ビーフストロガノフにはご注意を

ハナビシトモエ

母さんの機嫌がいい今日この頃

 朝から鼻歌を奏でている母さんを後ろに居間でゲームをしながら感じていた。こういう日は父さんが仕事で夜勤を終えた日にやってくる。今日の夜、帰宅したらご飯はビーフストロガノフだ。


 材料はまるでこの日の為に買った無農薬野菜一式を使う。今日はジャガイモと人参にほうれん草と定番のキノコ類のようだ。牛肉も父さんが事前に夜勤だと言った日にステーキ肉を買ってくることが多い。


 ご飯を作る手伝いをしたことが無いので、高校生も半分を終えた自分がいきなり「母さん、ご飯手伝うよ(はあと)」なんて後に思い出しても闇歴史になるだけだ。高校生になってお母さんの手伝いはプライドが許さない。男は台所に立つなと祖母に教わり、その教えを今に至るまで守り続けている。


 高校で隣の席の池谷が彼女と休日に料理を一緒に作っている話や、他の連中が「料理作れる男子」についてわいわい話しているのを聞いて、本当は料理を手伝った方がいいのではないかと思ってきた。それでも初めてが母さんは嫌だ。


 卒業は好きな女の子としたい。


 女の子にメって言われながらの料理は少し憧れだ。初彼女はつたなくてもいい、一緒に成長出来るのはいいことだ。

 焦げ焦げのカレーを作って、七転八起でもいい。焦げた鍋は買い直せばいい、それで家庭の味を作っていくのだ。


 いつか池谷に「料理が下手でもいいから可愛い女の子落ちていないかな」とたずねたことがある。池谷は「落ちている女の子を拾うという待ちの姿勢があるうちはダメだ」と講釈垂れてきたので、池谷には教えを乞わないことにした。池谷の彼女はいい匂いがするので、どうせなら恋愛相談は池谷の彼女にしたい。野郎の恋バナはいらない。


 池谷の彼女でもいい匂いがしたらラッキーだし、エア彼女を体験できるので、それはそれで美味しい。鈍感なやつなので、池谷の彼女目当てで休み時間に池谷の席の机に座るのには気づかないのだ。


 これでいい匂いのする女の子の匂いをかぐ男子高校生が誕生したと、ほくほくとした気持ちで毎日を送っていた。ある放課後に旧校舎に使わなくなった机類を部活の後輩たちと運び込んだ。


 廊下の奥から悲鳴が聞こえた。既に後輩は練習に戻り、校舎には僕だけだ。悲鳴をした方へ転がっていた指示棒を持って奥へそろりと向かった。トイレの中から悲鳴、不審者、無理やり。


「誰だ!」


 声は緊張でかすれて言葉にならなかった。

 その瞬間は忘れないだろう。池谷が彼女と保健体育の実践である。そちらに夢中で二人は気づかないほどだ。


 料理の出来ない彼女を探すふりをして池谷と池谷の彼女に教えを乞うではなく。そのふりをしつつクラスの女の子との繋がりを築いていく。


 カレーは難しいから、簡単な料理でポテトサラダを作る程度の女の子を探そうと思って、手近な前の女子に話しかけるにはまずは僕が簡単な料理を作ることが出来る腕が必要となる。


 母さんに料理を伝授してもらうまでに来るプライドと男子高校生の所作が料理を教えてくださいという意欲を失くす。


 ビーフストロガノフを作る男子はかっこよく映るだろうか。頭の中で何度もリハーサルをした結果、この料理はマイナー過ぎてビーフシチューと言われたら終わりである。

 心を込めて作ったビーフストロガノフはビーフシチューと変わらないのではと思って調べるとほぼ一緒ということが分かった。


 なおさら手をかけてもビーフシチューの方が通りはいい。まずはジャガイモを切るところから覚えた方がいいようだ。


 母さんの得意料理なのか、父さんの大好物なのか。一回に作る量が多いせいで、月に二回やってくる母さんの機嫌のいい日は二夜連続ビーフストロガノフも珍しくはない。


 大学生になり、家を出た兄は出立の前の日に「ビーフストロガノフは怨念の味なんだ。弟、強く生きろよ」と言って、出て行った。美味しくて材料もいいから、怨念の味を作っているように思わないので、その謎は今も明かされぬままだ。


 父さんが帰って来るのは決まって夜勤明けの夕方だ。

 帰ってくる時間に合わせて晩御飯は出来る。まるで位置情報を分かっているかのように……。そんなわけないか、主婦のセンサーが働いているのだろう。主婦ってすごいな。


 その日は父さんが仕事の忙しい時に限ってやってくる。父さんの生活は規則的で決まった一週間を家の外で過ごす。


「ただいま、いやぁ疲れた」

 台所からいい匂いがした時が父さんの帰宅時間ぴったりだ。

「おかえりお疲れ様」

 母さんは台所から玄関に言葉を投げた。

「凛人、お父さんの荷物を取りに行って」

 そう言われていやいや玄関に向かった。父さんのカバンには頑張れという文字の入った布製のキーホルダーがつけられている。会社の女の子に貰ったと前に言っていた。


 父さんは汗をかく性分ではないが、帰って来たら決まって風呂に入る。汗をかかないなら、お腹も空いているだろうに先に食べたらいいのに。


「今日も出来ているわよ。ビーフストロガノフ」

「ちょっとお腹いっぱいだな」

 いつものやり取りに父さんは居間に行って母さんと話すことはない。全て玄関で終わらせる。

「そう言わずに帰って来るの待っていたのよ」

「会社で後輩がビーフシチューを作ってくれたんだよ。それでお腹いっぱい」


 後輩にビーフシチューが好きな人がいて、それを月に二回もするなんてすごいな。


「そうよね、あなたビーフシチュー好きだもんね」


 父さんの仕事は商社だが、商社に夜勤があるなんて、聞いたことがない。

 会社はブラックに違いない。

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ビーフストロガノフにはご注意を ハナビシトモエ @sikasann

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