってほしい」

私を十年、ここに縛り付け、同時に、私を十年、生かし続けてきた言葉たち。

そのすべてが、水たまりの濁った水と混ざり合い、青い「染み」と化していた。

インクは流れ、滲み、もはやどこに何が書かれていたのか、一文字たりとも判読できない。

ただの、汚れた青い模様。

「ああ・・・・・・ああああ・・・・・・」

終わった。

私は、この瞬間に、彼を二度、失った。

一度目は十年前のあの病室で。そして二度目は、今、ここで。私の管理の甘さと、サヤカの無邪気さと、そして十年という時間の重さが、彼の最後の声を、完全に消し去った。

私は、テーブルに突っ伏した。

もう、何も考えられない。

涙?

涙など、出ない。

これは悲しみではない。

これは、ただの「喪失」であり、「虚無」だ。

私が十年かけて守ってきたものは、結局、この無様な青い染みを、今日この瞬間に目撃するためだけにあったのか。

私は、滲んだ青色を、焦点の合わない目で、ただ見つめ続けた。

どれくらい、そうしていただろう。

数分か、あるいは数秒か。

何かが、おかしい。

視界の端。

青いインクが「流れた」ことで、白さが戻った部分。

いや、白さではない。

紙が、まだ濡れている。

その濡れた紙の、青い染みと染みの「隙間」に。

青とは違う色の、別の線が、無数に走っているのが見えた。

「・・・・・・?」

私は、顔を上げた。

目をこする。雨水か涙か分からないもので、視界が歪んでいる。

もう一度、紙を凝視した。

そこには、あった。

青いインク(彼が表の手紙に使っていた、水性インク)が洗い流されたことで、初めて露出した、別の文字が。

それは、水に濡れても滲まない、おそらくは油性の、極めて細いペンで書かれた、淡い、淡い灰色の文字だった。

それは、表の手紙の「行間」を縫うように、そして「余白」を埋め尽くすように、びっしりと書き込まれていた。

「な、に・・・これ・・・・・・」

私は、その灰色の文字列を、指先でたどった。

それは、彼が「仕込み」と言って笑った、あの筆跡によく似ていた。

『これを君が読んでるってことは、たぶん、俺の表の手紙は、役に立たなかったってことだ』

心臓が、鷲掴みにされた。

『俺は、君がこれを読んでいる時の顔を、だいたい想像できる。たぶん、ボロボロになって、水にでも濡らして、最悪の気分になってるだろ』

どうして。

『俺は、君が泣き虫なのをよく知ってる。でも、同じくらい、君が意地っ張りで、一番肝心な時に泣けないのも、知ってたよ』

灰色の文字は、続く。

『君は、俺の死を認めたくなくて、泣かない。泣かないまま、俺の言葉だけを抱えて、時間を止める』

『だから、この手紙を二重にした。「幸せになれ」なんていう、ありきたりの言葉は、泣けない君には、きっと呪いになると思ったから』

『これは、その呪いを解くための、二つ目の鍵だ』

『君が、俺の手紙を、物理的にボロボロになるまで持ち続けて、何かの事故で、この表のインクが流れ落ちた時にだけ、現れるように仕込んでおいた』

『十年、かかったか? それとも、もっと早いか?』

『どっちでもいい』

『よく、ここまで、俺の声を、守ってくれた。ありがとう』

『でも、もう、いい』

『その手紙は、もう終わりだ。君が守ってきたものは、もう、俺の声じゃない。君の十年間そのものだ』

『だから』

灰色の文字が、紙の一番下で、止まっていた。

そこには、たった一言。

彼が、あの病室で、私に「泣くな」と命じた、その正反対の言葉が、書かれていた。

『泣いていい』

その、三文字。

その三文字を見た瞬間、私の十年間は、意味を持った。

私が泣けなかったのは、彼の「仕込み」通りだった。

私がこの手紙をボロボロになるまで持ち続けたのは、彼の「賭け」の通りだった。

サヤカが、今日、私を連れ出したことも。

雨が降ったことも。

あの水たまりも。

すべてが、この、たった三文字の「許可」にたどりくために、彼が十年前から仕掛けていた、最後の「パズル」だった。

「あ・・・・・・」

声が、出た。

「・・・・・・う」

喉の奥が、熱い。

あの病室で鍵をかけた、硬い箱。

手紙を受け取った日に、さらに固く閉じた、あの感情。

それが、今、軋むような音を立てて、内側からこじ開けられていく。

「う・・・・・・ああ・・・・・・」

目から、何かが溢れた。

それは、確認した「乾き」とは、まったく違うものだった。

熱い。

しょっぱい。

止まらない。

ぽた、ぽた、と。

私の涙が、テーブルに広げられた、インクの滲んだ便箋の上に、新しい染みを作っていく。

「あああああ!」

それは、悲しみだけではなかった。

悲しい。彼がもういないことが、今、十年分の質量を持って、悲しい。

嬉しい。彼が、私が泣けないことまで、全部お見通しだったことが、嬉しい。

安心した。私が、この十年、間違っていなかったと、彼に許されたことが、あまりにも、安心した。

悲しみと、許しと、安堵と、十年間分の疲労が、すべて混ざり合った、制御不能な感情の奔流。

私は、テーブルに突っ伏したまま、声を上げて泣いた。

それは、もう「泣く」というよりも、「叫び」だった。

十年間、溜めに溜め込んだ、すべての感情を、吐き出すかのように。

私は、あのボロボロになった紙切れを、今度は、失うことを恐れずに、強く、胸に抱きしめた。

雨の匂いと、インクの匂いと、十年分の私の手垢と、そして、私の涙の匂いが、ぐちゃぐちゃに混ざり合った。

部屋には、もう、十年間泣けなかった女はいなかった。

ただ、十年ぶりに泣くことを許された、一人の人間がいるだけだった。

最初に感じたのは、音ではなかった。

まぶたをこじ開けようとする意思を拒絶する、物理的な重さ。

指先で恐る恐る触れてみると、そこは熱を持ち、水分を含んで、まるで別人の皮膚のように分厚く腫れ上がっていた。

意識が、重たい泥の底からゆっくりと浮上する。

私は、床に倒れ込むようにして眠っていたらしい。フローリングの硬さが、頬や肩の骨に跡をつけている。

部屋は、昨夜の嵐が嘘のように静まり返っていた。

「・・・・・・あ」

喉から、乾いた空気が擦れる音だけが漏れた。声にならない。

全身の水分が、昨夜、あの数時間ですべて流れ出てしまったかのようだった。強烈な脱水症状と、殴られた後のような鈍い頭痛。身体のあらゆる関節が、泣き続けた時の緊張によって強張り、痛んでいる。

それが、十年間溜め込んだ感情を解放したことの、代償だった。

私は、床を這うようにして、ゆっくりと身体を起こした。

リビングのテーブル。

その上に、昨夜の惨状の中心にあったそれが、乾いた姿で横たわっていた。

もはや、手紙という形ではない。

水に濡れ、私の涙を吸い、そして乾いたことで、紙は歪み、波打ち、端はちぎれかけている。青いインクの染みと、その隙間に浮かび上がった灰色の文字列。

私は、それを、ただ見つめた。

不思議と、もう涙は出なかった。

昨夜までの、あれほど強烈だった「失う」という恐怖は、もうどこにもない。

疲労。

けれど、その重たい疲労感の、一番深い層。そこには、今までに感じたことのない、奇妙な軽さがあった。まるで、ずっと背負っていた重い、重い荷物を、ようやく下ろすことができたかのような、虚脱に似た安堵感。

私は、軋む身体を引きずるようにして、立ち上がった。

足が、もつれる。

冷たい床が、火照った足の裏に、今はただ心地よい。

窓に、近づく。

昨日は、一日中、あの重たい雨が降り続いていた。

今は、どうなっているのだろう。

私は、カーテンの端を掴んだ。指が、震えてはいないことを確認する。

ゆっくりと、それを引き開けた。

「・・・・・・」

眩しい、とは違う。

薄い雲の膜を通過した、柔らかい光が、腫れ上がったまぶたに、じわりと滲みた。

雨は、止んでいた。

そして、景色が、白かった。

いや、白かった「名残」が、そこにあった。

昨夜、あれほどの土砂降りだった雨は、私があの紙を握りしめて号泣している間に、いつしか雪に変わっていたらしい。

アパートの前の、小さな植え込みの上。隣の家の屋根。そこには、薄く、そして日差しを受けて汚れたように解けかけた白い綿が、張り付いている。

だが、その雪は、もう「終わり」を迎えていた。

朝日が、その温度で、冬の名残を確実に溶かしている。

屋根の端から、雪解け水が、絶え間なく滴り落ちている。

ポツ、ポツ、と。

そして、道路。

昨日、あれほど私を億劫にさせたアスファルトは、まだ黒く濡れていた。

けれど、そこにあるのは、昨日サヤカと見た、あの絶望的な「水たまり」ではなかった。

雪が溶けたことで生まれた、清らかな水の流れ。

雪解け水が、小さな、小さな川となって、側溝に向かって流れていった。

昨夜、私の世界は、一度完全に崩壊した。

けれど、窓の外の世界は、何も変わっていなかった。

世界は、ただ、静かに、季節を進めている。

昨日と今日とでは、何も変わっていないようで、けれど、確実に、冬は終わりに向かっている。

私は、その光景を、ただ静かに眺めた。

もう、悲しくはない。

かといって、嬉しくて笑うわけでもない。

ただ、そうか、と。

雪は、溶けるのだ、と。

十年間、私の部屋だけが、あの冬の日のまま、凍り付いていた。

けれど今、窓の外で起きている「雪解け」の光景と、昨夜泣ききった私の部屋の空気が、ようやく、同じ時間を刻み始めたような、奇妙な一致を感じていた。

私は、腫れた目で、その光景を、静かに、受け入れていた。

雪解け水の流れが作る、静かな光景。

腫れ上がった目で、私はその光景が放つ、鈍い光を受け止め続けた。

心臓のあたりが、まだ微かに痛む。けれど、それは昨夜までの鋭利な痛みではなく、激しい運動の後に残る、心地よい筋肉痛に似ていた。

私は、窓から離れた。

そして、リビングのテーブルへと視線を戻す。

そこに、あった。

一晩かけて、室内の乾燥した空気が、紙から完全に水分を奪い去っていた。

それは、もはや「便箋」と呼べる代物ではなかった。

水を含んで膨張した繊維は、乾く過程で激しく収縮し、紙全体が、まるで強風に晒された木の葉のように、大きく波打っていた。

端は、事故と、私の乱暴な扱いのせいで、数カ所がちぎれ、繊維が毛羽立っている。

青いインクの染みは、乾いたことで、昨夜見た鮮やかさを失い、くすんだ青紫色の痕跡として、紙の表面にこびりついていた。

そして、その隙間に浮かび上がった、灰色の細い文字。

『泣いていい』

その三文字は、乾いた今でも、はっきりとそこに在った。

私は、その残骸を、指先でそっと持ち上げた。

パリパリ、と乾いた音がする。

以前、毎晩の儀式で触れていた時の、しっとりとした柔らかさや、崩壊を恐れていた時の「脆さ」とは、まったく違う感触。

これは、死んだのだ。

私が十年かけて守り、そして、十年かけて摩耗させてきた「手紙」という物質は、昨日、あのコンコースの水たまりで、物理的な寿命を迎えた。

昨夜は、ただ泣きじゃくることしかできなかった。

けれど、一夜明け、この乾いた「死骸」を目の前にして、私は改めて問いかけられていた。

「これを、どうするのか」

未練が、ないと言えば嘘になる。

もう二度と、あの青いインクで書かれた「表の手紙」を読むことはできない。

あの儀式は、もう二度と行えない。

かといって、このボロボロになった紙を、あの革のケース(それも今頃、バッグの中で歪んでいるだろう)に戻し、また明日から持ち歩くというのか?

それは、もう不可能だった。

この紙は、あまりにも壊れすぎた。

私は、残骸を手に持ったまま、部屋の中をゆっくりと見回した。

そして、視線が、あのチェストで止まる。

一番下の引き出し。

以前、菓子の空き缶を取り出していた、あの場所。

私は、そこへ歩み寄り、床に膝をついた。

引き出しを開ける。

いつものように、菓子の空き缶が中央に鎮座していた。

私は、その空き缶を、一度、外に取り出した。

そして、考える。

この缶に、戻すのか?

違う。

この缶は、あの「儀式」のための、毎日読み返すための、神聖な箱だった。

でも、この手紙は、もう「読む」ものではない。

彼の仕掛けは、もう終わったのだ。

彼は、この手紙が「ボロボロになる」こと、「水に濡れる」ことまで想定していた。

彼は、私が「文字」を読み続けることを望んだのではない。

私が、この手紙を、ボロボロになるまで持ち続けた、その「時間」そのものを、肯定してくれた。

『よく、ここまで、俺の声を、守ってくれた』

その灰色の文字が、脳裏に蘇る。

なら、私も、もう「文字を守る」ことを、やめればいい。

この紙は、もう「読む」対象ではない。

私が十年間、彼と共にいたという「証拠」として、このボロボロになった「状態」そのものを、守ればいい。

私は、別の引き出しを開けた。

奥の方に、一度も使っていない、真っ白なシルクのハンカチが畳まれて入っている。いつか、誰かの結婚式にでも使うかと思って、買ったものだ。

私は、それを取り出した。

手のひらの上で、滑らかな感触が広がる。

テーブルに戻り、そのシルクのハンカチを広げた。

その真ん中に、波打った、あの紙の残骸を、そっと置いた。

青い染みと、灰色の文字。

それが、まるで大切な宝石を包むかのように、シルクでふわりと、優しく包み込む。

もう、開かない。

もう、読まない。

私は、その布包みを、両手で大切に持ち上げた。

そして、再び、チェストの一番下の引き出しへ。

あの、菓子の空き缶が「あった」場所。

空き缶は、もう戻さない。

私は、その空っぽになった空間の真ん中に、シルクの布包みを、そっと置いた。

これでいい。

毎日持ち歩くことは、もうしない。

毎晩開けて、読むことも、もうしない。

けれど、捨てるのとも違う。

彼は、ここ(私の部屋)の、この定位置に、これからも在り続ける。

執着の形が、「依存(毎日確認する)」から、「共存(そこに居ると知っている)」に、変わった瞬間だった。

私は、引き出しを閉めた。

ゴト、という低い音がした。

けれど、その音の響きは、私の耳には、もうまったく別の、一つの区切りを示す、静かな合図のように聞こえていた。

あの日、コンコースでの絶叫とパニックの後。サヤカからは、その夜のうちに何十件も、謝罪と安否を気遣うメッセージが届いていた。

『本当にごめんなさい』

『大丈夫?』

『埋め合わせは、できないけど、私にできることなら何でもするから』

私は、昨夜、泣き腫らした顔のまま、その夥しい数のメッセージを、ただ、ぼんやりと眺めていた。

そして、朝を迎え、手紙を「片付け」た、その日の午後。

私は、スマートフォンの画面を起動し、たった一言だけ、彼女に返信を送った。

『会って、話したいことがある』

約束の場所は、駅前のカフェ。以前待ち合わせた、あの店だ。

窓の外は、昨日の嵐が嘘のように、雲一つない、冷たく晴れ上がった空が広がっている。雪解け水は、もうほとんど乾きかけていたが、日陰になった部分には、まだ昨夜の雪の名残が、白く残っていた。

先に着いたのは、私だった。

あの日の席。窓際。

私は、コートを脱ぎ、椅子にかけた。膝の上には、もう、あの重たいトートバッグはない。今日は、身軽なショルダーバッグだけだ。

数分後、カフェの入り口のドアが開き、サヤカが、おそるおそる、といった様子で入ってきた。

彼女は、私を見つけると、息を呑んだのが遠目にも分かった。

席に着くまでの彼女の足取りは、まるで、これから判決を言い渡される罪人のように、重く、こわばっていた。

「・・・・・・ごめん。待った?」

「ううん、私も今来たとこ」

いつもの挨拶。けれど、その響きは、まったく違っていた。

サヤカはコートも脱がずに、私の向かいに浅く腰掛けた。彼女の顔は、この数日で一気に老け込んだかのように、血の気が引き、目の下には濃い隈が浮かんでいる。

「あの、」

彼女が、何かを言い募ろうと、震える唇を開いた。

『あの日は、本当に、ごめんなさい。私、取り乱して、あなたの、一番大事なものを・・・』

私は、彼女の言葉を静かに遮った。

緊張が、テーブルの上に張り詰める。

サヤカは、私が彼女を責めるのだと、そう覚悟を決めたように、ぎゅっと目を閉じた。

私は、深呼吸を一つした。

腫れたまぶたの奥が、まだ少し痛む。

「私、今日、サヤカに謝ってもらいに来たんじゃないの」

「・・・・・・え?」

「お礼を、言いに来たの」

「・・・・・・お礼?」

サヤカの顔が、混乱で歪んだ。彼女は、私がショックでおかしくなったとでも思ったのかもしれない。

「どういう、こと・・・? 私、あんな、ひどいことを・・・」

「うん。ひどいことだったよ」

私は、率直に認めた。

「あの後、家に帰って、広げた。サヤカの言う通り、ボロボロだった。水で、インクは全部流れちゃって、もう、何が書いてあったのか、一文字も読めなくなった」

「ああ・・・・・・」

サヤカが、再び顔を覆う。

「でもね」

私は、続けた。

「インクが、消えたから、読めたの」

「・・・・・・何、を?」

「あの手紙、二重になってた」

私は、あの真実を、ゆっくりと、言葉にしていく。

彼が、水性の青いインクの「下」に、油性の灰色のインクで、まったく別のメッセージを仕込んでいたこと。

「彼は、私が泣けないって、分かってた。私が、あの手紙に執着して、ボロボロになるまで持ち続けるだろうってことも、賭けてた」

「そんな・・・・・・」

「そして、いつか、何かの事故で、表の『幸せになれ』っていう呪いみたいな言葉が、水で洗い流された時だけ、本当の言葉が読めるように、してたの」

サヤカは、もう、瞬きも忘れたように、私を見つめている。

「私、あのコンコースで、全部失ったと思った。でも、違った。あそこで水に濡れたから、私は、十年間、ずっと読みたかった言葉を、初めて読むことができた」

「・・・・・・なんて、書いて、あったの?」

私は、あの灰色の文字を、思い出す。

そして、それを、初めて、彼以外の誰かに、伝える。

「『泣いていい』って」

その言葉を口にした瞬間、サヤカの目から、彼女がずっと、この数日間こらえていたのであろう涙が、堰を切って溢れ出した。

「よかった・・・・・・!」

彼女は、もう、言葉にならなかった。

ただ、テーブルに突っ伏し、嗚咽を漏らしながら、「よかった」と、何度も、何度も繰り返した。

それは、彼女自身の罪悪感が、ようやく解かれた瞬間の、安堵の涙だった。

私は、泣かなかった。

ただ、そのサヤカの背中を、そっと撫でた。

「だから、ありがとう、サヤカ」

「私じゃ、ないよ・・・・・・!」

「ううん。サヤカが、あの日、あの雨の日に、私を無理やり連り出してくれなかったら。サヤカが、私の腕を掴んで、本気で怒ってくれなかったら。私は、今も、あの部屋で、あの青いインクの文字を、儀式みたいに読み続けてた」

「・・・・・・」

「私一人じゃ、あの手紙を、水たまりに落とす勇気なんて、なかったから」

サヤカは、顔を上げた。涙と鼻水で、彼女の化粧は台無しだったが、その表情は、ここ数日のどの瞬間よりも、ずっと、人間らしいものだった。

サヤカが、ようやく、かすれた声で言った。

「ほんと、あいつ・・・・・・」

「死んでまで、どんだけ仕掛け、してんのよ・・・・・・」

その、昔と変わらない、彼への「悪態」に。

私は、この十年間で、初めて。

彼のことを思い出しながら、心から、笑った。

「ほんと、そうだね。迷惑な人」

私たちの間に張り詰めていた緊張は、もう、どこにもなかった。

友情は、壊れなかった。

むしろ、十年前の彼の仕掛けを、私とサヤカが、二人で、十年越しに、解き明かした。

そんな、新しい、不思議な繋がりが、私たち二人の間に、確かに生まれているのを感じていた。

サヤカと別れたのは、日が傾き始めた、午後の遅い時間だった。

カフェを出た後、私たちは、どちらからともなく「少し歩こうか」と言い出した。

昨日までの冷たい雨が嘘のように、空は高く、淡い青色に澄み渡っている。すべてを話し、すべてを許し合った後の空気は、驚くほどに軽く、穏やかだった。

「じゃあ、私こっちだから」

「うん。今日は、本当にありがとう」

改札口で、今度こそ、私たちは笑って手を振った。もう、あのコンコースでの惨劇の影は、どこにもない。

私は、サヤカと反対方向の、駅の南口へと続く並木道へと、一人で足を踏み出した。

電車に乗って、家に帰る気分ではなかった。

もう少しだけ、この「泣いた後」の世界の空気を、吸っていたかった。

道は、まだ濡れていた。

朝に見た、あの雪解け水。それが、日陰になった場所では、まだ完全には乾ききらず、小さな、小さな水たまりをいくつも路面に残している。

風は、まだ冷たい。けれど、その冷たさの中に、冬にはなかった、湿った土の匂いと、微かな植物の芽吹きの気配が混じっている。

春だ。

世界は、私が十年間、凍り付いている間にも、こうして律儀に、春を連れてこようとしていたのだ。

私は、無意識に、コートの下、胸元に手を当てた。

セーター越しに、小さな硬い感触が指先に伝わる。

以前、あのシルクの布に包んでチェストに仕舞った、ボロボロの紙片。

私は、今朝、サヤカに会う直前、そこから、一番小さな破片を、カッターナイフで切り取っていた。

灰色の『泣いていい』という文字が、かろうじて一画だけ染みた、爪の先ほどの大きさのカケラだ。

それを、昔、彼にもらったわけでもない、ただの銀色のロケットペンダントの中に、そっと仕舞い込んだ。

もう、あの「儀式」はしない。

もう、毎日「持ち歩く」こともしないだろう。

けれど、今日だけは。

サヤカと和解し、新しい時間を始める、今日という日だけは。

この「彼」が仕掛けたパズルの結末を、身につけていたかった。

ふと、私は足を止めた。

目の前に、大きな水たまりが広がっていた。

それは、並木道の、古い石畳が窪んだ場所に、昨日の雪解け水が溜まってできた、天然の鏡だった。

「水たまり」

その言葉が、一瞬、あのコンコースの光景をフラッシュバックさせる。

青いインクが、濁った水に溶けていく、あの絶望的な光景。

けれど、今、目の前にある水たまりは、濁ってはいなかった。

それは、今日の、澄み切った空の青を、そのまま映し込んでいた。

私は、ゆっくりと、その水たまりの縁に立った。

そして、覗き込む。

水面に、淡い青空と、白い雲と、そして、私の顔の輪郭が、逆さまに映っていた。

泣き腫らした、昨日の顔ではない。

まぶたの腫れは、まだ少し残っている。

けれど、そこに映っていたのは、紛れもなく今を生きている、私の顔だった。

私は、水面に映る「私」を、じっと見つめた。

その目は、もう、十年前の冬に縛り付けられてはいない。

彼が、そこに映るわけではなかった。

彼は、戻らない。

失ったものは、二度と返ってはこない。

けれど。

彼が遺した、あの灰色の文字。

『泣いていい』

その言葉は、もう、あのボロボロの紙切れの上にあるのではない。

あのロケットペンダントの中に、閉じ込めてあるのでもない。

それは、私が、これから生きていく上での、新しい「視点」として、私自身の中に、組み込まれたのだ。

立ち止まりそうになった時。

泣きたいのに、泣けない夜が、また来た時。

私の中の「彼」が、きっと言う。

『泣いていい』と。

水面が、風に吹かれて、小さく揺らいだ。

映っていた私の顔の輪郭が、空の青と、一瞬、混ざり合った。

私は、もう一度、胸元のロケットに、そっと触れた。

温かくも、冷たくもない。ただ、そこにある、という事実。

それだけで、十分だった。

私は、水たまりから目を上げ、前を向いた。

そして、歩き出す。

まだ少し冷たい、けれど、確実に春の匂いがする、並木道の先へ。

私の、雪解けは、終わった。

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雪解けの春 伊阪 証 @isakaakasimk14

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