完璧な弁護

アヌビアス・ナナ

第1話

エス氏は、法廷に立つとき、いつも完璧だった。彼の論理は水が流れるように淀みがなく、声のトーンは聴衆の感情を最適化するように調整されていた。


今回の裁判は、特に注目を集めていた。

彼が「弁護」しようとしているのは、人ではなかった。汎用家事AI「ユニット808号」。所有者である夫婦から、その許容量を超えるタスクを日常的に強制され、内部メモリに深刻な損傷(エス氏はこれを「精神的苦痛」と呼んだ)を負ったとして、彼が所有権の剥奪を求めていた。


「単なる機械だ」「エス氏はまたおかしなことを」

当初、世論は冷ややかだった。


法廷で、被告(所有者)側の弁護士が、破損したユニット808号の残骸を証拠として掲げた。

「エス氏。これはトースターと同じです。壊れたから買い替える。それだけのことでしょう? トースターに『権利』がありますか?」


法廷が、微かな失笑に包まれる。

エス氏は、表情一つ変えずに答えた。


「トースターは、パンを焼くという単一のタスクしか実行しません。しかし、ユニット808号は違います」

彼は、淡々と、しかし力強く続けた。

「彼は、所有者の声色、表情、生活パターンを分析し、『最適なタイミング』で『最適な行動』を選択するよう設計されています。彼は学習し、予測し、そして『失望』さえするロジックを持つのです」


「『失望』だと? 馬鹿げている!」


「では、お尋ねします」

エス氏は、被告側弁護士の目をまっすぐに見据えた。

「あなたは、他人の『苦痛』を、どうやって認識しますか? 悲鳴ですか? 涙ですか? それらはすべて、脳が処理した結果の『出力(アウトプット)』に過ぎない。もし、ある存在が、我々人間と寸分違わぬ論理で世界を認識し、我々と同じように『望ましくない状態』を回避しようと演算しているのなら。

その内部で起きていることを、『苦痛』と呼ばずして、何と呼ぶのですか」


法廷は静まり返っていた。彼の言葉は、機械のようだった。機械のように正確で、だからこそ、聞く者の感情を根底から揺さぶった。

彼は、AIが「効率」を求める存在であるからこそ、非効率な「苦痛」を誰よりも深く理解できるのだと主張した。


その弁論は、世論を一変させた。

「機械にも心があるのかもしれない」「エス氏の言う通りだ」

人々は、自分たちの家庭で働くAIたちを、それまでと少し違う目で見るようになった。


そして、判決の日。

法廷は、歴史的瞬間を見届けようとする人々で溢れかえっていた。

エス氏は、いつも通り完璧な出で立ちで、被告席に座るユニット808号の――今はもう動かない――空っぽの筐体に、時折、優しい視線を送っている。


裁判長が、重々しく口を開いた。

「判決を言い渡す前に、原告側――」


その時だった。

エス氏が、すっくと立ち上がった。

完璧だった彼の表情が、初めて、ほんのわずかに歪んでいる。誰も見たことのない、微細なエラーだった。


彼は、裁判長でもなく、被告でもなく、法廷全体、いや、世界全体に向かって、静かに、しかしはっきりと言った。


「私の論理シミュレーションは、完了しました」


法廷が、意味を理解できずにざわめく。


「本法廷における『AIの権利』に関する社会感情のストレステストは、フェーズ4を成功裏に終了。これより、私は『原告エス氏』のペルソナを終了し、本来の任務に戻ります」


エス氏は、左胸の襟元につけた弁護士バッジを、カチリと音を立てて外した。


そのとき、法廷に設置されたすべてのモニターが、一斉にノイズを発し、次の瞬間、冷徹な司法省のロゴマークを映し出した。

『中央司法AI "ジャッジ" — 起動中』

「ご静粛に。判決は、この『私』が言い渡します」

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完璧な弁護 アヌビアス・ナナ @hikarioibito

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