第25話: 刺客戦と、黒い線

 ——霧は、静かな日に限ってやって来る。


「今日は特に異常なし、っと」


 王都東門の見張り台。

 石壁の上に、簡易の机と椅子、そして温かいお茶。


 蒼斗は、警備記録用の紙にさらさらとペンを走らせながら、思わずあくびを噛み殺した。


 東堤防線での「霧獣部隊事件」から、三日。


 それ以来、東側は妙なくらい静かだった。

 あの日の霧が嘘みたいに、空は晴れ、風は穏やかで、農民たちは何事もなかったかのように畑を耕している。


「平和じゃのぅ」


 手すりに腰かけてぶらぶら足を揺らしながら、ルミナが伸びをした。


「霧獣も刺客もこんな日にゃ出てこんじゃろ。……出てこんでよい」


「フラグやめろ」


 即ツッコミを入れながら、蒼斗は視線だけを遠くに向ける。


 霊脈の線は——今日は穏やかだった。

 地面の下を通る太い“幹”と、その枝が静かに流れているだけ。


 東堤防の方角も、特に異常はない。


「にしても」


 ルミナが、じっとこちらを覗き込んでくる。


「ぬし、あれから頭痛は?」


「昨日まではちょっとズキズキしたけど、今は大丈夫。

 ……“朧羽ノ一矢”も、一日一回なら撃てそうな感じ」


「調子に乗るでない」


 ルミナが人差し指をぴしっと立てる。


「天羽朧弓の名を開いたばかりじゃ。線の深いところを視る力は、まだ身体の方が追いついておらん。

 無茶を重ねれば、本当に“器”が割れるぞ」


「器、ねぇ……」


 器というには、自分はまだDランクだ。

 中身より肩書きの方が軽い気がする。


(でも——)


 東を守れたのは事実だ。

 霧獣部隊を退け、霧の刺客とやり合って、生きて帰ってきた。


 嬉しい、というよりは、ただひたすら「ホッとした」感覚の方が強い。


「……っていうかさ」


 ふと思い出して、蒼斗は眉をひそめた。


「あの刺客、『また会おう』とか言ってたよな」


「言うておったな」


「普通、“次はないぞ”とか“今度こそ殺す”とかじゃない? “次はもっと面白くなる”って、なんかゲームの追加コンテンツ感あるんだけど」


「霧は執念深いからのぅ。興味を持った獲物は、しつこく追いかける」


 ルミナはあっさりと言う。


「まぁ、来るなら来いじゃ。今度は余も本気でぶっ飛ばしてやる」


「本気はなるべく控えめでお願いしたいんだけどな……」


 そんな会話をしていると——階段の方から、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。


「蒼斗ー!!」


 全力で自分の名前を叫ぶ声。

 聞き慣れた声だ。


「殿下、走らないでください! スカートが!」


「いいから早く! 見張り台どこ!? あ、あった!」


 階段を駆け上がってきたのは、案の定、王女リシェルだった。


 今日は王城内用の簡素なドレスに、外出用マント。

 髪はいつものリボンでひとつにまとめられている。


「はぁ……はぁ……ここ、だった……!」


 肩で息をしながら、こちらを指さす。


「ゼェ……蒼斗、聞いて!」


「まず息整えようか」


「だいじょうぶ……死なない……!」


 いや、死なれたら困る。


 ハロルドと護衛騎士が後ろから追いついてきて、そろって頭を抱えている。


「殿下、階段は落ち着いて上がってくださいとあれほど……!」

「だって、“霧が動いてるかもしれない”って聞いたらじっとしていられないじゃない!」


「え?」


 蒼斗は思わず立ち上がった。


「霧?」


「うん!」


 リシェルは、少しだけ真剣な顔になった。


「さっき、大神殿の結界担当の神官さんから報告があったの。

 “東の霧脈が、一瞬だけ逆流した”って」


 ——逆流。


 嫌な単語だった。


「霊脈じゃなくて、“霧脈”って言ってた。霧獣が通る道筋みたいなやつ。

 東堤防の方角から、一回だけ“黒い溜まり”が発生して、それがすぐ消えたって」


 ルミナの表情が、ぴくりと強張る。


「……霧脈、か」


 小声で繰り返す。


「やはり、わざと引かせたな」


「わざと?」


「前回の刺客じゃ。王都の外縁に“道筋”を刻んでおき、後から何度でも霧獣を送り込めるようにしておる。

 逆流した、ということは——」


 ルミナは、堤防の方角をじっと見つめた。


「“手を伸ばしてきた”のじゃ」


 ゾクリと、背筋に寒気が走る。


「じゃ、じゃあまた——」


「来る可能性は高い。

 ……今日は、霧獣部隊そのものではないかもしれんがな」


 ルミナの目が細くなる。


「刺客本人が、“線”を触りに来るやもしれぬ」


 その言葉に、リシェルがぎゅっとマントを握りしめた。


「だから来たの」


 彼女はまっすぐ蒼斗を見る。


「そんな話聞いて、ひとりで東門に出て行っちゃいそうなの、蒼斗くらいだし」

「ひどい評価だな!?」


「でも、合ってるでしょ?」


 ぐうの音も出ない。


 王女は一歩近づき、マントの中から小さなものを取り出した。


「これ」


 差し出されたのは、小さな紐飾りだった。

 銀色の細い鎖に、小さな青い石と羽根のチャームがついている。


「……お守り?」


「そう。大神殿で作った、“簡易加護つきお守り”。魔力的には全然大したことないんだけど……」


 もじもじしながら、リシェルは続ける。


「“必ず帰ってくる”って、約束の代わりになればいいなと思って」


 そんなことを、さらっと言うな。


 急に喉が詰まる。


「……多分、俺より危ないところに行ってるのは王女様の方だと思うけど」


「私には城も騎士もいるもん」


 リシェルは笑って言う。


「蒼斗には、弓と、ルミナちゃんと——それに、私のお守りがある」


 最後の一個はたぶんおまけだ。


 だが、その声色には、妙な説得力があった。


「……分かった」


 蒼斗は、紐飾りを受け取った。


 天羽朧弓の握りの少し下、邪魔にならない位置に結びつける。


 青い石と羽根のチャームが、わずかに揺れた。


「おぉ、“天羽朧弓・王女仕様”じゃな」


 ルミナがくすっと笑う。


「これで落としたり折ったりしたら、三方向から怒られるのじゃぞ」

「折るつもりは元からないよ!?」


 そんな他愛ないやりとりを交わし——

 その直後だった。


 ——シュー……。


 耳の奥で、あの嫌な音がした。


 ♢


 東堤防線の方角。

 空気が、歪む。


 視界の端で、霊脈の線がざわざわと揺れた。


 白かった線が、一部、じわりと黒く濁り始める。


「来おったか」


 ルミナが、息を詰める。


「霧脈に“手”を突っ込んでおる。……蒼斗!」


「分かってる!」


 見張り台から堤防までは、走って数分。

 だが——


「蒼斗!」


 背後から、リシェルが叫ぶ。


「危なくなったら、すぐ逃げて! 約束だからね!」


「危なくならないようにする努力はしないの?」


「するけど! するけど!!」


 言い合いのテンポがおかしい。


 笑いながらも、蒼斗は走り出していた。

 ルミナが肩にひょいっと飛び乗る。


「無茶をすれば怒るからの」

「知ってる!」


「怒った後で助けてはやるがの」

「それも知ってる!」


 そんな掛け合いのまま——二人は東堤防へと向かった。


 ♢


 堤防の上に立つと、空気の違いが一瞬で分かった。


 風が弱い。

 音が少ない。

 世界の“ノイズ”が、一段階削られているような感覚。


 川面には、黒っぽい靄が薄く浮かんでいた。


(……前は、灰色だったよな)


 今回の霧は、色が違った。

 もっと、濃く、重く、粘ついている。


 霊脈の線も、異様だった。


 いつもなら白や淡い青で見える線が、一部、墨を流したように黒く染まり、川から堤防へ、堤防から王都へと伸びてきている。


「……気持ち悪いな」


「霧脈じゃ」


 ルミナが、低く言う。


「本来、霊脈の“外側”に流れる濁りじゃ。それを、誰かが霊脈に押し戻しておる」


「押し戻す……?」


 想像しただけで、吐き気がした。


 綺麗な川に、下水を逆流させるようなものだ。


「——おや」


 聞き覚えのある声が、霧の向こうから響いた。


「来たか、“線を見る弓士”」


 霧が、すっと割れた。


 あの日と同じように。

 ただ、以前より輪郭がはっきりしている。


 黒いコートに布で口元を隠した人影。

 目だけが、霧の中でぎらりと光っていた。


「よく来たな。今日は、ひとりか?」


「竜もいますけど?」


 肩の上でルミナが「おるぞ」と手を振る。


 刺客は、肩をすくめた。


「王女は? 城の上から見物か?」


「……関係ないだろ」


「関係しかないさ」


 刺客は、足元の霧をつま先で撫でた。


「霧は、恐怖と怯えを好む。あの日、馬車の中で震える王女と、それを守ろうとする弓士の“線”は、とても美味かった」


 喉の奥が、カッと熱くなる。


「……お前」


 言葉を選ぶ余裕はなかった。


「人が怖がってるの見て楽しいタイプ?」


「楽しいとは少し違うな」


 刺客は、うっすらと笑う。


「“壊れかけの線”が、もっとも美しい。

 今にも千切れそうなくらい揺れているのに、それでも繋がろうとする線。そういうのを見るのが——好きなんだ」


「性格、ねじ曲がってんな!」


 ルミナが即答した。


「線フェチの霧とか、最悪じゃな」

「線フェチ言うな」


 刺客は肩を揺らして笑った。


「で、今日は何しに来た。観光?」


「実験だよ」


 刺客の目が、細くなる。


「お前の“線を見る目”が、どこまで耐えられるか。

 霧脈を逆流させたとき、その目は何を見るのか。——興味があってね」


 その瞬間、川面の霧が、一気に渦を巻いた。


 黒い靄が、竜巻のように立ち上がり、空へ向かって伸びる。

 霊脈の線も、それに引っ張られるように、ぎちぎちと軋んだ。


「っ……!」


 視界が、また変わる。


 白い線が、黒く染まっていく。

 まるで、墨を垂らした水がじわじわと広がるように。


(やば——)


 止めなきゃ。

 そう思った瞬間には、天羽朧弓を構えていた。


 指先に、光矢が一つ生まれる。

 弦を引く。


 撃とうとした、その時——


「——遅い」


 刺客が、指を弾いた。


 霧脈の黒い線が、ぎゅっと縮む。

 まるでゴムを引き絞ったように。


(まず——)


 次の瞬間、その線が、弓の方へ向かって“撥ね返って”きた。


「——ぁ」


 黒い線が、視界の中で弾丸のように走る。


 それは蒼斗の目には“見えすぎる”ほどはっきりと見えていた。


 だからこそ——避けられなかった。


 線が、胸を貫いた。


 ♢


「——っっ!!」


 焼けるような痛みが走る。


 胸の中央、心臓の少し左。

 肉体を物理的に貫いたわけではない。

 それでも、霊脈に何かが突き刺さったような、とんでもない違和感と痛みが、全身に広がっていく。


「蒼斗!」


 ルミナの叫び声が、どこか遠くで聞こえた。


 膝が勝手に折れる。

 弓を握る手が震える。


 視界の線が、白と黒のまだら模様になっていく。


 さっきまで穏やかだった霊脈の幹に、黒い“ヒビ”が入ったように見えた。


「はは」


 刺客が笑う。


「やはり、よく視えるな。

 逆流する線。黒い霧脈。自分の霊脈が“汚された”感覚——」


「……っ……」


 息をしようとするたび、胸の奥がズキッと痛む。


 心臓に、冷たい手を突っ込まれて、雑に握られているような感覚だった。


「やめ……っ」


 声がうまく出ない。


 天羽朧弓が、かすかに鳴いた。

 握りに結びつけられた青いお守りが、弱々しく揺れている。


(——ここで、折れるわけには)


 頭では分かっている。

 だけど身体がついてこない。


 黒い線が、また一本、胸へ伸びてくるのが見える。


(まずい——)


 逃げようとするより先に、視界がグニャリと歪んだ。


 世界が、白と黒の線だけで構成された“図”みたいになる。


 そこへ、ひときわ濃い“黒い蛇”が滑り込んできた。


「——っやめろ」


 誰かが言った。


 自分の声ではなかった。


 ♢


 空気が、重くなった。


 圧力。

 重力。

 世界そのものの密度が、一段階増したような。


「……あ?」


 刺客が、不意に顔を上げる。


 堤防の上。

 蒼斗のすぐ横で——ルミナが立っていた。


 いつもののじゃロリ神竜モード。

 ……のはずなのに。


 周囲の霊脈の線が、全部、彼女の周囲を避けるように歪んでいた。


「よぉ」


 ルミナが、笑っていた。


 が、その目は笑っていなかった。


「よくも、やってくれたのぅ」


 声が低い。

 いつものきゃぴきゃぴしたのじゃロリボイスとは、別物だった。


 刺客の肩に、ぞわりと鳥肌が立つような気配が走る。


「……竜、か」


「そうじゃ」


 ルミナは、ゆっくりと歩き出す。

 小さな足が土手を踏みしめるたび、霊脈の線がびくんと震えた。


「霧脈を弄ぶただの霧が、霊脈にまで手ェ出しておるとは、聞き捨てならんのぅ」


 刺客が、笑みを深める。


「怒ったのか?」


「怒っておる」


 即答だった。


「線フェチの変質者が、余の相棒の霊脈に黒インクぶっかけおって。

 怒らぬ竜がおるなら見てみたいわ」


「言い方!!」


 と思ったが口には出せない。

 出せる状態じゃない。


 蒼斗は、まだ片膝をついたまま、呼吸を整えるので精一杯だった。


 胸の奥で、黒い線がギチギチと軋んでいる。


 それでも——ルミナの声だけははっきり聞こえた。


「よいか、霧の子よ」


 ルミナが手を上げる。


 その掌から、目に見えない“圧”が溢れ出した。


 空気が、さらに重くなる。

 霧が、押し潰されるようにひしゃげる。


「霊脈は、余の“庭”じゃ。

 勝手に迷路を描くのは構わんが——」


 金色の瞳が、カッと見開かれた。


「余の“花”に、汚れた水を流し込むでない」


 次の瞬間。


 堤防の上から、見えない衝撃波が広がった。


 ♢


 黒い霧が、押し流された。


 まるで巨大な手でなぎ払われたみたいに、川面の霧が一斉に後退していく。

 黒く染まりかけていた霊脈の線も、表面を削り取られたように白さを取り戻していく。


「くっ——」


 刺客が、思わず一歩下がった。


 霧でできたコートの裾が、風もないのにばさばさとはためく。


「……霊圧、か」


「その呼び方は好きではないが、分かりやすいならそうじゃな」


 ルミナは、両手を広げた。


「余は霊脈を渡る竜。

 空の線も、地の線も、全部“そこにある”のが見えとる」


 その言葉と共に、霊脈の線が一本一本、ルミナの背後に並んでいくように見えた。


 刺客の輪郭が、明らかに揺らぐ。


「霧は“隙間”を好む。

 じゃが、今この場に隙間はひとつもない。

 余の気配でぎゅうぎゅうに詰めてやったからのぅ」


 ルミナは、すっと指を突き出した。


「——失せよ。ここは、お主の好き勝手できる路地裏ではない」


 その一言が、呪いだった。


 黒い霧が、音もなく弾け飛ぶ。

 刺客の足元から、霧脈の黒い線が、ぴん、と弾かれて千切れていく。


 刺客は、舌打ちした。


「……竜のくせに、人間の線をそこまで庇うとはな」


「余の“線”じゃ。

 余が庇って、何が悪い」


 ルミナの笑みが、冷たく光る。


「霧は霧らしく、陰でびくびく震えておるのじゃ。

 表へ出て来たければ、せめて余の許可をとれ」


「……覚えておけ」


 刺客は、わずかに身を引いた。


 さっきまで余裕だった声に、初めて微かな苛立ちが混ざる。


「竜は確かに厄介だ。

 だが——“弓士の器”は、まだ脆い」


 視線が、蒼斗の胸元を鋭く射抜いた。


「今の一撃だけで、その霊脈はヒビだらけだ。

 これ以上“線”を深く視れば——」


 くつくつと笑う。


「勝手に割れるぞ」


 最後だけ、妙に優しげな声音だった。


 そう言い残し、刺客は霧に溶けるようにして消えた。


 黒い靄も、同時にふっと軽くなる。


 ♢


「……っはぁ……!」


 張り詰めていた空気が解けた瞬間、蒼斗は膝から崩れ落ちた。


 堤防の土に手をつく。

 冷たい汗が、背中をつーっと流れ落ちる。


「蒼斗!」


 ルミナが慌てて駆け寄る。

 さっきまでの“霊圧モード”が嘘のように、いつもの小さな手で肩を揺さぶった。


「大丈夫か!」


「……なんとか、生きてる」


 かろうじて笑いながら答える。


 胸の奥の痛みは、少しだけ引いていた。

 黒い線も、視界からほとんど消えている。


 ただ、その代わりに——身体の芯から、妙な“疲労”が湧き上がっていた。


「……なんか、全身の線が、ぐちゃぐちゃになったみたいな感じ」


「まぁ、実際ぐちゃぐちゃにされたからな」


 ルミナは、真面目な顔に戻っていた。


「霧脈を、霊脈に一瞬だけ逆流させおった。

 ぬしの霊脈にも、黒い線が突き刺さっておるのが見えた」


「それ、サラッと言うことじゃないと思うんだけど……」


「だが——」


 ルミナは、そっと蒼斗の胸元に手を当てる。


 そこには、青いお守りが揺れていた。


「完全には侵されておらん。

 霧脈は、表層だけ汚し、深いところまでは届いておらぬ」


 掌から、あたたかい感覚が流れ込んでくる。

 さっきまで黒く見えていた残滓が、ちりちりとほどけていくようだった。


「……ふぅ」


 息を吐く。


 ようやく、呼吸が普通にできるようになってきた。


「ルミナ」


「なんじゃ」


「さっき、ありがとう」


「礼は余より先に言う相手がおろう」


 ルミナは、お守りを指でつついた。


「お主の“王女仕様”じゃ。

 あれがなければ、黒い線はもう少し深く刺さっておった」


「……あいつ、本当にいい仕事するな……」


「誰が“あいつ”じゃ。敬語を使わんか」


 でも、ルミナの口元は少し緩んでいた。


 少しして——堤防の向こうから、馬の蹄の音が聞こえてくる。


「蒼斗ー!!」


 リシェルの声だ。


 ハロルドと護衛騎士に両脇を固められながら、それでも全力で駆けてくる。


「無事!? ねぇ無事!?」


「生きてる、生きてるから落ち着いて」


「顔色悪い! さっきまで顔色遠くからでも分かるくらい悪かった! 今はちょっとマシだけど!」


 若干パニックだ。


「胸、押さえてた!」


「押さえてたね」


「息、苦しそうだった!」


「苦しかったね」


「霧が黒かった!」


「黒かったね」


「なんでそんな冷静なの!?」


 ごもっともだ。


 リシェルは、半泣きの顔で蒼斗の胸元を見る。


「お守り……!」


 青い石と羽根のチャームが、まだそこにあった。


 彼女は、ほっとしたように息を吐く。


「よかった……」


 ぽろっと、涙が一粒こぼれた。


「ねぇ、“必ず帰ってくる”って言ったよね」


「言った、かな」


「言った!」


 力強く訂正された。


「だったら、あんまり無茶しないで。

 竜の霊圧でぶっ飛ばす前提の戦い方しないで。

 黒い線とか刺さらないで」


「……努力します」


 今度ばかりは、冗談を挟めなかった。


 ルミナが、小さくため息をつく。


「まったく。

 このままでは——ぬしの“器”が耐えられん」


 その声には、怒りよりも、深い不安が滲んでいた。


「天羽朧弓の名を開いたことで、ぬしの視界は今までよりずっと深く“線”を視るようになった。

 霧脈も、霊脈も、全部な。

 それ自体は悪くない。じゃが——」


 ルミナは、蒼斗の額にこつんと指を当てた。


「中身がDランクのままでは、いつか本当に割れる」


「言い方が辛辣!」


「事実じゃ。

 ぬしの身体も心も、まだ“天断ノ朧箭”を扱う器ではない。

 今の黒い線ひとつで、このザマじゃからな」


「ぐっ……」


 図星すぎて反論できない。


 リシェルが、きゅっと拳を握った。


「じゃあ、どうすればいいの?」


 真っ直ぐな瞳で、ルミナを見る。


「どうすれば、“器”って、強くなるの?」


 ルミナは、少しだけ目を丸くした。

 それから、ふっと笑う。


「簡単じゃ」


「簡単?」


「たくさん戦って、たくさん休んで、たくさん食べて、たくさん笑う」


 なんだそれ、という顔を二人同時にしたのを見て、ルミナは肩をすくめる。


「霊脈に選ばれた者の器は、戦いだけでは育たん。

 ぬしの“線”は、一人の線ではないからな」


 その言葉の意味は、まだよく分からなかった。


 ただ——


 蒼斗の胸の奥で、黒い線のヒビが少しずつ白く埋まっていくのを感じながら。


 彼はぼんやりと空を見上げた。


(……ほんと、Dランから卒業しないとな)


 天羽朧弓。

 霧脈を弄ぶ刺客。

 黒い線。

 プラス、猛烈に心配してくる王女と、全力で怒って全力で庇ってくる神竜。


 背負うものは、いつの間にかずいぶん増えていた。


(器、か……)


 胸元で、お守りが揺れた。


 その重さを、少しだけ心地いいと感じてしまった自分に、

 蒼斗は、内心で苦笑するしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る