藤原の影
藤原の事故の記憶が、胸の奥を鋭く抉った。
視界の端で、血の色と衝突の衝撃が蘇る。思わず呼吸が浅くなる。
「……彩ちゃん」
上司の声が、私の肩越しに届いた。
「無理はしなくていい。
今日はここまでにして、家で休むといい。
顔色が悪いぞ」
その声音は、いつもの厳しさとは違い、どこか柔らかかった。
私の顔色を見て、気を遣っているのだろう。
どうやら、相当に顔色が悪いようだ。
「……そうですね。
少し、疲れました」
私は視線を逸らし、短く答える。
上司は深く頷き、鑑識班へ指示を飛ばした。
「残りはこっちで進める。
彩ちゃんは帰っていい」
その言葉に、胸の奥で張り詰めていた糸が少し緩む。
けれど、同時に――藤原を失ったあの日の痛みが、再び鮮明に蘇っていた。
私は現場を後にした。
冷たい風が頬を刺す。
規制線の黄色が視界の隅に揺れ、私は思わず肩をすくめる。
「矢吹……?」
「何か……ありましたか?
仕事中に上の空でしたので、気になりまして」
私の心臓が一瞬、止まりそうになった。
なんで、そんなことまで知ってるのよ──!
この執事、まさか私を監視してるの?
いや、でも……まぁ、許してあげる。
それだけ真面目に働いているってことだものね。
……でも、どこか不安を感じる。
「……矢吹。
一体、どこからストーカーしてたのよ、この変態執事!」
「ストーカーなどと……。
人聞きの悪い言葉はお控えいただきたいですね」
彼はやや目を細め、困ったように言った。
「そこだけは訂正させてください。
私はただ、旦那様から依頼を受けたまででございます」
「依頼?」
「はい。
お嬢様の仕事に対して心配があったようでございます。
旦那様は、彩お嬢様を溺愛されていらっしゃいますのでね。
『仕事の様子をビデオカメラで収めてこい』との命令を受けた次第です」
「…あら、そう。
相変わらず、父上は親バカだこと」
その言葉に、私の心は少しだけ軽くなった。
「彩お嬢様…」
矢吹が静かに声をかける。
「先ほどから、珍しくお言葉が少なくございますね。
私が執事であることに、不満でもございますか?」
──不満?
この執事、意外に鋭いところがあるわね。
「ほんの少しだけ、考えてほしいだけよ」
私は顔を背けながら言った。
「前の執事、藤原の事件のこと。
あの事件があったからこそ、私は今、鑑識の仕事をしているの」
「そうでしたか…」
矢吹の反応は、意外にも穏やかだった。
その冷静さに、私は少し驚いた。
以前、藤原の事件を口にしたとき、誰もが私を気遣い、話題を変えようとした。
それが当然だと思っていた。
でも、矢吹は違った。
彼は私を過剰に心配するでもなく、ただ静かに受け入れてくれた。
そのことに、私は少し戸惑いを感じていた。
でも、それ以上に心のどこかでほっとした自分がいることに気づく。
「勝手に私の気持ちを推測しないでくれるかしら。
貴方がそばにいることに、不満はないわ。
かと言って、安心するわけでもないけれど」
「さようでこざいますか。
もっと彩お嬢様に安心していただけるよう、頑張らねばなりませんね」
私は、特にその言葉に何も返さなかった。
無言で顔を背けたまま、窓の外を見た。
いつもの風景が目に入る。
見慣れた景色。
安全な場所に帰ってきた安心感。
無事に帰宅した私は、たくさんの執事やメイドたちに迎えられながら、自分の部屋へと向かう。
「おかえりなさいませ!
彩お嬢様」
「ただいま。
やっぱり、家が一番落ち着くわ」
そう呟いて、私は自室のベッドに身を投げた。
心地よい布団の感触が、心を包み込むように広がる。
でも、その中にひとしずくの寂しさが、ふわりと浮かんでいた。
藤原のことを思い出したせいだろうか。
胸の奥に、重たい石のようなものが沈んでいる。
「……彩お嬢様」
いつの間にか、側から矢吹の声がした。
部屋に入る前にはノックをしろと何度言ったか。
「お休みになられる前に、温かいお飲み物をお持ちしましょうか」
「いらないわ。
放っておいて」
私は枕に顔を埋めたまま、短く答える。
ほんの少し間を置いてから、矢吹の声が再び響いた。
「……承知いたしました。
ですが、何かございましたらすぐにお呼びくださいませ。
私は、私は旦那さまに呼ばれまして、少々席を外させていただきます」
その声音は、いつもの淡々とした調子なのに、不思議と胸に残る。
彼は本当に、私の一挙一動を見逃さない。
それが時に息苦しい。
――藤原も、そうだった。
私が不安を抱えたとき、必ず気づいてくれた。
けれど、もうその温もりは一生戻らない。
「……矢吹」
思わず名前を呼んでしまった。
「はい」
即座に返事が返ってくる。
「……あなた、藤原のこと……どう思ってるのよ」
一瞬、沈黙。
ドアの向こうで、彼がどんな表情をしているのかは分からない。
けれど、その沈黙が答えのように重く響いた。
「……尊敬すべき方でございました」
矢吹の声は低く、しかし揺るぎない。
「お嬢様を守るために命を懸けられた。
その覚悟は、私の指針でもあります」
胸がきゅっと締め付けられる。
藤原を失った悲しみと、矢吹の言葉が重なり合い、涙が滲みそうになる。
「……そう。
それなら、いいわ」
私はそれ以上言葉を続けられず、ただ目を閉じた。
外では風がまだ強く吹いている。
嵐は去ったはずなのに、心の中ではまだ風が吹き荒れていた。
――けれど、矢吹がいる。
その事実だけが、私をかろうじて支えていた。
何なのかしら──。
ふと、藤原のことを思い出した。
彼は、とことん秘密主義だった。
しばらく席を外していることが多かった。
どこへ行っていたのかを尋ねても、決して教えてくれなかった。
だけど、矢吹は違う。
彼は必ず、行き先を告げてから出かける。
私に余計な心配をかけないための、彼なりの気遣いなのだろう。
……そんなこと、しなくてもいいのに。
私は別に、気にしない。
貴方がどこに行こうが、私には関係ない。
そう思っていたのに──。
しばらくして、ノックもなく扉が開いた。
矢吹が、まるで当然のように部屋に入ってきた。
「矢吹。
パパから解雇通告でも受けたのかしら?」
「なっ……彩お嬢様!?
何をおっしゃいますか」
矢吹は、ほんの一瞬、珍しく動揺を見せた。
「とんだご冗談を。
そんなこと、あるはずがありません」
思わず口元が緩んだ。
少しだけ胸の奥につかえていたイライラが、霧のように消えていく。
「彩お嬢様にも、旦那さまからお話があるそうです。」
「パパから……私に?」
一体、何の話なのかしら。
「わかったわ。
……ちょっと行ってくるわね」
急な呼び出し。
話なら内線電話で済むはず。
わざわざ呼びつけるなんて、まったく──。
ため息をひとつつき、私は立ち上がった。
ぐるぐる、ぐるぐる。
目が回るほど長い螺旋階段を降りていく。
途中で何度も足を止めそうになりながら、それでもエレベーターへ向かう。
──目が回る。
危うく倒れそうになった。
こんなことなら、矢吹に無理矢理でもついて来させればよかった。
エレベーターの扉が開き、私はダンススタジオのある階の廊下へ降り立つ。
磨かれた床が、私の足音を軽く反射させる。
廊下の突き当たり。
そこが、私の父──
この屋敷は、もとは祖父のものだったらしい。
パパにとっては父親。
私にとっては……会ったことのない“影”のような存在。
パパが高校生になるまで、自分が宝月グループの後継ぎだとは知らなかったという。
小さな頃、祖父は交通事故で亡くなったらしい。
……それにしても、どうやってこんな大きな屋敷を建てたのだろう。
住む者さえ迷いそうなほどの迷宮のような家。
パパの部屋の前に立ち、深く息を吐いた。
胸の奥で、微かなざわめきが響く。
そして私は、静かにノックした。
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