天体観測

深山都

第1話


 まだ私に可愛げがあった頃、プラネタリウムを作った。


 私の小学校は高学年のクラスが売店や出し物を作る学校祭があって、六年生や五年生がぴよぴよの一年生や二年生たちの面倒をみながら、自分たちの作ったものを遊ばせてあげていた。


 私が五年生になった時、六年生と合同で『星の展覧会』という催しをすることになった。私は六年生とお兄さんと一緒にプラネタリウムを制作することになり、段ボールを切ったりビニールを貼ったりしながら、不格好ながらもそれなりのクオリティの、人ひとりが寝そべって入ることができるくらいの大きさのドームを作った。


 作り方は簡単だ。半球形にした段ボールの内側に黒い画用紙とビニールを貼り、外側からドライバーや錐で穴をあけていく。それだけでは数が足りないので、暗闇で光るインクを使ったペンでさらに星を散りばめる。


 こんな雑な作りでも、中に入ってみると無数の小さな光が自分の周囲を取り囲んでいるのは壮観だった。それに加えて、自分で作った達成感や、当時はすごく大人びて見えた六年生のお兄さんとの合作という思い出も相まって、私は自分で作ったプラネタリウムに愛着を持った。


 休み時間でも、私は制作途中のプラネタリウムに入って遊んでいた。寝転んで星を見るだけでなく、穴から覗きこんで、教室の様子を見るのも楽しかった。プラネタリウムに人が入っているとは思わなかったのか、私が見ている前で野球の素振りを始める男の子もいたし、内緒話を始める女の子もいた。


 プラネタリウムは、私の秘密基地だった。


 その日も蒸し暑い中、プラネタリウムに入っていると、いきなり穴の一つから、勢いよく錐の先端が飛び出してきた。


 私が固まっていると、外から耳をつんざく笑い声が聞こえてきた。それから何度も、それぞれ違う場所に錐が抜いては刺され、笑い声がそのたびにあがった。


 遠くから先生の注意する声が聞こえて、犯人たちは大きな足音とともに去っていった。誰なのかはわからない。聞いたことのない声だったから、六年生のお兄さんたちだったのかもしれない。


 私は仰向けになったまま、恐ろしい想像をした。


 もし私が、プラネタリウムの穴から覗き込んでいる時に、あの勢いで錐が差し込まれていたら?


 私の覗いている穴から錐が出てきたら、失明したかもしれない。


 穴から見える景色に夢中になっている私の横や後ろから突き出てきたら、頭蓋骨を突き破って、脳が串刺しになったかもしれない。


 犯人たちは、中に私がいるのを知っていたのだろうか。彼らの悪意は、どれほどのものだったのだろうか。


 私は周りが静かになるのを待って、プラネタリウムから這い出した。


 それから私は、プラネタリウムに入る時、必ず錐を持って入るようになった。




 それから十数年が経って、私には可愛げがなくなった。


 狭い電車に詰め込まれ、毎日死んだ顔で同じ仕事をし、同僚と表面だけの仲良しごっこに興じる。仕事では出会いがないから、マッチングアプリに登録して男とやり取りをし、チャットでは絵文字を多用し、作り上げた笑みを貼り付け、ワントーン上げた声色で媚びる。


 何の意味もない、馬鹿らしい人生だと、私が一番よく知っている。


 はじめから金持ちの家に生まれるか、素晴らしい才能に恵まれでもしなければ、上には行けない。上に行けなければ、下の階層でわらわらと虫のように生きるしかない。


 それがよくわかるのが会社だ。例えば実店舗でストレスのあまりに失踪する人が出ようが、自殺する人が出ようが、上には影響がない。上からの声はよく聞こえるが、下からの声は上に届かない。


 上の人間にとって、駒の一つが増えようが減ろうが、それは数字の動きでしかない。血の通った生きた人間の苦悩など見えないし、興味もない。足りなくなったら補充すればいいだけ。


 彼らにとって、私たちは人間ではない。


 とはいえ、私も偉そうなことは言えない立場だろう。


 私だってまた、目の前に座ってコーヒーを飲んでいる男、上野を値踏みしている。


「あの。今日。暑いですね」

「そうですね~」


 柔らかく受け答えしながら、身なりを見、コーヒーを汚くすすらないかを聞き、彼の目線がこちらの胸元ばかり見てはいないかを確認する。


 切り揃えられた黒髪。少し濃い眉に、鷲鼻気味。肌はそこまで脂ぎっていない。


 最低限の清潔感はある。頭は良さそうだけど、いちいち句読点をつけているような訥々とした喋り方は減点。チャラくないのは好印象かな。


 人間は、何かを示す記号の塊。点数と言ってもいい。いかに減点されないか、加点要素があるかで総合点が決まる。


 きっとこの男だって、私の肉体がどれくらい自分の好みに近いか、声や笑顔にどれほど魅力を感じるか、結婚後に専業主婦を希望してはいないか……そんな表に一つ一つバツ印をつけながら、私を見ているのだろう。


 私たちにとってさえ、お互いは人間ではないのだ。


 ピピッ。ピピッ。


「あ。もう少しだ」


 古風な音でスマホが鳴り、上野が慌てて音を消した。


「この近くの科学館。プラネタリウムやってるんです。行きませんか」

「わ~、いいですね!」


 声をはねあげて、一緒にいて楽しい女を演出する。もう少しカフェで話して情報を引き出したかったところだけど、無理強いして面倒な女だと思われるのも嫌だ。


 高価なものを持っている様子はないけど、こういう男ほど実は大学の教授で出世が見込めたり、ベンチャーIT企業のプログラマーで高給取りだったりする。慎重にいかないといけない。


 上野は時々私を振り返りながら、斜め前を歩いて豆腐みたいな建物へ案内した。僕の趣味だから、と言って入場料は払ってくれる。


 土日の科学館には小学生たちがちらほらいた。展示物を食い入るように見つめている子と、想定された使い方とは違う遊び方をしてはしゃいでいる子と、二極分化している。


「子供。好きですか」

「好きですよ、可愛いですよね~」


 本当は嫌いだが、男は大抵、子供が好きな女のほうが気に入る。


 上野は慣れた調子でプラネタリウムの予約をした。あと十分で前の講演が終わるというので、周りの星座の展示を眺めて待つ。


「上野さんは、星がお好きなんですか?」

「はい。本で読んで。それから自分でも見るようになって」


 あ、はにかむ顔はちょっと可愛い。


 実際に会うまでは、当たり障りのない文字でのやり取りをしていた。上野はすぐに会いたいとがっついてこなかったし、会う時間も昼を指定してくれた。共通の趣味はなかなか見つからなかったけど、話していて地雷臭を感じなかったのは確かだ。


 この人、ちょっといいかもしれない。


 前の彼氏と別れて、すでに一年が経っていた。女の消費期限がクリスマスケーキ、なんて言われた時代は去ったけど、それでも二十六歳、そろそろ結婚を意識する歳ではある。


 遠すぎず、近すぎずの距離感を意識しながら、オリオンの星座の物語を見ていると、後ろに子どもたちが立つのがわかった。


「譲りましょうか。私たちだけが見られるのも、不公平だし」


 小声で言って、上野の肩をそっと押す。


 上野の身がわずかに固まったのがわかった。予想していたが、この男、あまり女慣れしていないようだ。押すとしたら十中八九そこだろう。


 プラネタリウムでは、天蓋を見ながらナレーターの解説する優しい声を聞いた。お姉さんの声。もしかすると私と同い年か、年下かもしれないのに、未だに二十代くらいの人をお姉さんだとかお兄さんだとか思ってしまう。


 椅子の座り心地がよくて、途中ウトウトしたところもあったのだけど、隣の人との間隔は離れていたし、周りは暗いから、たぶん上野にはバレていなかった。


 プラネタリウムが終わると、上野はとても満足した顔をしていた。


「やっぱり。星はいいです」

「プラネタリウムって、大人でも楽しめるんですね」


 私は本心から言った。子供向けの解説かと思っていたら、難しい言葉も結構使われていたし、感心するような豆知識もいっぱいあった。


 屋上には昼でも星が見られる望遠鏡があると聞いて、二人でのぼった。一応説明書きはあったがよくわからず、苦戦していると、上野が丁寧に教えてくれた。


「太陽は見ちゃだめです。失明するかもしれません」

「わかりました」


 私は少しずつ、上野に心を開き始めていた。少し地味だが、そろそろ彼氏にするよりも夫にする男を選んだほうがいい。上野の堅実そうなところは、旦那としてはぴったりなんじゃないだろうか。


 そう思いながら、丸く切り取られた空を見つめた。薄い水色の空に、白い星がうっすらと見えている。


「上野さんも見てみてください」


 はっきり見える星を真ん中にしたところで交代し、上野が望遠鏡を覗き込んだ。


「……あれ?」


 上野が声を漏らした。


 落ち着かない様子で望遠鏡を操作する。三回ほど角度を変えて見直したところで、レンズを目に当てたままつぶやいた。


「増えてる」

「え? 何がですか」

「星が。星が増えてます」


 突然何を言い出すのだろう。


 幸いにも、周囲に人はいなかった。屋上はちょうど、私たちだけだった。


「何を言ってるんですか」


 私は笑いながら、上野の肩を軽くはたいた。いや、この反応は違ったかもしれない。信じたふりをして、上野のいじわるにむくれる姿を見せるべきだったか。


 ところが、上野は私を気にしている余裕がないようだった。


「僕の目では。昼間にこんなに星は見えません。それに。星の様子がおかしい」

「様子がおかしいって……」


 それはあなたのことじゃないだろうか、とは言えず、私は視線をさまよわせる。


 上野はそのまま望遠鏡を調整し、食い入るように見つめていた。口が半開きになっている。


 ちょっといいなと思ったところでこの奇行。これは大幅な減点だ。


 どうやって話を変えようかと思っていたところで、上野の体が飛び上がった。


「わああっ!」


 勢いよく後ろに尻もちをつく。


「だ、大丈……」

「穴だ!」


 引きながらも心配しようとした私の言葉を遮って、彼は叫んだ。


「上野さん、落ち着いてください」

「工藤さん! 穴です。穴があいてるんですよ!」

「どこに穴があいてるんですか」


 上野は上を指さした。


「空に!」



 興奮する彼をなんとかなだめて、まともに話せるようになってから聞き出したところ、話はこうだった。


 上野は星らしきものが昨日見た空より増えているのに気がついた。さらにズームしてみると、星が動いているように見える。


 よく観察すると、星だと思ったものは実は空にあいた穴で、向こう側が見えたのだという。


「向こう側って、何があったんです」

「人がいたんですよ! 大きな人の顔が見えて、じっとこちらを見ていたんです」


 両腕を使って身振りをする上野に対して、私はため息をつかないようにするので精一杯だった。


 まさか虚言癖か? それとも、何かの前フリだろうか。どちらにせよ、私はこういうノリに付き合えるほうじゃない。


「すみません、上野さん、私ちょっとお化粧……」

「工藤さんも見てください!」


 トイレに行くふりをしてバックレようと思ったのに、望遠鏡を指し、食い気味に言われる。


 こんなに押しが強い男だったのか。


 まあいい、適当に話を合わせて、それから具合が悪くなったふりをしよう。


 私も望遠鏡を覗きこむ。


 上野と違って、いつも星を見ているわけではないから、増えたかなんてわからない。適当に望遠鏡を動かしてみる。


「……あ?」


 ぷつ、と目の前で、白い星が増えた。


 待って、今度は二つ、並んで増えた。


 目の錯覚じゃない。今確かに、目の前で星が増えた。


「な、何これ」

「ね。増えてるでしょ!」


 上野にやり方を教えてもらい、ズームしてみる。星にどんどん近づいていくと、うっすら白いものと黒いもの、それから肌色がにじんで、さらに解像度を上げてみると。


 こちらを見ている、人の顔の一部が見えた。


「きゃっ!」


 全身を悪寒が走り抜け、私はがばっと望遠鏡から顔を離した。


 おかしい。


 こんなの、絶対おかしい!


「僕たちは。今。なにかに観察されているんです。そのための穴が。どんどん増えている」

「なに分析してんの! こんな気持ち悪いこと、すぐに……」

「すぐに。どうするって言うんですか。警察にでも通報しますか。それならまだ。NASAに言ったほうがいいと思いますけど」


 さっきまで慌てていたくせに、上野は落ち着きはらっていた。もしかすると、自分より驚いている私を見て、冷静になったのかもしれない。


 上野の言う通り、私はこれからどうしたらいいのかわからない。私たちを見ている何かがいることはわかったし、やめさせたいけど、空にロケットを打ち上げるようなことをする力はない。


 私は黙りこむ。一方、上野は顎に手を当てて考え始めていた。


「問題は。どういう条件で穴が増えているか。それは向こう側の人のタイミングで増えているのか。それとも僕らがした行動の結果。増えているのか」


 そんなのどうでもよかった。とにかく早く、家に帰りたかった。


 きっとこれは夢だ。家に帰って、布団をかぶって目をつむれば、空に星が……穴が増えるなんておかしなこと、きっとなくなってる。


「向こう側の人が。どうして。僕らを見ているのかも気になる。僕らはなんなのか。実は実験対象? それとも。相手は高次元の存在?」


 だんだん、上野の喋り方が嫌になってくる。


 大体こいつは、なんでこんなどうでもいいことばっかりぶつぶつ言ってるんだろう。原因がわかったって、どうにかなるわけじゃないのに。


「昨日までは。星が増えてなかったのも気になる。どうして。今日になって突然――」

「いちいちそうやってまるつけて喋るのやめてよ! ウザいんだって!」


 私は上野に向けて怒鳴った。久しぶりに大声を出したせいで、声が途中でひっくり返った。


 上野は驚いて私を見つめた。しばらく固まっていたけど、恐る恐るといった調子で、私に聞いてきた。


「あの……まるつけて喋るって。どういうことですか」

「句読点つけて喋るってこと! なにだ。なにだ。っていちいちまるつけて喋ってて、キモい!」

「き、キモいって」


 言っちゃってから、言い過ぎたかなと思ったけど、もうこんな男と二度と会いたくない。


 上野はショックを受けてふらついていた。だけど、しなびたもやしみたいになっていた顔が、突然ハッと覚醒した。


「句読点?」


 もう一度望遠鏡に飛びつき、レンズを覗きこむ。


 暴言を吐いてしまった手前、二の句を継ぐわけにもいかず、私は何も言わなかった。そっぽを向いて、また変なことをしている上野を、そろそろ強引に置いて帰ろうと思い始めていた。


「工藤さん。僕がまた変なことしてるって思いました?」

「は?」

「今。また穴が増えました。僕が何かを思考した数とは合わない。行動の数とも。台詞の数とも合っていない。それなら」


 上野は横を向き、私を見つめた。


「この穴を増やしているのは。あなたです。これはあなたの。一人称小説なんです」


 めまいがした。


 いよいよおかしなことになってきている。これ以上上野に付き合っていたら、一体どうなるかわからない。


 私は何か言うのを諦めて、上野に背を向け、歩き出そうとした。


「どこに行くんですか」

「家に帰ります。こんな思い、もうしたくない」

「待ってください」


 上野は私の肩を掴む。強い力ではなかったけど、切実な思いを感じて、私は振り向いた。


「なんですか」

「これがあなたの一人称小説だとしたら。あなたの身の回りのものだけが存在していることになる。僕はあなたの認識から外れた瞬間に。消えてしまうかもしれない」

「さっきから何を言っているの」

「工藤さんは。本を読んだことがありますか」

「……そりゃありますよ。それに何の関係が」

「本では句点を打つでしょう。さっきあなたが言っていたまるですよ。いいですか。この空は紙面なんです。あなたが思考して。文が終わって句点が打たれるたびに。紙面に穴が増えていくんです。僕たちは。あなたの一人称小説の登場人物なんです」


 意味がわからない。わかりたくもない。


 私が小説の登場人物? 何を言ってるんだ。


 私は自分で思考している。作者に操られてなんかいない。自分の意思でここに来たし、これまでの人生だって自分の意思で選択してきた。


「ちょっと待ってよ。本の登場人物だとしたら、本が開かれた瞬間に生まれることになるでしょう。私にはこれまでの二十数年の人生があるんです。ポッと出のキャラクターなんかじゃありません」

「世界五分前仮説というのをご存知ですか」


 また知らない言葉が出てきた。私が首を横に振ると、上野は忙しなくまばたきをしてから続けた。


「思考実験の一種です。五分前に。僕たちの記憶も。存在そのものも。世界の全てが創造されたのだとしたら。僕たちは記憶を持っています。でも。その記憶も全て『体験した』と思い込んでいるだけだとしたら」

「そんな……」

「僕たちには区別がつかないんです。記憶と実際の経験の」


 床を踏みしめている実感が消えつつある。いよいよ立ってられなくなってきていた。


 私がへたりこむと、上野は慌てて私のそばにかがみこんだ。


「大丈夫ですか」

「大丈夫なわけないでしょ……」


 上野の言っていることは荒唐無稽で、とても信じられたものじゃない。

だけどそれなら、目の前で増えた穴のことはなんと説明すればいいのだろう。


 増えた星は、空に穿たれた穴だなんて。


 そんなの……私が昔、錐を使って作ったプラネタリウムみたいじゃないか。


「この記憶ですら、偽物かもしれないってことね……」


 私は薄く笑ってつぶやいた。


 段ボールをざくざくと切る感触や、ビーッとガムテープを剥がす音。私がプラネタリウムに潜んでいる時に、穴から飛び出してきた錐がぐるぐると回転していたことさえ、こんなに鮮明に覚えているのに。


 全てが嘘っぱち?


 私の苦労も、努力も、悲しみも、憎しみも、全部作られたもので、今こうやって私たちを見ている誰かの娯楽でしかないっていうの?


 そんなの、上にいて、下にいる人間を人間とも思ってないやつにもほどがあるじゃない。


「……何か方法はないの?」

「はい?」


 聞き取れなかったのか、上野が顔を近づけてくる。


 私は上野の胸ぐらを掴んだ。


「こんなのひどすぎるじゃないの。私だって人間なのに。私が、私を見ているやつの顔を拝んでやる方法はないの? 私たちだけが見られるのは不公平だわ」

「そ、そんなこと言っても。穴を増やしたら向こう側は見えるかもしれませんが。句点を意図的に増やす方法なんて」

「私だって生きてるの。誰かの娯楽のために作られた人形じゃないのよ!」


 上野に当たっても仕方ないとわかっているのに、言わずにはいられなかった。


 私は誰かのために生まれたんじゃない。私は私のために、私の人生を生きるために生まれてきたの。


 おもしろおかしく人生を観測されるために、生きてきたわけじゃない!


 ピピッ。


 その時、また上野のスマホが鳴った。


「あ……予約してたレストランの時間だ」


 上野が間の抜けた声を出した。


 そんなの、もはやどうでもいい。レストランに行って何か食べたって、全てが監視されて、評価されている。それがわかっていて、ものを食べる気になんてならない。


 ピピッ。ピピッ。


 彼が止めないので、通知音は鳴り続けている。


 早く止めて、と言おうとした私の脳裏に、突如二つの穴があいた。


「待って」


 穴は句点だけじゃない。


 もう一つあるじゃないの。


 マッチングアプリ。プラネタリウム。ポッと出。


 それに、このピピッという音。


 もう一つのまる――半濁点だ。


「穴を、増やせばいいのね」


 私は上野の服を離した。自分のスマホを出して、通知音を確認する。アラームの種類はシルクだのチャイムだの、おしゃれな名前がついていたけど、一番私が「ピ」という形容をするものを選んだ。


 上野がようやく自分のスマホの通知音を止めたけど、今度は私のスマホが鳴り始める番だった。


 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。


 大音量で鳴らしながら、望遠鏡で確認する。


 思った通り、すごい勢いで穴が増えていく。


 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。


「何してるんですか」

「穴を増やしてるのよ。半濁点の穴をね」


 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。


「穴を増やして向こう側の人の顔を見たところでっ。どうするんですか!」


 音に負けないように、上野が叫ぶ。


 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。


 そうね、どうしてやろうか。


 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。


 この世界が私の一人称小説だって言うなら、私のものってことよね。


 私が望めば、私の手には、錐だって現れる。


 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。


 私が望めば、私は空だって飛べるんじゃないの?


 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。


 私の体は、今や宙に浮いていた。


 空が暗くなり、星が、いいえ穴がものすごい勢いで増えていくのが、肉眼で見える。


 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。


 小学生のあの時、私がプラネタリウムに錐を持って入るようになったのは、もう誰にも外から穴をあけさせないためじゃない。


 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピ。


 私を覗きこんだやつの目を、中から刺してやるためだった。


 ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ。

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 私にも、あなたが見えるわ。

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天体観測 深山都 @myo_savatieri

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