第2話 神谷悠真

午前7時 AI研究所官舎前


官舎前の駐車プールに車を止めた神谷は、車を降りると助手席側の扉に寄りかかり、官舎の方を見ていた。

約束まであと十五分。


綾瀬は約束の時間きっかり十分前に現れる。

そのため、待たせずに済んだことに神谷は安堵していた。


なぜなら、彼女は「待つ」という行為を何より嫌う。


もし待たせれば、表情はいつも通り変わらないが、言葉の端々で遅刻によって失われた時間について討論を挑まれる。

謝罪は意味をなさない。

彼女は事実でしか物事を判断しないからだ。


「我ながら……よく付き合いが続いてるよなあ」


神谷は空を見上げた。

今日はいい天気だ。


仕事がなければ愛車を駆って遠出したいところだが、AI研究所関連の視察は、AI調査局員である彼にとって最重要任務の一つだ。

定期的な視察によってAI研究が適正に行われていることを確認し、その結果を国民に公開する。

それがAI調査局の使命であり、サボるわけにはいかない。


「神谷くん、待たせた。君はいつも早いな」


鈴が鳴るような声に、神谷は視線を戻した。


艶のある黒のボブカット。

白のタートルネックに、黒のパンツスーツ。

ハンドバッグ一つだけを携えた綾瀬碧が立っていた。


最小限に最適化された持ち物。

無駄のない行動様式。

実に彼女らしい。


服装は決して女性的ではないが、身体の線が出るタートルネックが、彼女の体型を際立たせている。

容貌と相まって、通勤途中の研究員たちが一瞬だけ振り返り、そして何事もなかったように去っていった。


「碧お嬢様を待たせるわけには参りませんので」


神谷が恭しく言うと、綾瀬は両手を腰に当て、不満そうに眉をひそめた。


「その呼び名はやめろと言っているだろう。何の嫌味なんだ」


「まあまあ。雰囲気がお嬢様っぽいだけだって」


神谷は茶化すように言った。


確かに、黙って立っていれば、どこかの令嬢と言われても違和感はない。

だが、本人は自分の容姿や他人からどう見えるかに一切興味がなく、そうした評価を露骨に嫌う。


神谷は小さく肩をすくめ、助手席のドアを開いた。


「どうぞ」


「ありがとう、神谷くん」


軽く一礼し、綾瀬は先に車へ乗り込んだ。

ふんわりと柑橘系の香りが漂う。


神谷は軽く頭を振り、運転席に座ってエンジンを始動した。


「それにしても珍しいな。綾瀬が俺の愛車に乗りたがるなんて。

 いつもはシティコミュートだろ?」


シティコミュートは全自動化された有料乗用車だ。

支援AIで呼び出せば近くの車両が即座に配車され、ライドシェアも可能。

秘匿性が必要な場合は単独利用にも切り替えられる。


綾瀬は安全性を重視し、普段はそれを選んでいる。

神谷の愛車に乗ることは、ほとんどなかった。


「君の愛車はうるさいからな。消音装置はないのか、この車」


綾瀬は興味なさそうに言った。


「この音がいいんだろ! 内燃機関はこうでなくちゃ!」


「こだわりは人それぞれだが、家が買えるほどの金額を出して、

 うるさくて、条例で余分な金を取られて、メンテナンス必須の物を買うのは、

 私の理解の埒外だな」


容赦なく切り捨てたあと、綾瀬は不自然な作り笑いを向けた。


「まあ、このハイブランドバッグがおまけに思えるほど、

 稼いでくれたことには感謝しているよ」


そのバッグは、神谷の愛車と同時期に買われたものだった。


競馬で桁外れの万馬券を当てた神谷は、勢い余って愛車を購入し、

余った資金で世話になっている綾瀬にバッグを贈った。


贈り物としては重すぎると気づいたときには、すでに手遅れだった。


だが、綾瀬の反応は予想外だった。


「神谷くん。

 君が私に世話になった価値を正しく評価していたことに、驚きを隠せないよ。

 教えた甲斐があったな。ありがとう。大事に使わせてもらう」


嘘のない言葉だった。


学生時代、最優秀学生だった彼女にマンツーマンで指導を受けることが、

そこまでの価値を持つと、本気で思っていたのか。


思い出すたび、神谷は戦慄を覚える。


「……今日はできるだけ、AIの影響を避けたいんだ」


綾瀬の言葉が、思考を引き戻した。

前を向いたままの声には、それ以上の追及を拒む重みがあった。


神谷は横目で彼女を見て、目を見開く。


綾瀬は眼鏡をかけていた。

視力補正用ではない。モニターとしての装着だ。


支援AIがあれば、情報は網膜投影される。

つまり――。


「……碧お嬢様。ひとつ確認したい。

 支援AIはどうした?」


支援AIには着用義務がある。

違反すれば拘束対象だ。


「支援AIなら、ここにあるぞ」


綾瀬は何でもないことのようにバッグを掲げた。


「着用義務はあるが、着用方法は規定されていない。

 よって、義務違反にはならない」


「俺はAI調査官だぞ。言葉遊びはやめろ」


神谷は威圧するように言った。


それでも綾瀬は、微動だにしない。


「勉強不足だな、神谷捜査官。

 支援AIに聞いてみろ」


言い終わる前に、支援AIの回答が神谷の視界に表示された。


《対象の主張:適法。

 調査官による追加干渉は禁止》


神谷は歯噛みした。


「……わかったか」


「私の横顔に見惚れるのは勝手だが、前を見て運転してくれたまえ。

 この車には自動回避装置がないんだからな」


「あとで説明してもらうぞ」


不満そうな神谷に、綾瀬はくつろいだ姿勢のまま右手をひらひら振った。


「必要があればな。

 すべて思い過ごしかもしれん」


会話はそこで途切れた。

AI倫理部局は、もう目の前だった。

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