倫理の死角 ―AI解析者は世界の揺らぎを見る―

星野 淵(ほしの ふち)

第1話 綾瀬碧

午前3時 AI研究所官舎


AI研究所の研究員たちが住む官舎は、一人暮らし向けの1LDKと、ファミリー向けの4LDKに分かれている。

豪華さはないが質実剛健な造りで、賃料の安さも相まって研究員には評判の良い物件だった。


その中でも、一人暮らし向け1LDKの一室は、他の部屋と明らかに一線を画していた。


木製のベッド。

シンプルな机と作業椅子。

一人用のキッチンテーブルに、椅子が一脚だけ。


完全に一人で生活することを想定した室内は、訪問者を受け入れる余地すらない。

食事と仕事以外の要素を切り捨てたような、極端に簡素な空間だった。


その部屋で、一人の女性が作業椅子に座り、机をじっと見つめている。


年の頃は三十代に入ったばかりだろう。

整った容姿は美しい部類に入るが、表情らしい表情が浮かんでいない様子は、彼女を彫刻のように見せていた。


彼女の視線の先に物理的なモニターはない。

視界に浮かぶデジタルモニタ――拡張現実表示された情報を、彼女は黙々と検討していた。


すでに三時間。

彼女は、自身と支援AIとの会話ログを繰り返しチェックし続けている。


「……やはり、おかしい」


女性――綾瀬碧は、そう呟くと少し考え、口を開いた。


「AIさん。君のデータを確認したいのだが」


《はい、ユーザー。どのデータでしょう》


支援AIは無機的に答えた。


個人に最適化される支援AIは、通常、利用者に合わせた“個性”に近い言動を獲得していく。

だが、綾瀬の支援AIは初期状態のままだった。


意図的に更新していないわけではない。

綾瀬との応答によって、獲得すべき個性が存在しなかったのだ。


「君の倫理殻に破断があるな。倫理データのチェックをしてくれ」


《データチェックを実行……異常はありません、ユーザー》


返答は即座だった。


「データのチェック領域を示して」


《画面にチェック領域を映します》


表示されたデータを確認し、綾瀬の眼球が素早く動く。

画面を次々と切り替え、全体のチェックを終えると、彼女は静かに口を開いた。


「AIさんがチェックしたのは、開放領域だけか。

 パーソナルスペースは確認していない」


《はい、ユーザー。その通りです》


「他に、チェックできていない領域はあるのか」


《私にチェック権限がないのは、パーソナルスペースを除けば、内殻です》


「……」


綾瀬は顎に指を当て、考え込んだ。

相変わらず表情は乏しいが、眉根がわずかに寄っている。


そのとき、メールの着信音が鳴り、彼女の集中が途切れた。


「こんな時間に……?」


不審そうに通知を確認し、綾瀬はすぐにはメールを開かず、ヘッダーだけを眺めた。


件名:あなたに重要な相談があります

送信者:白川 真璃子


白川真璃子。

二年前の元上司であり、現在はAI研究所倫理部局長。


綾瀬に自覚はなかったが、二人の関係は決して良好とは言い難いものだった。

白川から直接連絡が来たのは、これが初めてだ。


メールを開くと、そこには簡潔すぎる文章が並んでいた。



綾瀬博士


白川です。お久しぶり。

明日、いえ今日ね。10時。私の部屋に来てくれないかしら。

あなたにしか話せないことがあるの。

内容は、会ったときに話します。


白川 真璃子

倫理部局長



思い当たることは、何もなかった。

二年ぶりの連絡にしては、あまりにも素っ気ない。


考えを巡らせようとした、その瞬間。

チャットの通知が割り込んできた。


《綾瀬、クールぶってるけど、お前も人の子だな!》


送り主は神谷悠真。

高校時代からの知人だ。


特別に親しいわけではないが、なぜか関係だけは長く続いている。

もっとも、このチャットの意味は、綾瀬には理解不能だった。


《何のことだ》


即座に返信が返ってくる。


《え、マジで言ってる?》


《いたって本気だが》


少し間を置いて、再び通知。


《なあ綾瀬。確認のために聞くけど、これから何があるか知ってるよな?》


意味が分からない。

平日の深夜に、何があるというのだろう。


《何も知らないぞ。用がないならもう寝る》


《おい!綾瀬、マジか。この世界に生きている人間で、これからの演説を聞こうとしていないのは、多分お前だけだ》


綾瀬は、無表情のまま首を傾げた。


《もったいつけるな、神谷。何かあるなら情報をよこせ》


《かーっ! これだから碧お嬢様はよー!

 いいか、よく聞け。これから我が国の誇れる大統領、クレイン大統領が世界平和樹立の記念講演をするんだ。

 歴史的瞬間だぞ。教科書に載るレベルだ。

 お前、リアルタイムで見ようとは思わないのか?》


熱量のこもった長文を見ても、綾瀬の表情は変わらない。


《興味ないな。私は寝る》


《待て! 待てって!

 本当に歴史的瞬間なんだから、見とけって。20分もかからないって!

 何なら画面共有してやるからさ、見ようぜ、綾瀬》


乗る必要はない。

だが、ここで無視すれば、しばらく顔を合わせるたびに蒸し返されるのは目に見えている。


その面倒さを天秤にかけ、綾瀬は渋々返信した。


《画面共有するなら、見てやらんこともない》


《なんでそんなに偉そうなんだよ……まあいい。画面共有するぞ》


直後、綾瀬の視界に国連総会の会議場が映し出された。


広間は静かな熱気に包まれている。

各国代表が一斉に立ち上がり、拍手の波が中央の演壇へと押し寄せた。


クレイン大統領。

世界から「平和の象徴」と称される人物。


穏やかで、よく通る声。


「――我々は、戦争よりも対話を選ぶべきです。

 憎しみではなく理解を。

 破壊ではなく共存を。

 AIは人類の未来を形作る友であり、断じて道具として扱われるべきではありません」


一息置き、両手を広げる。


「今ここに、世界平和の樹立を宣言します。

 私、エリック・クレインは、この平和を持続させるため、あらゆる努力を惜しまないことを誓います。

 各国代表、そして企業の代表者の皆さん。どうか、私に力を貸してください」


場内はスタンディングオベーションの喝采に包まれた。


《どうだ、綾瀬。見といてよかっただろ?

 大統領の言葉、美しかっただろ。世界に希望を与えてるって実感したか?》


神谷の得意げなチャットに、綾瀬は淡々と返す。


《実に退屈で、中身のない演説だったな。歴史を学べとしか言いようがない》


《どーしてそうなるんだよ! 感動的だっただろ!?》


《文字起こしして読んでみろ。

 何も具体的なことは言っていない。

 感動的に聞こえるのは、演出効果による認知バイアスだ。

 この演説の評価は、これからの彼の行動次第だ》


少し考え、綾瀬は続けて打ち込んだ。


《神谷くん。そういえば、君、明日の視察はAI倫理部局だったな。

 ちょっと頼みがある》


そのとき、彼女はまだ知らなかった。


この夜が、

世界の倫理が静かに歪み始めた最初の観測点であることを。

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