第3話
「クランデスティン公爵様、おめでとうございます!」
「カルミア様、お幸せに!」
雲一つない抜けるような青空が心地良い春の日、イベリスはガロットと共に隣国トレンドキルを訪れていた。エントゥーム伯爵令嬢カルミア──今日からはクランデスティン公爵夫人となる女性の結婚式に参列するためだ。
イベリスの要請を受け、ガロットがカルミアを国使として国外に避難──送り出した結果、彼女は見事現地の外交官を射止めたのである。
「おめでとう。今日のあなたはいつも以上に美しいわ」
「ガロット様、イベリス様……本当に、本当にありがとうございます。領地の支援だけでなく、個人的な夢まで叶えていただいて。こうして望外の御縁に恵まれて、本当に幸せです」
カルミアは幸福いっぱいの笑顔で、潤む瞳に幸せを湛えている。イベリスは彼女を救うことができた安堵と万感の歓びに相好を崩した。
サンドルがカルミアを見初めたのは、エントゥーム伯爵領の災害支援に居合わせたことがきっかけだった。サンドルにとっては幸運な公務だったが、カルミアにとっては不運としか言いようがない。彼女は領と領民の支援のため、予定していた隣国留学を延期していたのである。清冽な彼女の気遣いがサンドルという災厄を引き寄せてしまったのは悲劇としか言いようがない。
更に皮肉なことに、彼女が学ぼうとしていたのは教育。サンドルが蛇蝎のごとく嫌う、『知性』を育むための制度づくりだった。
(だから私たちは、カルミアを国外に避難させた)
カルミアの不幸を避けるためには、徹底的にサンドルと出会う機会を潰してしまえばいい。ガロットはサンドルの地方公務からエントゥーム領を徹底的に外し、イベリスはブラッドバス侯爵家の名代としてエントゥーム領を手厚く支援した。仕上げにガロットが後ろ盾となり、王家の推薦という形でカルミアの留学を後押しし、彼女から災厄を遠ざけたのだ。
勿論並行して、ガロットの地位を盤石にする努力も二人で重ねている。王領の中でも高温多湿、水資源が豊富な土地をガロット直轄の農業試験場とし、米の栽培と備蓄を行なっている。加えて、寒波に備えた小麦の品種改良も行った。
イベリスの前世記憶で補いきれない知識──そもそも稲が見当たらない、掛け合わせるべき小麦の種類がわからないといった壁にぶつかることもあった。先立つ予算がなくて困ることもあった。しかし彼らは孤独ではなかった。鑑定魔法持ちを雇用したり財務官を口説き落としたりして埋め合わせれば、かえってガロットの支持基盤は盤石になっていった。
「……これで大丈夫ですね」
「そうだな」
教会から出てきた公爵夫妻に向け、イベリスとガロットは花びらの雨を降らせた。この儀式には新郎新婦を悪魔から守るという意味もあるらしい。まるで誂えたような慣習に、イベリスは思わず頬を緩める。
これから内政は佳境を迎える。カルミアに会える機会は当面ないだろうが、もう大丈夫だろう。
幸福な花嫁に向けた餞を空に振りまき、イベリスは隣国を後にした。
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カルミアの婚姻から数年が経った頃、王国を未曾有の大寒波が襲った。物語では飢饉が起こりサンドルが力をつけるきっかけになった大事件だ。
寒波が訪れた当初、サンドルは傍目にも大層歓喜していた。瞳を爛々と輝かせて『知性の敗北』、『虚飾の智慧に自然が与えた罰』などと曰い、溢れる興奮を隠さなかった。『今こそ自然に還る時! 採取と狩猟が人を生かす』──サンドルと彼にへつらう者たちは、ここぞとばかりに国民を扇動し始めた。
情勢不安が懸念されたが、ガロットが直轄地の備蓄を放出すると宣言したことで潮目が変わった。国民は歓喜し、混乱し始めていた国内情勢は速やかに落ち着きを取り戻した。
国民のガロットに対する信頼に反比例し、サンドルの世論誘導は急速に支持を失っていった。誰だって飢えたくはない。高邁だが不安定な『あるべき暮らし』より、目の前のパンに手を伸びるのは致し方ないことだろう。
ところが、少し頭が回れば自明であるのに、サンドルはガロットに対し怒り狂った。崇高な思想を邪魔する兄、知性に迎合する愚昧な兄。到底実態にそぐわない言葉でガロットを貶めようとしては嘲笑され、狂信者たちでさえ少しずつ剥がれ落ちているという。
食糧事情のみならず税制度や国民福祉にも着手した結果、ガロットの政治基盤は到底揺るがぬ盤石さを見せている。サンドルのそれとは天と地の差だ。追い落としたくても隙も力もなくて、サンドルは日々歯噛みして過ごしているらしい。
「……サンドルの直轄地は餓死者も転出者も減る気配がないな。病を得ても救済が得られないなら当然か」
「家族が亡くなっても墓を建てることすら許されないそうです。『自然と共に生きる者の宿命』を受け入れろと」
ガロットとイベリスは、王宮の執務室で話し込んでいた。互いの手元にあるのはサンドルの直轄地に関する内部調査資料だ。ガロットの農業試験場に対抗してか、サンドルも数年前から領地経営に乗り出している。彼の言い分では『理想の世界』の実験場だそうだ。
「あいつに任される前は肥沃で豊かな土地だったが、今は見る影もないだろうな」
直轄地で暮らすのはほとんどがサンドルの支持者で、ガロットとイベリスにとっては敵陣営とも言える。それでも無辜なる人々に罪はない。救えなかった人々を思い、イベリスは胸が引き絞られる。
「サンドル殿下の望んだ『理想の世界』はそこにあるのでしょうか」
「どうだろうな。ただ、いずれにしてもあいつの理想郷はもうすぐなくなる。あのぼんくらな父上も、ようやく直轄地を取り上げることにしたようだ」
「まあ、そうなのですね」
イベリスは朗報に胸を高鳴らせた。直轄地という大きな支持基盤を失えば、サンドルによる惨劇発生の可能性は一気に低くなるだろう。
「……もうすぐだ」
「もうすぐですね」
互いの心を読んだように、声が重なり合う。イベリスとガロットは互いに微笑み合った。
窓からやわらかな陽光が差し込み、光の斑が執務机にやわらかな彩りをもたらしている。穏やかで優しい空気が二人の間に漂い始めていた。
「イベリス」
「はい」
「長い緊迫感と重圧に耐えられたのは、ひとえに君がいてくれたからだ。君がいなければ、私は王太子の地位を……この国をあっさり見捨てていたかもしれない」
イベリスは息を呑む。ガロットの静かな告解は、思いのほか深刻で重大な内容を孕んでいた。
「重たい課題ばかりで息が詰まる中、長きに渡り私を支えてくれてありがとう。私の隣にいるのが君で良かった」
「いいえ。わたくしが好きでやっていることです」
物語でも今世でも、イベリスはガロットをずっと支えている。はじめは友として。前世を思い出してからは一蓮托生の相棒として。そして今は、深い思慕を抱く未来の伴侶として。
「これからはもっと、婚約者らしい時間も過ごしたいな」
ガロットは立ち上がり、イベリスをそっと抱きしめる。彼の胸郭はいつも、イベリスを頼もしく支えてくれる。
イベリスも彼に応えたくて、広い背を抱き返す。愛する人の体温を全身で感覚し、喜びを噛み締める。
「願ってもないことです」
イベリスの承諾にガロットは目を細める。
やがて二人の影が近づき、唇が重なり合う。
甘い沈黙が、執務室を静かに包み込んだ。
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それから間を置かず、サンドルに与えられた直轄地は取り上げられた。直轄地の実態──生産性がなく疲弊するばかりの運営状況が陛下の耳に入ったからだ。水面下でガロットの働きかけがあってのことだった。
「何故です! 何故ですか父上!!」
王宮で直轄地返上の勅令を受けたサンドルは、怒髪天を衝く勢いで捲し立てた。会議室内はガロットのほかに国内有数の高位貴族が列席している。どう足掻いても醜聞にしかならない状況にもかかわらず、彼は食い下がり続ける。
「"汝が統治せし直轄地、著しく衰微し民を苦しむること甚だしき故、これを王室預りとす"……あまりに度し難い、度し難い! 到底承服しかねます!」
サンドルは机を力任せに殴る。その衝撃で、彼が読み上げた勅書がひらひらと床へ落ちていく。
「これは崇高な実験です! 脆弱な者を葬り、真に強い魂のみを残すための選別なのです!」
列席者の冷ややかな視線を意に介さず、サンドルは狂ったように咆哮する。
「昨日だって、穀物庫で餓死した農奴たちは祝福されたのです! 肉体の枷から解放され魂が自由になったのです! 彼らを苦しめたなどと断罪される謂れはありません!!」
「殿下……もう我慢なりませぬ」
聞くに堪えない妄言を断ち切るように、壮年の監督官が口を挟んだ。サンドルの腹心だったはずの彼の声は怒りで震えている。
「『実験』はもはや人道を逸脱しております。死者は数百を、逃散者は数千を超えております。救済などありませぬ……あれは虐殺でございます」
サンドルは血走った目で男を睨みつけた。
「貴様……っ、貴様ァ!! 貴様の如き俗物に理想がわかるものか! これは啓蒙だァ!」
サンドルは監督官の襟元を掴んでぎりぎりと絞め上げる。老爺は目を瞠ったまま、抵抗もできず凶行に晒される。
「我に背く者は邪悪だ! 魂を洗濯し直せ!」
サンドルは狂犬のように暴れ続ける。どんな狂人であろうと彼の王位継承権は二位。臣下は誰も強く出られず、会議室の空気は収拾がつかなくなっていく。
その時サンドルの背後に近づく者がいた。
重い打擲音が響き、サンドルはぐしゃりと床に崩折れる。
ガロットがサンドルの──愚かな弟の顔面を、拳で強かに殴りつけたのだ。
「がッ……、ぐ、お゙えッ」
サンドルは鼻と口から血を垂れ流している。狂気とは別の呻きを漏らして床を這いずる。
ガロットは監督官を助け起こすよう目配せし、蛆のように蠢く弟を酷薄な目で見下ろした。その顔は怒りを超越し、石のように硬く冷え切っている。
「穢れた口を閉じろ。この愚物が」
ガロットはサンドルに分厚い報告書を突きつける。そこには餓死者の検死結果や名前が記載されている。
「……お前の吐き気がするような下らない『実験』で亡くなった者の記録だ。彼らには名があり、家族があった」
「兄上! 下らないとはどういう了見ですか?! 彼らは魂の昇華を遂げたのですッ!」
「昇華? 数百の尊い命をごみのように扱ったことが?」
「先ほどからそうだと言っておりますッ! 何故誰も……何故誰も私の理想を理解しない?! ごみはお前だ、お前らだ!! 科学と宗教の奴隷どもがッッ!!」
サンドルは立ち上がり、尚も妄言を撒き散らす。瞳孔は開ききり、血に塗れた顔面もそのままに髪を振り乱す姿は到底王族のそれではない。
ガロットはおろおろするだけの現国王──二人の父親たる男に目を転じる。
「陛下。これは残念ながら病を得ているようです」
「しかし、ガロット……」
「別邸に送ります。気になるなら見舞いに行けばいいでしょう」
国王は肩を落として頷く。こんなに無様でも血を分けた息子だ。哀れに思うのも仕方ないのかも知れない。
だが、あまりにも犠牲が多すぎた。直轄地の没収が遅すぎた。ガロットは父親の意思決定の遅さを心底憎んだ。
「次の議題は?」
サンドルを退室させると、会議室がようやく秩序を取り戻す。
ガロットが問うと、呆気にとられていた文官は慌てて会議を再開する。
議題は現国王の退位とガロットの戴冠。
誰からの疑義もなく、全会一致で承認された。
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その夜、イベリスはブラッドバス侯爵家のタウンハウスで彼を迎えた。ガロットは即位の喜びなどかけらも見せず、憔悴しきった顔をしている。右の拳に巻かれた包帯はまだ新しい血が滲んでおり、イベリスは王国会議が一筋縄では行かなかったことを察した。
項垂れるガロットを私室の長椅子に座らせて、イベリスは彼をそっと抱きしめた。
「人を……血の繋がった弟を殴ってしまった」
いつも頼り甲斐に溢れたガロットは、いつになく弱々しく、儚く消えてしまいそうだった。イベリスは彼を繋ぎ止めるように、何も言わず腕に力を籠める。
「ご自身を責めないでください。わたくしが居合わせてもきっと同じことをしました」
「そうかな……」
ガロットは元来優しい人だ。民を労る心と家族への情に挟まれ、心が崩れかかっている。イベリスは彼の心細さを感じ取り、ただ寄り添い続ける。
「即位は決まったけど、これで終わりじゃない。あいつはまだ狂っている。やることは山積みだ」
ガロットはイベリスにその身を擦り寄せる。イベリスは彼を迎え入れ、形のよい頭を胸元に抱え込む。
「でも……今日はまず君の温もりを借りたい」
「生憎貸し出しはしておりませんの。だから差し上げますわ」
「……助かるよ、ありがとう」
ガロットの声に僅かに生気が戻り、イベリスはひっそりと胸を撫で下ろす。
サンドルの錯乱はいよいよ常軌を逸している。直轄地を取り上げ別邸に軟禁したとはいえ、振り切れた心が落ち着いたわけではなさそうだ。危険の芽はまだ根絶やしにできていないだろう。
(それでも、今だけは安らいで欲しい)
ガロットを抱きしめながら、イベリスは彼の心に思いを馳せる。灯りを忘れた室内は、星影だけがひっそりと差し込んでいる。
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