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リビングの明かりを背にして廊下に出ると、


湯気の残った体に家の冷たい空気がふわっと触れて、


さっきまで温泉みたいにぼんやりしていた意識が、


少しずつ現実の輪郭を取り戻していくような気がした。


廊下の床板は昔からのままで、


踏むたびに小さく軋んで、


その音だけが家の奥まで染み込んでいくように響いた。




自分の部屋の前で立ち止まり、


取っ手に触れた瞬間、その冷たさに驚いた。


この家が持っている冬の冷気は、


都会で感じていた冷たさとは違って、


どこか土や木や空気の層まで一緒に入り込んでいるようで、


触れた指先からじわじわと時間の重さを思い出させた。




ドアを開けると、


長いあいだ誰も足を踏み入れていなかった空気がゆっくり流れ出して、


ほんの少しだけ埃の匂いと紙の乾いた匂いが混ざっていた。


電気のスイッチを押すと、


ぱち、と小さな音がして、


白い光が部屋の隅々へ広がり、


机や棚やベッドの角を静かに照らしていく。


中学生のころから使っている家具たちが、


その明かりに照らされた途端、


過去と現在の境目を曖昧にしてしまうような存在感で浮かび上がった。




机の表面には、


当時使っていたシャープペンの跡が無数に残っていて、


授業で描いた落書きや、


友達とふざけて書いた文字の跡が薄く刻まれていた。


ペン立ての中には、


インクの出ないサインペンや、


キャップが緩んだままのボールペンがそのまま突き刺さっていて、


誰にも気づかれないまま時間が止まっていた。




本棚の前にしゃがんで眺めると、


昆虫や植物や海の生き物の図鑑が


きっちり整列したまま並んでいた。


夏休みに読み込んだページの角は折れていて、


好きだった昆虫のページだけ色が濃くなっている。


手を伸ばして一冊抜くと、


紙が乾いている感触が手のひらに伝わり、


開いた瞬間に、


あの頃外で虫を追いかけていたときの土の匂いや、


草むらを歩いたときの湿った空気の記憶が戻ってくるようで、


胸の奥が少しざわついた。




「将来は生物学者になる」


本気でそう思っていた時期が確かにあった。


世界中の生き物を見てみたい、


標本を作りたい、


研究者の白衣を着たい、


そんなことばかり考えていた。


棚の端に立てかけてあったノートをひらくと、


拙い字で「羽化観察」と書かれていて、


幼い自分の集中した息づかいが紙にこびりついている気がした。




ノートを戻すと、


小さな紙埃がふわっと舞った。


部屋の空気は冷たくて静かで、


時間がゆっくり沈んでいるようだった。




布団の上に腰を下ろし、


そのまま横になった。


布団は母が敷いてくれたもので、


太陽に当てたような淡い匂いがして、


それが吸い込まれるように鼻に届いた。


天井を見ていると、


遠くの部屋で父がニュース番組のチャンネルを変える音と、


台所で母がコップをすすぐ水音が小さく混ざり、


家が今日も静かに動いていることが分かって、


少しだけ安心した。




けれど、目は冴えていた。


眠れる気配はどこにもなくて、


ただ夜が広がっているだけだった。


枕元のスマホを手に取り、


画面をつけると、


暗かった部屋の中に四角い光が滲んで、


画面に並んだアイコンが一つずつ浮かび上がった。




特に何かを期待したわけではない。


ただ指先が勝手に動いて、


一覧を流していくと、


その中にひとつだけ、


見覚えの薄い青と白のアイコンが目に入った。




「E.D.G.E.」




名前だけでは何のアプリか分からなかったが、


休職に入る前の、


眠れずに深夜の勢いでいろいろインストールしていた頃を思い出し、


これもそのときのひとつなんだろう、とすぐに納得した。


もう何を削除して、何を残したのか覚えているはずもなかった。




アイコンに小さく「1」と数字がついていた。


たぶん、誰かの投稿か、


どうでもいいお知らせだろう。


たいした意味はない。


でも、その数字だけが、


布団の中の静けさを少しだけ揺らした。




親指を画面に近づける。


押すか押さないかなんて、


どちらでもいいはずだった。


だけど、夜は静かすぎて、


何かに触れていたくなる瞬間がある。




画面を押すと、


読み込みのあと小さなチャットルームの一覧が現れた。


“雑談”“夜更かし”“寒い人”


特別なものは何もなく、


どこにでもある名前が並んでいた。


その中の一つにだけ、未読の「1」がついていた。



ゆっくりタップする。


白い画面に切り替わる。


何も飾りのない余白の上に、


たった一行の文字。




『まだ起きてる人いますか』

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