忘れがたい夏がまた訪れる
夕目 紅(ゆうめ こう)
忘れがたい夏がまた訪れる
ソクラテスは言った。
「私と一緒に海に行かないか?」
もちろん今は紀元前ではない。令和7年だ。
眼前にいるのは立派な髭を蓄えた老人ではなく、長い黒髪を真っすぐに伸ばした制服姿の少女。
夏には不釣り合いな白い肌が砂浜のように煌めいて見えた。
「やはり私では不服か?」
寂しそうに微笑むその姿が、困ったように下げられた眉尻が、瞳の奥にある灯と一緒に蜃気楼のように揺らめくその様が、何故か僕の心に触れた。
「ああ、いいぜ。行こう、海に」
僕は自分の言葉に内心びっくりして、そんな僕の代わりに彼女はそっと目を見開いた。そしてにこりと微笑む。
夏のむわっとした空気が風に流され、胸元のリボンを微かに揺らす。またそれが僕の心に触れて、僕は熱に浮かされるようにふらふらと歩き出す。彼女が隣を歩く。僕よりも少しだけ背が低い。とんとんと、磨かれた革靴の音がやけに高く響いて揺らめくアスファルトに響き渡る。
どうして、なんて考える必要もない。
僕達は何も知らなかった。
そのことを自覚しているからと言って、別に真の知恵がある訳でもない。
ただ幼かっただけだ。
高校二年生。名前を持たない十七歳の夏。
あの頃、理由はそれだけで十分だった。
***
……なんであの日のことを思い出さなければならなかったのだろう。
がこんと玄関ドアの音がして、二十七歳になった私はのそりと重たい体を持ち上げた。普段なら放っておくのに、その日に限って何も考えず立ち上がり、ドアポストから溢れ出そうな郵便物をまとめて取り出す。すると一枚のハガキがするりと抜け落ち、私はそれを拾い上げながら何気なく文字に視線を落とす。同窓会の知らせだった。
そういえば十年後やろうと誰かが言っていたことを思い出す。忘れてないやつがいたのか。誰だかわからないけれど、随分律儀な奴だ。
そこで私は、すっかり忘れていた彼女のことを思い出した。そう、私は本当に綺麗さっぱり忘れていたんだ。その事実に一瞬茫然とし、それからちらっと日付を見た。
同窓会の開催日はちょうど今日だった。
……なんであの日のことを忘れてしまっていたのだろう。
私はすぐさまパジャマを脱ぎ捨てて、慌てて身支度をし、家を飛び出した。
なんでの理由は電車の中で考えればいい。
ただもう一度、彼女に会いたいと思った。そう思わずに過ごしてきた数年間を、ほんの少し恨みながら。
***
ソクラテスは言った。
「私で良かったのか?」
もちろん今は紀元前ではない。令和7年だ。
隣に座っているのは立派な髭を蓄えた老人ではなく、長い黒髪を真っすぐに伸ばした制服姿の少女。
彼女にこんなに近づくのは初めてのことで、肌で微かに感じる彼女の熱についぼんやりとしてしまっていた。その事実に急に狼狽し、僕は記憶の糸を必死に手繰り寄せた。
「えっと」
しかし過去の会話と今の質問がついぞ結ばれることはなかった。
「どういう意味?」
結局僕は降参して彼女にそう訊き返した。
その間もずっとソクラテスは真っすぐな眼差しで僕を見つめていた。まるで何かを見透かそうとしているかのようだ。彼女にはいつもそういう雰囲気がある。
「初めてなんだろう? 海へ行くの」
ああそこと結びつくのか、と僕は心の中で独りごちる。
いや、実際のところ、僕も海に行ったことがない訳ではなかった。とても幼い頃、両親に連れられて行ったことがある。ただ、当時の記憶は全くなく、家族三人で撮った写真でのみその事実を知っているというだけだ。
ただ、そんなことをわざわざ正確に伝えるのも面倒で、つい「海へ行くのは初めてなんだ」と言ってしまっていた。僕にはどうもそういう癖がある。
「いいよ、別に。海なんて、そんな特別なことじゃないだろ?」
「特別、の定義は人それぞれだろう?」
東海道本線の列車に揺られながら、時折陰影が僕達の体を通り過ぎていく。弱冷房車の柔らかい風が心地よい。
「そりゃそうだけど。そっちこそ、僕なんかで良かったのか?」
「全く何も問題ないが、なんか、は余計だ。君はもっと自分を大切にした方がいい」
とてもらしい言葉に僕は小さく笑ってしまった。
「そいつは僥倖だ」
「何が僥倖なんだ?」
ふと問われると、改めて何がそうなのか自分でもよくわからない。
ソクラテスがじっと僕を見つめる。焦げ茶色の中心に僕がいる。僕は面倒になって自分の内面からそっと視線を外す。藤沢駅が近づいてきた。彼女の雰囲気と、僕の癖。
「君の水着姿が拝める」
僕の言葉に、瞬きを三度。ソクラテスは小首を傾げる。
「水着は持ってないぞ。残念ながら」
「マジか」
心にもなく驚いて見せると、見透かしたように彼女は言う。
「私の水着姿なんて、特段需要はなかろう。まだキトンでも着た方が喜ばれそうだ」
「キトン?」
「いや、何でもない。冗談だ。忘れてくれ」
「君も冗談なんて言うんだな」
僕が小さく笑うと、彼女も小さく笑う。それはそれとして、と僕は言う。
「なんて、は余計だ」
自分の事は棚にあげて自信満々にそんなことを言う。
僕にはどうもそういう癖がある。
***
あれからもう何度か、海へ行くことはあった。
けれどもう二度と、あの時のように心動くことはない。
今でも耳を澄ますと潮騒の音が聞こえる気がする。彼女のスカートが翻る音、寄せ返る波の音。灯台の光が浅葱色の線を引きながら視界を横切って遠ざかっていく。
どうしてだろうね、と彼女は言う。
ただ来てみたかったんだ、と微笑む。
私は罪と罰を握り締める。忘れてしまったことは忘れてよかったこと。そんな歌詞が脳裏を過ぎる。でも、すべてがそうと言うわけじゃない。
忘れたくなかったのに忘れてしまっていたこと。そういうこともある。
あの日と同じ東海道本線に揺られながら、私はもう二度とそれを忘れてしまわないよう、ぎゅっとぎゅっと、心の奥底で握り締めた。
***
ソクラテスの話を初めて聞いたのは、高校一年の秋頃だったと思う。もちろん歴史の授業の話ではない。彼女のことだ。
その頃から既に彼女は学級委員を務め、様々な学校行事の先頭に立ち、何となく目立つ存在ではあった。そう、良くも悪くも。
それが何を目的としたものだったのかは覚えていない。朝礼で、気が付いたら彼女が全校生徒に向かって色々話をしていた。その中で引用されていたのが紀元前の哲学者ソクラテスが語ったという「無知の知」だ。
その熱弁を振るう様が、欠伸を噛み殺し寝惚けた眼を擦っていた全校生徒の記憶に何故か強く残り、翌日から彼女のあだ名がソクラテスになった。
今となってみれば、なんてことはない。どの学校にも一人や二人ぐらいはいる。真面目だけが取り柄のちょっとだけ悪目立ちする生徒。
カテゴライズしてしまうなら、彼女はそういう存在で。
そして僕はそれを取り巻く無名の生徒の一人に過ぎなくて。
――少なくとも、一緒に海に行くような関係ではなかったのに。
「これが噂に聞く江ノ島か」
藤沢から小田急線に乗り換え、片瀬江ノ島駅に降り立って一言。
ソクラテスは体を大きく伸ばしながら、いささか興奮した様子でそう言った。
「青いな、海が。雲も随分と白い!」
「小学生か」
思わず突っ込むと、彼女は声を出して笑う。そうすると何だか平凡な女子高生のようにも見え、僕も小さく笑ってしまう。
「言っとくけど、まだ本当の江ノ島には辿り着いてないぞ。この長い橋を渡って初めてスタート地点だ」
駅から少し歩くと県道305号に出る。砂浜沿いに伸びる江ノ島大橋の先を見据えながら、僕達はまた並び立って歩く。潮風が随分と強く吹き荒れており、彼女の長い黒髪を浚ってごうごうと耳元で鳴る。向かいからきた人が日傘を必死で握り締めているその様が少しおかしくて、僕達は悪戯っぽくそっと目配せをする。
高校二年生。名前を持たない十七歳の夏。
僕達はただの学生で、みちゆく人はそのことを何の疑いもしないだろう。
どうして僕達はどんな場所にいたとしても、そうあることができないのだろう。
ふと物悲しさが込み上げて涙が零れ落ちそうになり、僕は慌てて目元を拭った。
「どうした?」
「いや、目にゴミが」
本当のことを言わずにやり過ごそうとする。
僕にはどうもそういう癖がある。
やめたいのに、やめられないのだ。
「そうか」
彼女はそう言って一度前を向き、それからもう一度僕を見て、何気ない日常のような自然さでこう言った。
「良かったら手を繋がないか?」
***
同窓会会場には、一時間も遅刻して辿り着いた。
突然の飛び込みにも関わらず、お店の人は一名の追加をこころよく許してくれた。
靴を脱いで室内に入ると、既にいくつもの堀炬燵を囲んで見知らぬ顔惚れがわいわいと騒いでいた。私はその中から懸命に見知った誰かの面影を見出そうとしたが、結局誰のこともよくわからなかった。
考えてみれば当然だ。
当時、私には友達と呼べるような人は一人もいなかった。そういう存在にあまり興味もなかった。もし部屋を間違えていたとしても、私には気づく術などないだろう。
……いや、そんなことはない。
もし彼女がいるなら。
私はきっと気付く。例えどんなに姿が変わっていようと、制服でなくなっていようと、髪型が変わっていようと。
彼女が彼女であることをやめていないのなら、きっと。
「えっと、どちら様?」
きょろきょろと見回している私を訝しんだ何人かの中の一人が、恐る恐るといった様子で私に声をかけた。そのいがぐり頭にも、人懐っこいプードル犬のような面立ちにも一切記憶はなかったが、そんなことはどうでもいい。
「保野田。保野田優。出席番号15番の」
「保野田?」
いがぐり頭が助けを求めるように振り返るも、他の同級生も皆「そんなやついたっけ?」とこそこそ話し合っている。
ああ、そういえばそうだった、と私は心の中で呟く。
学校という特別な空間では、私達は皆、名前のある誰かでなければいけなかった。友達にせよ、先生にせよ、名前がないことは許されなかった。だから私も何者かを装うしかなかった。そんな自分が大嫌いで、心底疲れ果てていたのに。
今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。部屋を間違えましたとでも言って踵を返して、何者でもない世界に飛び出してしまいたかった。
それでも。
それでも、私はもう一度彼女に会いたかった。
……今でも耳を澄ますと潮騒の音が聞こえる気がする。彼女のスカートが翻る音、寄せ返る波の音。灯台の光が浅葱色の線を引きながら視界を横切って遠ざかっていく。
どうしてだろうね、と彼女は言う。
ただ来てみたかったんだ、と微笑む。
私の罪と罰。
水平線の彼方へ沈みゆく夕陽を見ながら、私はその横顔を綺麗だと思った。
――だから。
だから私は、私が装う何者を告げた。
「ソクラテスだよ。三年の時、生徒会長だった」
***
僕達は手を繋いで江ノ島大橋を渡り、青銅の鳥居をくぐって島をぐるっと一周することにした。途中、イカの丸焼きやしらす饅頭を頬張ったり、湘南ゴールドというアイスを食べたりしながら、驚いたり笑ったり。
今までほとんど話したこともなかったのに不思議と彼女といるのは居心地が良く、話が弾んだ。でもその話の中には、学校のことは一切なくて、好きな音楽や芸能人の話で盛り上がるばかりだった。
「君は意外と自分に素直なんだな」
僕がそんなことを言うと、彼女は誇らしげに頷く。
「好きという感情は何より大切だ。それだけで毎日エネルギーをもらえるんだ。こんなに素晴らしいことはない」
「その韓流アーティストの曲、もしかして踊れる?」
「いや、踊れない。だが練習中だ」
一人家の中で踊り狂うソクラテスの姿を思い浮かべて思わず笑ってしまうと、彼女は不服そうに唇を尖らせた。
「いけないか?」
「そんなことはない。でも想像すると面白い」
「安心しろ。鏡に映る姿は確かに滑稽だった」
「やっぱり」
「それ以来、練習する時は姿見を部屋の外に出すことにしている」
また二人して笑って、笑うなと冗談めかしながら小突いたり、小突き返したり。
僕達は他に何も望んでいなかった。僕達がいればそれだけで良かった。
でも、現実の影はどこにでもいて、知らない間に足元まで忍び寄っている。こんな時でも。どんな時でも。
「あれ、ソクラテスじゃね?」
長く急な階段を頑張って降りると、ごつごつとした岩肌が剥き出しの切り立った崖の下に出る。有名な岩屋に続く舗装された道を進んでいくと右手に彼方まで広がる海が見渡せて、僕達は目を輝かせながら波の押し寄せるところまで行こうと歩き出した。
まさにその時だった。そんな声が聞こえたのは。
振り返ると、同じ学校の生徒がこちらを指差しながらこそこそと話しているのが聞こえた。
「ソクラテスでも江ノ島とか来るんだ」
その無神経な姿に腹が立って思わず踵を返そうとすると、ぐいと彼女に手を引っ張られた。
「いいから」
「でも」
「いつものことだよ」
諦観を含んだその言葉に、僕は言葉を失い、彼女は微笑んだ。
どうして僕達はそんな風に、生き方や振る舞いを誰かに制限されなければいけないのだろう。何者であるかを強要されて、それをいつものことなんて言い聞かせながら、割り切らなければいけないのだろう。
引っ張られるがまま水溜まりを避けて波打ち際へと近づく。どこまでも続く青と白。自由を正面に見据えながら、僕達はどこへも行けない。
夜が来れば、家に帰る。明日になれば、学校へ行く。
僕達は、どこへも行けない。
でも。
「振り返らないで」
ソクラテスはそう言って、僕は彼女の横顔をじっと見つめた。
「できるだけここにいよう」
僕は少しの間を置いてから、強く頷いた。
「うん」
ぎゅっと掌を握り締めると、彼女も同じ強さで握り返してくれた。
それだけで、例えどんなに強い風を浴びたとしても、それで二人のスカートがどんなにばたばたと鳴き喚いても、一緒にいられると思った。
***
ソクラテスという単語を誰も彼も連呼することにうんざりしながら、私は彼女のことを訊いて回った。けれど結局彼女は同窓会には参加していないようだった。
その可能性を少しも考えなかった訳じゃない。けれど少しでも可能性を信じたかった。きっとこの時を逃したらもう二度と彼女には会えない気がして。
それ故に、彼女がいないと分かった途端、途方もない失意が胸に広がるのを感じた。
幸い、私に関する思い出話は長く続かず、気づいたら輪の一番外に外れていた。適当に相槌を打って――社会人になって身に着けたスキルだ――場の空気を見つつ、お手洗いにでも行くかのような自然さで無言のまま席を立った。
引き戸をぴしゃりと占めると、部屋の中の喧騒はほんの少し遠ざかった。ほーっと長い息を吐いて、それからゆっくりとヒールに足を通す。鏡を見ると、少しの疲れを化粧で誤魔化した自分の顔が映って、ふと視線を外した。
あの頃と違って、私はもう大人だ。見た目も、悪知恵も。
皆には悪いけれどこのまま帰ってしまおうと店を出た。とりあえず大通りに出て、駅はどっちだっけと左右を見回したところで、どきりと心臓が跳ねた。
もしかしたらただの見間違いかもしれない。私が願望の余り、ほんの少しでも似ている要素を探してしまっているだけなのかもしれない。
でも、きっと。
私は気づく。例えどんなに姿が変わっていようと、制服でなくなっていようと、髪型が変わっていようと。
彼女が彼女であることをやめていないのなら、きっと。
私は振り向く。その姿を捉える。祈りよりも強く、確信よりは弱く。
***
宵闇が彼方から近づいてくると、海は少しずつ黒く染まってゆく。たくさんいた人もぽつぽつと姿を消して、ただの波の音だけが静かに響いた。
握り締めた掌の汗が少しずつ冷えていくのを感じながら、それでも僕はずっと正面を見つめていた。何だか吸い込まれてしまいそうな自由を前に、彼女がその中へ消えてしまわないように。
掌の感触だけを頼りに、二人、海に一番近い場所で立ち尽くしていた。
「嫌いなんだ、あだ名」
長い沈黙の後、彼女がぽつりと呟いた。
「それだけなんだ」
「ん?」
「海へ来たかった理由」
「……そっか」
「うん」
「いいと思う」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
「そうじゃなくて」
「うん?」
「一緒に来てくれて、ありがとう」
「……どういたしまして」
また少しの沈黙。水平線の彼方へ沈みゆく夕陽を見つめながら、彼女は口を開く。
「訊いてもいい?」
「何?」
「どうして、一緒に来てくれたんだ?」
高校二年生。名前を持たない十七歳の夏。
「……どうしてだろうね」
あの頃、理由はそれだけで十分だった。
「ただ来てみたかったんだ」
「そうか」
「ありがとう」
「変だよ、それは」
「変じゃないよ」
「そうか?」
「うん」
だから、僕は心の中に湧いてきた小さな願いを、勇気を出して言葉にすることにした。
「なあ、また海に来ようぜ。今度は土曜日か日曜日か、とにかく学校がない日に」
「どうして?」
「嫌いなんだ、制服。というかスカート」
「そうか」
「うん」
「私も、見てみたい。制服じゃない君の姿を」
「二人で水着でも着ようか?」
「嫌だ。需要がない」
くすくすと笑い合って、僕は言う。
「僕達は二人とも、もっと自分を好きになった方がいい」
何者でもない自分を。例え他の誰が望んでいなかったとしても。
親も、先生も、同級生も、誰も彼もが困惑し、時に嘲り、時に糾弾したとしても。
また長い長い沈黙を挟んで、辺りはすっかり暗くなり、僕は彼女の掌をぎゅっと握り締める。
僕からは言えなかった。言いたくなかった。
だから彼女の言葉を待った。
「……帰ろうか」
ふと握り締めた指先を解いて、彼女が僕を見る。小さく息を吐き出し、それから柔らかく微笑む。
僕はしっかりと頷く。
「ああ。帰ろう」
一緒にいたいと。また海に来くることを約束したいと思ったその気持ちを。
ほんの一滴でも零すことなく、現実に持ち帰れるように。
***
結局のところ、彼女は親の都合で転校することになった。
学校は相変わらず私に何者かを強要し、私は望まれるがままに生徒会長になって高校三年という時間を終えた。
今思えばそれはひとつの季節に過ぎず、長い人生の中のほんの一節に過ぎなかった。大学に入ると皆少し大人びて、社会人になると自分の幼さに嫌気が差して、数年経つと新入社員が随分と子供っぽく見えたりなんかして。
それでも、その季節の中で降り積もっていった小さな傷跡を抱えながら、私は今も生きている。
「春希。皆川春希!」
私は振り向く。その姿を捉える。祈りよりも強く、確信よりは弱く。
彼女が小さく手をあげる。細い指先がゆらゆらと揺らめいて、彼女は小さく微笑む。
「やあ、久しぶり」
私達はきっと友達ではないと思う。高校二年の間で深く関わったのはあの日だけだ。
でもただの同級生ではない。絶対に。
「元気だった?」
歩み寄ってきた彼女はすらっとした長い脚を紺色のパンツに包み、白いシャツの上に夏用のジャケットを羽織っていた。センターパートの髪は短く切り揃えられており、前髪が微かに緩やかなウェーブを描いている。
その大人びた表情に、けれど彼女らしい姿に、私は自然と笑みを返した。
「なかなかに大変だよ、今も昔も」
「そうか。それならさ」
一呼吸置いて、彼女は悪戯めいた笑みを浮かべる。
その笑みは、あの夏の日、私の呼びかけに応えてくれた時と何も変わらない。
どくんと心臓が高鳴る。潮騒の音が聞こえる。過ぎゆく日々の中でどんどん零れ落ちてしまったあの感情が蘇る。
「海に行こうぜ、優。約束通り、また二人で」
ありがとう。私は心の中で呟く。あの日出会ってくれて、本当にありがとう。
私は力強く頷く。
忘れがたい夏が、また訪れる。
忘れがたい夏がまた訪れる 夕目 紅(ゆうめ こう) @YuumeKou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます