第25話『公務という名の口実』
---
### シーン構築:『公務という名の口実』
「壬生さん。単刀直入に言います。山本夫婦が、あなたにもう一度、会いたがっている」
畑中の言葉は、埃っぽい資料室の空気に、小さな波紋を広げた。
壬生さゆりは、一瞬、目を見開いた。だが、その表情はすぐに氷のような無表情へと戻る。彼女は窓の外へ視線を向けたまま、吐き捨てるように言った。
**「…お断りしたはずですけど?」**
その声は、ガラスのように冷たく、硬い。
「昨夜、あそこでお会いしたのが全てです。私にはもう、あの人たちと関わる理由はありません」
さゆりは、段ボール箱の一つに乱暴に手を突っ込み、ファイルを整理する作業に戻ろうとした。明確な拒絶の姿勢だった。これ以上、話すことはない、と。
彼女にとって、山本夫婦との出会いは、自身の罪悪感と悲しみを抉る、思い出したくもない記憶。ようやくそれを振り払い、新たな場所で再起しようとしている矢先に、過去から来た使者のような刑事の出現は、迷惑以外の何物でもなかった。
彼女は、畑中の方を振り返りもせずに、苛立ちを隠せない声で続けた。
**「…迷惑なんですよ!」**
その言葉は、刃となって畑中の胸に突き刺さる。
一瞬、心が怯んだ。個人的な感情で踏み込みすぎたか、と。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。それは刑事としてではなく、一人の男としての、彼の矜持だった。
畑中は、ふぅ、と静かに息を吐いた。
そして、声のトーンを意図的に落とし、プロの刑事としての、有無を言わさぬ響きに変えた。
**「…事件の臭いがするんですよ」**
その一言に、さゆりの手がぴたりと止まった。
彼女は、信じられないという表情で、ゆっくりと畑中を振り返った。
「事件…? 何を、馬鹿なことを…」
畑中は、彼女の動揺を見逃さなかった。一歩、デスクに近づき、その端に軽く腰掛ける。目線を彼女の高さに合わせるためだ。
「山本あづささんの死。病院側は『階段からの転落事故』で処理しようとしている。だが、どうも腑に落ちん」
「……」
「JAL機の墜落事故で、病院は野戦病院さながらだった。そんな中、看護師が一人、過労で注意散漫になって階段から落ちた。筋は通っている。…だがな、刑事の勘、というやつですわ」
それは、ほとんどこじつけに近い、ブラフ(はったり)だった。
しかし、畑中の目は、一点の曇りもなく真実を語っているかのように、さゆりを射抜いていた。
「山本夫婦は、娘さんの死に納得していない。そして、なぜか、あなたに会いたがっている。単なる偶然とは思えんですよ」
さゆりは、言葉を失ったように、唇を震わせた。
「…私には、関係ありません」
絞り出すような、か細い声だった。
畑中は、その言葉を待っていたかのように、デスクからすっと立ち上がった。
そして、拒否できない、最終通告を告げる。
**「壬生さん。単なるお願いじゃありません。重要参考人として、署までご足労願えますかな?」**
「参考人…!?」
さゆりの顔から、血の気が引いた。
「私が…何の参考人だというんですか! ふざけないで!」
「ふざけてませんよ」
畑中の表情は、もはや一切の私情を消し去っていた。それは、職務を遂行する、冷徹な警察官の顔だった。
「山本夫婦との間に、何があったのか。あなたがたが何を話したのか。それが、事件解明の重要な手がかりになるかもしれん。これは、正式な要請です」
嘘だった。
しかし、その嘘は、壬生さゆりという、強固な鎧で心を閉ざした女性を、ここから連れ出すための、唯一の口実だった。
公務という、逆らえない力を使ってでも、彼女を孤立させてはならない。山本夫婦と、そして自分と、もう一度向き合わせなければならない。
それは、畑中吾郎の、刑事としての職権濫用であり、
同時に、一人の女性を救いたいと願う、男のエゴイズムでもあった。
さゆりは、わなわなと震えながら、畑中を睨みつけた。
その瞳には、怒りと、恐怖と、そして、どうしようもないほどの深い絶望が渦巻いていた。
だが、彼女はもはや、逃げ場を失っていた。
畑中は、静かに、資料室のドアを開けた。
「…参りましょうか、壬生さん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます