事故に見せかけて


 部屋のドアが勢いよく開いた。


「お嬢様、準備は――」


 矢吹は言葉を切った。


 私の顔色をひと目見た瞬間、何かを悟ったようにまぶたがわずかに震える。


「……現場、ですね」


「ええ。


 至急って」


 それだけ告げると、矢吹は深く一礼し、そのまま警戒をまとうような足取りで廊下を駆けていった。


 屋敷の空気が、ひやりと冷たく変わる。


 胸の奥がまた疼く。


 夢の残滓と、藤原の影と、さっき見たニュースの重さ。


 それらが、ひとつの“予兆”みたいに絡みついて離れない。


 バッグを掴み、私は早足で玄関へ向かった。


 外に出た瞬間、黒い車体が音もなく停まる。


 矢吹は運転席のドアを開け、いつものように、けれどいつもより鋭い眼差しで私に言う。


「彩お嬢様。


 ……どうか、気を強くお持ちください」


 その声音には、説明も冗談も一切なかった。


 ただの“覚悟”だけが込められていた。


 私は息をのみ、頷く。


 そして矢吹がドアを開ける。


 ――ここから、またなにかが始まる。


 そう思いながら、私は後部座席に乗り込んだ。


 リムジンは、程なくして小さな公園に滑り込んだ。



「すみません、遅くなりました」


「いやいや、すまないね、彩ちゃん。


 いろいろ、忙しいのに」


 上司の言葉を軽く無視して、エルメスの高級腕時計を見せながら、言う。


「死亡推定時刻は?」


「さ……昨日の、深夜2時だ」


 なるほど。 時間は経っているわね。


 ……かなり。


「死因すらも、わかっていないのかしら。


 これだから日本の警察は作業が遅いのよ。


 アメリカの検死官なら、今頃司法解剖の作業に移っている頃よ、全く……」


「それが……死因は断定できなくてですね」


「あら、もうとっくに、断定済みかと思ってたのに」



 被害者が死亡したと思われる日、昨日の深夜は、暴風雨がひどかった。


 昨日の記憶が、ふと思い出された。


 外の空が裂けたような音がして、窓枠がびり、と震えた。


 稲光がカーテンの隙間から差し込み、室内の色を一瞬だけ白く染める。


 そのたびに心臓が早鐘を打ち、息が浅くなる。


 雷が一度、大きな音を立てて空を引き裂き、家の中にまでその振動を伝える。


 私はベッドに座り込み、膝を抱えて縮こまっていた。

 外の雷鳴に反応するたびに、体が震えている。


 何もできずにただ耳を塞ぐ。


 雷がまたひときわ大きな音を立てて鳴り響き、彼女の体がぴくりと震える。



 その瞬間、部屋の扉が静かに開かれた。


 この男は、相変わらずノックをせずに入ってくる。

 矢吹の姿が現れる。


 いつものように、彼の動きは音も立てず、まるで影のように部屋に入ってくる。


「彩お嬢様」


 矢吹の声が静かに響くと、彩はハッと顔を上げる。


 彼の目はいつも通り冷静で、無駄な感情が込められていない。


 それでも、今日はどこか気配が違った。


 彩の震えを見逃さず、矢吹は手に温かいティーカップを持っていた。


「彩お嬢様は、昔から雷が苦手でございましたね」


 彩はただ黙って頷いた。



 口を開こうとしても、うまく言葉が出てこなかった。


 雷がまた激しく鳴り、全身に震えが走る。


 矢吹はその様子をじっと見つめ、無言でカップを差し出した。


「気温も下がって参りました。


 こういうときは、温かいお茶で心を落ち着けるのがよろしいかと」


 矢吹は何も言わず、ただそれを差し出す。


 彼の表情はいつもと変わらない。


 その手のひらにはどこか優しさが滲んでいた。


 彼が見せたわずかな配慮。


「ありがとう……」


 彩は受け取ったカップを両手で包み込むように持った。


 その温かさが、ほんの少しだけ心を落ち着ける。


 手のひらに伝わる温もりが、まるで矢吹の気持ちを象徴しているようで、なぜか胸が少し痛くなった。


 雷がまた、激しく鳴った。


 今度は、長く、大きな音が響き渡った。


 その恐ろしい音に反応して思わず目を閉じた。


「いや……」


 お茶を持った手がわずかに震える。


「彩お嬢様」


 矢吹の声が静かに響いた。


 その声は、いつもより少し柔らかく聞こえる。



「雷雲が真上にございます。

 

 しばらくは、音も光も強まるかと。


 私は、いつでもここにおります。


 少しは、私に頼ってはいただけませんか。


 私は、彩お嬢様をあらゆるものからお守りするためにお仕えしているのですから」


 稲妻が再び走り、腹の底まで響く轟音が落ちてくる。


 思わず指先に力が入った。


 彼は、そっと私の手からティーカップを引き抜くと、ベッド脇のサイドテーブルに置いた。


 そして、椅子に掛けてあったモコモコ素材のカーディガンをそっと私の肩に掛ける。


「冷えてまいりました。


 執事として、主にお風邪を召させるわけには参りませんので」


 思わず、彼の顔を見つめた。

 矢吹は無表情のまま、ほんの少しだけ、優しさをにじませた目で私を見つめていた。


 部屋の中に響くのは、ただ風と雨の音、そして雷の音だけだ。

 時折、遠くから落雷の音が轟き、窓の外が白く光る。その度に、また私の身体が小さく震える。


「彩お嬢様」


 矢吹は再び静かな声で呼びかける。


 彼はサイドテーブルに置いた。ティーカップを一度手に取った。


 また静かに彩に向けてカップを差し出した。


「温かい紅茶が冷めないうちに、どうぞ」


 その言葉に、彩は再びカップを手に取る。


 彼の気配が近くに感じられる。



 たったそれだけのことなのに、雷の音が少しだけ遠くに感じられる気がした。


「……矢吹」


「はい、お嬢様」


「あなた、ずっと私の傍にいなさいよ」


 その問いに、矢吹はほんの少しだけ間を置いてから答える。


「……お嬢様が安心されるのであれば、私の寿命が尽きるまでお付きいたします」


 その言葉には、誠実なあたたかさが滲んでいた。


 外では、激しい雷の音が鳴り響いた。


 雨はますます強くなリ、ときおり激しく風が窓を叩いた。


 しかし、部屋の中では、矢吹の温かい気遣いが少しずつ彼女の震えを鎮めていった。


 彼が差し出したお茶の温もりが、静かな夜に溶け込むように広がっていった。


 決して、矢吹が男の人として好きとか、そんな感情は全くない、ない。


 地球の陸と海の割合が逆転するくらいありえない!


 ぶんぶん頭を振って、思い出したそれを脳内から追い出した。


 今は仕事中だ。

 集中しなくては。



 近くの倉庫のシャッターは、かなり年季が入っていて、補修を繰り返していたという。


 暴風雨の夜、そのシャッターが外れて飛び、被害者に直撃した――


 そう見えた。


 シャッターだけでなく、ブロック塀も倒れていた。


 現場の状況だけを見れば、胸部を強く圧迫されて「圧死」と判断してもおかしくない。


「そういうことだと思うわ」


 私はそう口にした。


 だが、上司は首を横に振る。


「彩ちゃん……まあ、その線もあるけどね。


 だが、被害者は背中からナイフで刺されていたんだ」


「……ナイフ?」


 思わず声が硬くなる。


 事故死に見せかけた他殺。


 暴風雨の混乱に紛れて、誰かが背後から刃を突き立てた。


 シャッターや塀の崩落は、あくまで“偽装”にすぎない。


「被害者が加害者と揉めて……勢いで刺した、ってことじゃないの?」


 私は肩をすくめて言ったが、心の奥では違うと分かっていた。


 この場にこれ以上留まるのは危険だ――


 本能がそう告げている。


 圧死って聞くと……思い出してしまう。

 

前の執事、藤原の事故のことを。


 思い出すたびに胸が締め付けられる。


 トラックが藤原の車にぶつかり、瞬時に全てが崩れた。


 その日のことを、私は今でも鮮明に覚えている。


 バックミラーで見た蛇行するトラック。


 その時から、藤原が何かを察していたのだろう。


 その微かな違和感に、何か嫌な予感が胸をよぎった。


 藤原はすぐに無線を使って、近くを走っている別の使用人の車を呼び寄せた。


 そして、私をその車に乗せ、近くのホームセンターの駐車場へと向かわせた。


 その時の藤原の動きは、どこか冷静でありながらも必死だった。


 駐車場に着いた直後、藤原が車を降りて、あの危険な運転をしている車に駆け寄った。


 もし運転手が急病で意識を失っていたのなら、すぐに止めないと――。


 藤原はそう思っていたのだろう。


 無我夢中でその車に近づいた。


 しかし、それはまさかの最期の瞬間だった。


 その車は一度減速するどころか、急に加速し、藤原目掛けてまっすぐ突っ込んできた。


 藤原がその瞬間、何かを感じ取ったのか、それともただ無力だったのか。


 その車は一瞬で藤原を跳ね飛ばし、その後すぐに消えた。


 私はただ、凍りついたようにその光景を目撃することしかできなかった。


 あの時も「事故」に見えた。


 だが、今思えば――


 本当に偶然だったのか。


 藤原の死と、この公園の事件。


 何かが一本の線が繋がっている気がしてならない。




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