ゴーリーエンドの花嫁:転生令嬢は文明否定の狂気から国を救う
堂瀬谷
第1話
「あ」
スープを一さじ口に運んだ母が、かすかな叫び声を上げた。
「……スープに何か?」
髪の毛? という言葉を飲み込み、イベリスは母に尋ねた。
「いいえ、大丈夫よ。今日の予定のことを考えていたの」
柔らかく微笑む母を見てイベリスは安堵したが、同時に一つの疑念が浮かび上がってきた。
(どうしてスープに髪の毛が入っていると思ったのかしら。ああ、昔読んだ小説に状況が似ていたから──)
そこまで考えて、イベリスは眉を顰めた。スープに混入した髪の毛を気にする小説は、彼女が生きる世界には存在しない。突如浮かんだ得体の知れない記憶に思考を巡らせると、イベリスの脳内に前世の記憶が一気に展開された。日本、文明、異世界──雪崩込んでくる情報の洪水により、とうとう彼女は自分が何者であるかを思い出した。
ここは、ウェブ小説『ゴーリーエンドの花嫁』の世界である。
イベリスは立ち上がり叫びだしたくなったが、今生の教育が染み付いた心身のおかげでどうにか持ちこたえることができた。家族や使用人の方へこっそり目を転じても、誰も不自然に思った様子はない。イベリスはひっそりと胸を撫で下ろした。
(あんな荒唐無稽な作品に転生だなんて……これからどうしたらいいのかしら)
要約すれば、『ゴーリーエンドの花嫁』は元侯爵令嬢イベリスと元王太子ガロットが燃え上がる恋の話である。燃え上がるとは比喩ではなく物理の話で、すなわち二人は地獄の業火に焼かれて死ぬのである。
(没落も丸焦げも絶対嫌。まずは物語全体を大観するところから始めましょう)
貴族令嬢らしい落ち着きを心に取り戻したイベリスは、食事を進めながら『ゴーリーエンドの花嫁』に関する記憶を洗い直す。
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冤罪により王都を追放された元侯爵令嬢イベリスは、流れ着いた辺境ゴーリーエンドで針仕事をして暮らしていた。失意から立ち直りつつあったある日、納品のために訪れた町の救護院で窶れきった元婚約者──王太子ガロットに思いがけず再会する。
ガロットの語るところによると、反乱分子を粛清しようと動いていたら黒幕である第二王子サンドルに嵌められて辺境の森に捨てられたのだそうだ。
『君の……ブラッドバス侯爵家の冤罪を晴らせずすまない』
『いいえ、ガロット様。そのお気持ちだけで十分です』
ガロットは涙ぐみ、対峙するイベリスもまた涙を流す。過去の婚約は政略だったが、嫌い合っていた訳ではない。少なくともイベリスはガロットを愛していたし、穏やかで聡明な彼との結婚生活を夢見ていた。貴族でなくなったことよりも彼との未来がなくなったことが辛いと感じるくらいには。
『ガロット様、よろしければ我が家にお越しになりませんか? 体調が回復するまでお手伝いをさせて下さい』
『ありがたい申し出だが、あいにく代価になるようなものを持ち合わせていないんだ。しばらくは救護院で世話になるよ』
『いいえ、代価なんて頂けませんわ。わたくしもこの町の人に助けられて今があるのですから』
『しかし……』
『それでは、御礼の代わりに約束をして頂けませんか? ガロット様が元気になって困っている人を見つけたら、手を差し伸べると』
イベリスは微笑んだ。ガロットは驚いていたが、やがてイベリスに釣られるように表情を綻ばせた。
このとき、一度切れたはずの二人の縁は再び結びついたのだ。
イベリスが献身的にガロットを支えたお陰で、ガロットは順調に健康を取り戻した。健康になったガロットは町の商会に仕事を得たが、イベリスのもとを離れることはなく、代わりにお金を入れてくれるようになった。イベリスの住まいにはガロットの持ち物が少しずつ増え、会話と笑顔はそれ以上に増えた。
家が手狭になっても同居は解消せず、新しく二人で住める家を探した。いつの間にか一緒にいることが当たり前のことになっていた。
二人揃って新居に移り住んだ夜、ガロットはイベリスに想いを伝えた。
『君を愛している。ここからまた始めよう』
真摯な言葉にイベリスは心を鷲掴みにされ、涙を流して何度も頷いた。この夜、二人は溶け合うようにひとつになった。
幸福な蜜月を過ごしていたある日、イベリスとガロットは教会のバザーに赴いた。そこで、かつて交流があったエントゥーム伯爵令嬢カルミア──第二王子サンドルの婚約者であるはずの女性に再会する。
驚きながら話を聞けば、カルミアもまた二人と同じように王都を追われていた。父たる王さえ排し、権力のすべてを手中に収めたサンドルは、カルミアとの婚約を破棄したうえで彼女の実家であるエントゥーム伯爵家を奪爵に処した。命の危険を感じた伯爵家は死を偽装して一家離散し、カルミアも命からがらゴーリーエンドへ逃げ延び、今は教会で子供に読み書きを教えながら家族の無事を祈っているのだという。
『どういうことだ? エントゥーム伯爵家は篤実な家だったし、カルミア嬢も優秀だ。何よりあいつの……サンドルたっての希望で成った婚約だったはずなのに』
困惑を隠せないガロットに、カルミアは悲しげに語る。
『サンドル様が言うには、豊かな人間は国を破滅させる存在なのだそうです。全員、一人の例外もなく』
『どうして? 豊かさは人を幸せにするのではないの?』
イベリスが思わず口を挟むと、カルミアは悲しげに首を振り、おぞましいサンドルの思想を語り始めた。
『サンドル様の描く理想の世界には知性が不要だからです。彼は文明を捨て、自然に従い生きる世界を実現しようとしているのです』
カルミアが語るところによると、サンドルは『科学、宗教、芸術は罪であり惰弱の元である。罪に資して悪徳を発展させようとする貴族など不要である』という思想を抱いているらしい。
サンドルは或る日カルミアを王宮に呼び出し、求婚の言葉とともに『理想の世界』を陶然と語った。彼の話からおぞましさを感じ取ったカルミアは考え直すように頼んだが、意に沿わない反応をする婚約者にサンドルは激昂し、家ごと取り潰した。
『私はどうにか逃げ延びましたが、良識ある人の多くは神のもとに旅立ってしまいました』
涙を流すカルミアに、イベリスもガロットも何も言えない。かつて生まれ育った地が、愛した国がまさに滅びようとしていることがただ悲しかった。
『イベリス様の──ブラッドバス侯爵家の冤罪もサンドル様が仕組んだものです。怒り狂った拍子に口を滑らせていましたから間違いありません』
『……そうだったのね』
イベリスは当時を思い返し唇を噛んだ。あれは単なる権力闘争の敗北ではなく、政変の始まりだったのだ。続けてカルミアが語るところによれば、王都周辺の領地は既に領主が挿げ変わっているらしい。
『まずは王都とその周辺からということなのでしょう。軍備を整えたらこちらに手が伸びる可能性は否定できませんが』
『……自然に従うと言いながら戦闘は厭わないのね』
『それが彼の矛盾です。正せる人はもういません。だからせめて、安寧を祈り続けようと思っています。それしかできないとも言えますが』
カルミアを責めることなどできない。カルミアもイベリスも、王太子だったガロットでさえ国政を動かせる力をすでに失っている以上、できることはささやかだ。
『……せめてみんなの息災を祈りながら、与えられたこの場所で幸せに暮らせるよう努めよう』
ガロットの提案に同調し、三人で頷き合う。
辺境は王都から離れている。サンドルの手も当面は及ぶまい──この時はそう思っていたのだ。
数ヶ月後、ゴーリーエンドの街は燃え上がった。
赤々とした炎が屋根瓦を舐め、壁を焦がし、通りを埋め尽くす人々の影を照らし出す。遠吠えのような風の音と、逃げ惑う人々の悲鳴が混ざり合う。
「どうして……」
イベリスは膝を折り、崩れ落ちた家々の残骸を見つめる。ガロットが彼女の肩を支えるが、彼の手もまた震えていた。サンドルはこんなにも早く追ってきたというのか──かつての義弟の妄執と狂気に、イベリスはただ圧倒される。
「──ご無事ですか!」
その時、煙の中から誰かが現れた。煤けた修道服に乱れ髪、よく知った声──カルミアだ。
「王国軍です! サンドルが……サンドルが来ています! どうかお二人とも早く──」
「はははははは!!!」
その言葉を遮るように、甲高い笑い声が響いた。振り向いた先に立っていたのはサンドルだった。
彼の瞳は炎に照らされ、爛々と輝いている。
「久しぶりだねカルミア。お前は煤けた修道服でも美しいな」
サンドルがゆっくりとカルミアに歩み寄る。手には炎魔法が燃え盛る剣が握られている。
「王国軍だって? あいつらは僕の価値を何一つ分かっていない。これは僕だけの浄化作戦だ。文明の腐臭を焼き払う聖なる儀式だよ」
「何を言ってるの? 神聖な要素なんてどこにも、」
「うるさい! うるさいうるさいうるさい!!!」
サンドルの顔が醜く歪む。
「カルミア、何故俺を袖にした?! 理想郷の何が気に入らなかった!! ああ……お前の存在こそが過ちだ。そして兄さん、イベリス……皆が、皆が僕を狂わせたんだ!!」
狂気に燃えた瞳が、カルミア、ガロット、イベリスを順番に射抜く。短剣を握る手に力が籠められる。ああ、私たちを葬るつもりなのだ──イベリスは怖気立ちながらも、サンドルから目を離せない。
「お逃げください! どうかお二人だけでも生きて、ッ」
カルミアが言い切る前に、サンドルは短剣をカルミアの背に突き刺した。
「いやあああああ──────!!」
あまりにも酷い眼前の惨劇に、イベリスは血を吐くような叫びを上げた。カルミアは物も言わず倒れ伏したきり微動だにしない。
「残念だよカルミア……僕の完璧な計画に君は不可欠だったのに」
叫喚と灰が舞う中、サンドルは笑みを浮かべている。その足はガロットとイベリスの方へと向いている。
「君たちもすぐ送ってあげる。この土地ごと生まれ変わりのための贄となるんだ」
一歩、また一歩。知った顔の狂人が近づいてくる。イベリスは恐怖で歯の根が合わぬほど震え上がる。
ここで死ぬのか──イベリスが考え始めた時、傍らのガロットが懐から何かを取り出した。
「──イベリス、目を瞑れ!」
ガロットに思い切り肩を押され、イベリスは地面に倒れる。イベリスは慌てて瞼をきつく閉じたが、轟音と共に眩い光が広がったのが感覚された。
何かが爆発したようだが、ガロットは無事だろうか──おずおずとイベリスは瞼を上げる。
「ああ……そんな……」
イベリスの瞳に、炎に包まれた二つの影が映る。ガロットはサンドルを組み伏せるようにし、生きたまま焦熱の業火に焼かれていた。一方のサンドルは、心臓に剣を突き立てられ既に事切れている。ガロットが渾身の力で相討ちに持ち込んだのだ。
「ガロット様……ガロット様!!」
イベリスは半狂乱で立ち上がり、熱波に肌を灼かれることも構わずガロットの元に駆け寄った。炎の渦の中、ガロットは既に美丈夫の面影を喪っていたけれど、それでも優しく彼女を見つめていた。
「イベリス……愛してる……」
「わたくしもです……だから、どうか最期までお供させて下さい」
イベリスは燃え盛る炎ごとガロットを掻き抱いた。因果の炎がイベリスの肌や髪、全身を具に焼き尽くす。もう熱さは感じない。剛炎に意識も呑まれていく。
あなたと一緒に生きたかった。
叶わないならせめて、共に灰になりましょう──
そして全てが燃え尽き、灰燼と化した街には誰もいなくなった。
十年の歳月が過ぎた。ゴーリーエンドは新たな人々を迎え、少しずつ街の形を取り戻していた。
けれど、イベリス、ガロット、カルミア──ただ真摯に生きようと願った者たちの名はどこにも残らない。教会の跡地に咲く花は、嘗ての炎を知らずただ風に揺られている。
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